顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

鎌倉殿の13人…八田知家の小田城(つくば市)

2022年11月13日 | 歴史散歩

NHK大河ドラマで市原隼人が演じる北関東の御家人八田知家は、胸をはだけた野性的な姿でお茶の間を賑わしましたが、11月6日放映時に「隠居しようと思っている」と述べて、出演の終わりを示唆していました。この八田知家は、生没年も不詳の謎につつまれた武将なので、他の御家人のように抹殺されぬストーリーで退場できたのは何よりです。(写真はNHKの番組案内より)

さて、八田知家が初代の常陸国守護に任ぜられ、この地に築いたのが小田城です。
知家は下野国(栃木県)の宇都宮宗綱の4男で、姉の寒川尼が頼朝の乳母であった関係もあり 頼朝の信任も厚く、常陸国南部に勢力を拡げていきました。
しかし400年に及ぶ小田氏の治世は決して穏やかではなく、南北朝期には7代治久が南朝方の北畠親房を迎え入れたために、北朝軍に攻められて降伏、8代孝朝は勢力を挽回しますが、鎌倉府に反抗した小山若犬丸を匿ったために討伐されています。北畠親房の「神皇正統記」は、この小田城で書かれたことで知られています。

戦国時代に再び勢力を挽回しますが、15代氏治の代には江戸氏、大掾氏、結城氏、佐竹氏などの近隣勢力や後北条氏や上杉氏などの侵攻勢力との抗争で、何度も落城の憂き目を見ますがその都度土浦城へ逃れ小田城奪還を繰り返します。天正2年(1574)には佐竹義重によって土浦城も落城し、救援を求めた北条氏政も秀吉に滅ぼされたため、小田氏の所領はすべて没収されました。のちに秀吉に許された小田氏治は結城秀康の客分として300石を与えられたと伝わります。
城には佐竹氏の一族、小場義成が入りますが、慶長7年(1602)に佐竹氏の秋田移封で廃城になりました。

筑波山の東側に位置する宝篋山(461m)の南麓に広大な城域を構えた平山城です。

鎌倉時代以降何度も作り替えられ、廃城後に土塁を崩して堀を埋めるなどの改変が行われています。現在確認できる遺構は最終期の戦国時代のもので、方形のⅠ郭(本丸)を中心に三重の郭が取り囲み、史跡指定範囲でも南北550m、東西450mの規模です。
(google mapにつくば市教育委員会のパンフレットの縄張りを大雑把に落とし込んでみました)


土塁に囲まれた本丸です。もとは関東鉄道筑波線(昭和62年廃線)の線路が本丸を縦断していました。
復元整備では戦国時代最後の地面を約1mの厚さで保護し、確認した建物や池などの遺構をその真上に復元、堀は埋まっていた部分を彫り直し、土塁は本丸の地面より2m高さに盛り上げました。


南東角にある涼台(櫓台)の上に建つ小田城址の碑です。


本丸の北虎口とⅡ郭の間に架けられていた幅3mの土橋が復元されています。


本丸の東虎口とⅡ郭(東曲輪)の間には、木橋と土橋が組み合わせで架けられ、ここが大手口とされています。城址のどこからも北西に筑波山が見えます。


涼台(櫓台)から見た南堀跡と前方には方形の馬出曲輪があります。


北東側の土塁は櫓台状になって堀に張り出しています。堀は幅約20~30m、深さは復元の現状より2m深い4~5mで、底を凸凹にした「障子堀」でした。


小田城の歴史を見守ってきた筑波山は、日本百名山で一番低い山(877m)ですが、関東平野に屹然と立つ姿は古来より「西の富士、東の筑波」と称され歌などに詠まれています。
仙人にとっても馴染みの双耳峰で、多分数十回登っていると思います。

筑波嶺の裾廻の田居に秋田刈る妹がり遣らむ黄葉手折らな                                                                      高橋虫麻呂(万葉集)
をしなべて春はきにけり筑波嶺の木のもとごとにかすみたなびく                                                                               源実朝

行春やむらさきさむる筑羽山 与謝蕪村
赤蜻蛉筑波に雲もなかりけり  正岡子規


平成21年から7年かけて発掘調査をもとに本丸周辺の遺構を復元、小田城歴史ひろばとして整備されました。その駐車場入り口には案内所を設置して400年の歴史を絵巻風に再現しています。

 
城址からは土器類が大量に出土しており、多くの家臣や客人が集まって儀式や宴会が行われた様子や、高級な陶磁器や茶道具も多く含まれ、優雅な暮らしぶりもうかがうことができます。また戦乱を物語る火災で焼けた痕跡の土器や鉄砲玉も展示されています。