顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

会津藩校「日新館」…「ならぬことはならぬ」の教え

2022年11月08日 | 歴史散歩

会津藩の藩校日新館は、寛政10年(1798)に家老田中玄宰の進言で計画され、享和3年(1803)会津藩の御用商人須田新九郎の出資により鶴ヶ城に隣接した地に完成しました。藩士の子弟だけの教育機関で10歳から入学した生徒数は約1000~1300人もいたといわれています。
慶応4年(1868)戊辰戦争により焼失し、現存するのは城址西側の天文台跡だけです。
昭和62年(1987)残っていた図面や資料をもとに総工費34億で現在の地に復元されました。
                                                                                      ※全景写真は日新館ホームページより


南門は、藩主や上級武士だけが出入りを許されているため普段は閉じられ、生徒は東門と西門を使用していました。


2つ目の門は大成殿の戟(げき)門です。扁額の「金聲玉振」は、孟子が孔子を称えた言葉で才知や人徳が備わって大成しているということだそうです。
(※「戟」とは古代中国の武器のことで、戟を持った衛兵が守っていたなどの謂れがあります。)


「大成殿」は儒教の祖である孔子を祀る正殿のことで、他の藩校では孔子廟、聖堂などともいわれています。特徴的な屋根の動物は、大棟の上に火災避けの鬼犾頭(きぎんとう)と降り棟には孔子の徳を慕って現れる鬼龍子(きりゅうし)で、どちらも聖廟を守る霊獣で戟門の上にも載っています。


内部には孔子座像と左右に顔子、曾子、子思、孟子の像、その前には孔子を祭る釋奠(せきてん)に使用する珍しい祭器や祭具が陳列してあります。

東塾には当時の様子がわかる人形の置かれた教室が並んでいます。

「素読所」での教科書は論語、大学などの四書五経といわれる中国の古典です。どの家でも入学する前の6歳頃から近所の寺子屋などで素読をさせていました。また9歳くらいまでは、「什(じゅう)」と呼ばれる10人くらいのグループをつくり、日新館入学前に会津武士の心構えを身につけさせるために「ならぬことはならぬものです」という「什の掟」を暗唱しました。


「書学所」は習字、筆道を学ぶ場で8等級に分かれ、最高の等級「免許」に受かると書道の師範になることが許されたそうです。 


天文台も備えていた日新館では、地球儀などの教材を使い「天文学」や「地学」も勉強していました。 
15歳まで学ぶこの素読所を修了した者で成績優秀な者は講釈所(大学)への入学が認められ、そこでも優秀な者には江戸や他藩への遊学が許されました。


「礼儀作法所」では膳椀の置き方から切腹の作法など、武士としての必要な礼儀作法を学びます。
人形は刀剣の受け渡しを学んでいるところです。片手で懐紙を持ち、相手方に礼を示します。


「素読所」を修了した者で成績優秀なものが入学を許された「講釈所(大学」での学習は、生徒の自主的な研究や討論が主なものでした。


「水練場」は日本で初めて作られたプールといわれます。
池の周囲は85間(約135m)もあり、向井流という泳法と甲冑を付けての水練を学びました。


「武講」は軍事の基礎というべき兵学を研究するところで、城の造り方や軍事教練も行い、今の防衛大学校のようなものでした。当時の兵学や武術に関する貴重な資料を展示してあります。

ところで、大成殿の扁額は水戸藩藩主6代徳川治保(はるもり)の筆で、復元された扁額も水戸家の当主が書いたという話を館員の方から聞きました。
そういえば10数年ほど前に訪れた時にも、館長さんに会津藩は水戸藩と縁があるという話を聞いたことがあり、後で調べたことですが、幕末の会津藩主松平容保(かたもり)は水戸藩6代藩主徳川治保の孫にあたります。というのは尾張藩の支藩で美濃高須藩に養子に入った治保の次男が高須藩9代松平義和(よしなり)となり、その子松平義建(よしたつ)には高須4兄弟という幕末に活躍した息子たちがあり、その一人が会津藩主松平容保です。
さらに藩主容保は鳥羽伏見の戦いの後江戸に戻った時に隠居して、水戸藩9代藩主徳川斉昭の19男喜徳(のぶのり)を養子に迎えています。
このようなことからも松平容保は、水戸藩9代藩主徳川斉昭の7男で最後の将軍徳川慶喜に従って幕末の動乱の波をまともに被ってしまいました。

大成殿の前で紅葉している楷の木は、孔子の生誕地、中国山東省曲阜にある孔子廟にあり、学問の聖木として各地の孔子廟に植えられています。
因みに水戸弘道館の孔子廟に植えられている楷の木は、ここから苗をいただいたと聞いています。


こちらは水戸弘道館の楷の木、さすがに常陸の国ではまだ青々としていました。(10月27日撮影)


孔子廟には付きもの池(泮水)の奥に、鋭角的な山容の会津磐梯山が見えていました。
会津を見守ってきた磐梯山は、鶴ヶ城陥落から20年後の明治21年(1888)、突然大噴火を起こして山容も大きく変わり、集落の埋没や死者477人という大きな被害が伝わっています。