三方を当時の千波湖と低地に囲まれ、南北に伸びた比高15m前後の半島状台地先端に築かれた連郭式平山城で、平安時代後期に平国香の子孫吉田盛幹が初め館を建てこの地を統治したとされます。この盛幹の子、石川家幹の次男が水戸城を最初に築いた馬場資幹で、建久4年(1193)源頼朝から常陸大掾職と大掾氏の惣領を与えられて宗家を継ぎ、この頃に吉田城は水戸城の支城となったと思われます。
応永33年(1426)になるとこの地は江戸氏の支配下になり、吉田城は江戸氏によって土塁や濠を強化されます。しかし天正18年(1590)江戸氏が佐竹義宣に攻められ水戸は佐竹領となり、佐竹氏は水戸城の増築と城下町の整備に力を入れ、吉田城は水戸城の支城として重臣である猛将、車丹波守斯忠に与えられました。
やがて佐竹氏の秋田移封に憤慨した車丹波は水戸城奪還を企て、捕らえられて磔刑に処せられ城は廃城となり、跡地に水戸藩第2代徳川光圀公開基の臨済宗常照寺が建てられました。
山門にある「佛日山」の扁額には「源光圀」の銘が残されています。
※知人で地元のTさんから情報をいただきました。この扁額の本物は、お寺の蔵にしっかり仕舞われているそうです。また、Ⅴの郭は常照寺の茅場、農地開放で他人のものに、腰曲輪には防空壕があり子どもたちの肝試しの場所、焼夷弾の欠片を拾ったことがあるそうです。
本堂など各所に水戸徳川家の庇護を示す三ツ葉葵紋が見られます。
山門から本堂へ続く長い参道…街なかとは思えない静寂な空間をもつ手入れの行き届いた古刹です。好文亭の襖絵や弘道館に絵を書き残した水戸藩絵師の萩谷遷喬、家老戸田忠則らが墓地に眠っています。
Ⅰ郭の東南西3方には深い空堀が残っています。(写真はⅠ郭とⅡ郭の間の空堀です)
急な崖の中腹には、腰曲輪が城を取り巻くように残っています。(写真はⅠ郭の南側)腰曲輪は斜面の削平地に敵を誘い込み高所から射撃する目的で築かれました。
かっての堀の役目をした2つの池のひとつ、常照寺池から望む比高約15mの城址は、深い湿地に囲まれた堅固な要塞だったことがわかります。
城域は南北約200m、東西約500m、縄張りについてはいろんな解釈があり、地元の広報誌では、Ⅰ郭が本丸、Ⅱ、Ⅲ、Ⅴ郭が二の丸、Ⅳ郭が三の丸で大手門が本丸南東側となっていますが、「図説茨城の城郭」ではⅡ、Ⅲ郭間が大手とし、Ⅴの郭には土塁などはなく蔵や家臣などの屋敷があったのではないかとされています。
近くの住宅地の一画に車丹波の首を埋葬したと言われる車塚があります。小さな祠が見えますが、ここで咳をしたため見つかって捕らえられたと伝わり、車塚には咳の神様が祀られているとあるので、その祠でしょうか。
なお、家康もその死を惜しんだといわれる車丹波ですが、子の善七郎は浅草の頭、車善七の初代であるという説もあります。
吉田松陰が東北遊学の際、嘉永4年(1851)12月19日から翌年1月20日まで1か月水戸滞在の折り、ここに参拝したと東北遊日記に書かれています。「有平原蓋操塲也拜車丹波祠車佐竹氏之臣也佐竹氏徙封時嬰壁戦死云」 (平原あり、蓋(けだ)し操場(磔の地)なり。車丹波の祠を拝す。車は佐竹氏の臣なり。佐竹氏の徒封(しほう)の時、壁(とりで)を要(まも)り戦死すと云う)。
忠義の士が好きな松蔭と、東北に同行した南部藩士江幡五郎が那珂氏の出で母は車丹波の末裔といわれる理由もあったようです。
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