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笠間市のつつじまつりが開催されています。近在に住みながらツツジの時期では初めての訪問ですが、ゴールデンウイーク直前の平日10時前には人混みもなく、見頃は過ぎているということで、500円の入場料は300円に値下げになっていました。
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昭和42年(1967)、笠間市街地を見下ろす標高143mの富士山山頂付近を造成して1,000株のつつじを植え、さらに市民によるつつじ一株運動も始まり、5か年計画を経て昭和46年(1972)に「つつじ公園」として開園されました。
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現在では7ヘクタールの園内には霧島、久留米、日の出、やまつつじなど25品種、約8,500株のツツジが植えられ、市民の憩いの場とともに、ツツジの名所として近隣に知られるようになりました。
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ここの特徴は、山全体に植えられているために、その高低差が見上げる、見下ろすという視界を創り出していることです。
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標高60mの笠間盆地の市街地が一望のもとに見えます。
遠方の山は吾国山(518m)や難台山(553m)です。何度も登らせてもらいましたが、今は眺めるだけになってしまいました。
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ということは市街地からも山頂が真っ赤になっているのが見えるということです。
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公園の周りは、自然の山がそのまま残っています。藤の花が垂れ下がっていました。
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右側の樹木は、ミズキ(水木)です。この時期の山すそに階段状の白い花が目立つのですぐ分かります。
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ツツジの木の下にはカタバミ、ツボスミレ、ジシバリ、ムラサキカタバミ(左上から時計回り)など春の草花が顔を出していました。
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つつじが丘の南の山にある笠間城は、鎌倉時代に笠間時朝が築いてから約750年間、この地の領主歴代の居城で、堀の跡や石垣が残されています。(2017.4 撮影)
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江戸時代には、赤穂に移る前の浅野氏が笠間53,500石の領主となりました。忠臣蔵の浅野内匠頭長矩の祖父長直の時代です。国家老の大石内蔵助も祖父の時代ですが、その屋敷跡には采配を振る討ち入り姿の像が建っていました。
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笠間藩主はめまぐるしく交代しましたが、延亭4年(1747)、牧野貞通が8万石で入封後は、越後長岡藩の支藩として牧野家が9代まで続き明治維新を迎えました。