水戸城三の丸の西側に残る堀跡には、大きなイチョウの木が黄葉を見せています。
水戸城は、南の千波湖と北の那珂川に挟まれた河岸段丘の上にある連郭式平山城です。現在も土塁や空堀の遺構が残り、街中での紅葉を楽しませてくれます。
この土塁には上部の堀側に小段状の犬走りがあることから,全国的にも珍しい城郭遺構となっています。
土塁上のケンポナシ(玄圃梨)の大木はすでに落葉していました。
ケンポナシの実が落ちていました。丸く小さな果実をつける肥厚した果柄が名前の由来で、齧るとまさしく梨の味がします。悪酔、二日酔に効くそうですが、毎日嗜んでいる仙人もすっかり酒量が減り、効能のお世話になることもなくなりました。
三の丸には茨城県庁の旧庁舎が残っています。昭和5年建設の近世ゴシック建築様式で、重厚なレンガ張りの外観はロケなどによく使われています。
三の丸にある水戸藩の藩校弘道館は、181年前の姿で残っています。正庁前にある左近の桜の紅葉が正門附塀越しに見えます。
弘道館公園にある梅林、梅の木の紅葉はあまり気にしませんでしたが、梅紅葉(うめもみじ)という季語もあるのを知りました。因みにこの梅は「駒止」という品種で、大輪の白梅です。
散り行くも二度の歎きや梅紅葉 嵐雪
大手橋手前のムクロジ(無患子)の黄葉と重要文化財の弘道館正門です。
面白い形のムクロジの実、丸くて黒い種子は、羽根つきの羽に用いられたといわれています。
三の丸小学校の白壁の塀に黄葉がよく似合います。水戸城址は文教地区になっていて学校が5校もあり、城址のイメージに合わせて建物外観や塀が整備されています。
三の丸から大手橋を渡って大手門を潜り、枡形を曲がると二の丸で、江戸時代は水戸藩の藩庁と御殿が置かれていました。
二の丸、三の丸間の堀は深さ12m、幅40m、下は旧6号国道の幹線道路です。
二の丸には茨大付属小、水戸二中、水戸三高があり、通りの両側は白壁の塀が連なっています。
樹齢400年以上とされる椎の木です。城址には椎の巨木が他にもありますが、籠城の際の食糧確保の意味もあったのでしょうか。
椎の実がたくさん落ちています。仙人の少年時代は戦後の食糧難で、貴重なおやつとして夢中で拾ったことを思い出しました。種子の中の白い部分は今でも甘い味がしました。
見晴らし台から見下ろした那珂川は水戸城の北を守る天然の堀で、那須を源流とし延長150km、ここから10kmくらい下流で太平洋に流れ込みます。
那珂川の河岸から上がった道にある杉山門、向こうに本丸への本城橋が見えます。
二の丸から本城橋を渡った本丸は水戸一高の敷地になっています。立ち入り禁止ですが枡形の先にある薬医門までは見学できます。
「水戸城は建久年4年(1193)源頼朝から地頭馬場資幹がこの地を賜り、常陸大掾に任ぜられたのに始まる」と書かれています。その後江戸氏、佐竹氏、水戸徳川家と約670年の歴史を刻んできました。
この薬医門は建築様式から、安土桃山時代末期の佐竹氏が水戸城主の時期に建てられたものとされています。
本丸と二の丸間の堀の幅は約40m、深さは22mもあり、現在はJR水郡線が走っています。
御三家水戸藩初代は家康の11男の頼房で、慶長14年(1609)藩主になった6歳のこの末っ子のために、家康は城代の芦沢信重に石垣構築を命じますが準備中に家康が亡くなったために頓挫し、3代将軍家光も寛永13年(1636)に水戸城の石垣築造を命じ、伊豆で採掘した石材を江戸に運びますが、この計画も途中で家光が亡くなったために実現しなかったと伝わります。
やがて泰平の世になり、当時の2代水戸藩主光圀は石垣よりも「大日本史」という修史事業に藩の方向を舵取りしたともいわれています。
幕末の藩内抗争と昭和20年の空襲で城内の建物はほとんど消失し堀と土塁が残るだけですが、天然の地形を利用したその規模に御三家の一端をうかがえると思います。
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