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2,3日強い風が吹き、枝にしがみついていた紅葉もほとんど散ってしまいました。なんとか間に合って撮った最後の紅葉の写真です。
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水戸八幡宮は樹齢800年という国の天然記念物指定の大銀杏で知られています。
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訪ねた時には大銀杏は散り始めていましたが、樹高42mの大樹が鳥居のはるか上の空に屹立していました。
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幹周り9mもある樹の下は黄色い絨毯です。稀に葉から実が出るので「お葉付け銀杏」とよばれています。仙人が数年前に撮って社務所でお墨付きをいただいた写真を〇囲みで入れました。
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この八幡宮は、文禄元年(1592)水戸城を手に入れた佐竹義宣公が常陸太田から居城を移す際に水府総鎮守として鎮斎し、文禄3年(1594)八幡小路(いまの北見町)に本殿を創建しました。水戸徳川家の治世になり一時城外に移されましたが、宝永6年(1709)この地に再び遷座され、代々の水戸藩主からも崇敬されました。
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本殿は国の重要文化財に指定されています。
ご本尊の誉田別尊(ほんだわけのみこと)は神格化された応神天皇なので、山門、拝殿などには菊のご紋が付いています。
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標高差約20mの水戸台地上にある八幡宮の北東の崖上に烈公御涼所があります。水戸藩9代藩主、徳川斉昭公(烈公)がここを訪れて眼下に望む那珂川の涼風を楽しまれたといわれています。大きな欅の木が色付いていました。
祇園寺は明の心越禅師の開山、水戸藩2代徳川光圀公の開基による曹洞宗の寺院です。
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心越は廷宝5年(1677)に来日し、天和元年(1681)光圀公の招請でこの場所にあった天徳寺に居住し、元禄8年(1695)の死去までこの寺で過ごしました。
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正徳2年(1712)四世大寂界仙のとき、いままでの岱宗山天徳寺を河和田村に移し、そのあと壽昌山祇園寺と改め、心越禅師をもって開山とし曹洞宗寿昌派の本山となりました。
本堂前の実の付いた大木は、センダン(栴檀)です。
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光圀公が心越禅師に心服したのは、禅宗の高僧であると同時に、篆刻、絵画、書、詩文、琴(七弦琴)など一流の中国文化を伝える技術を持っていたからといわれます。特に篆刻については、「日本篆刻の祖」といわれ、その作品が各地に残っています。
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祇園寺開山の約200年後の幕末、水戸藩は門閥派(諸生党)と改革派(天狗党)による激しい藩内抗争により多数の犠牲者を出しました。水戸市内では天狗党の慰霊碑が多く、明治以降は逆賊の立場に置かれた諸生党ですが、昭和10年(1935)に殉難者525柱の名を記した、この「恩光無辺の碑」が建てられました。
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祇園寺の墓地には諸生党のリーダー市川三左衛門、朝比奈弥太郎や洋画家の中村彝、詩人の山村暮鳥などが眠っています。
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光圀公開基のため薬医門形式の山門には、水戸葵紋がしっかりと付いています。
桂岸寺は、正式には「大悲山保和院桂岸寺」ですが、地元では「谷中の二十三夜尊」という名前で呼ばれています。
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天和2年(1682)檀海和尚が開山し市内の全隈町にあった普門寺を、水戸藩立藩の際家康より付けられた附家老2代中山信正の供養のため子の信治が譲り受け現在の地に開基しました。
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元禄7年(1694)、光圀公の命令により保和院と改称、さらに宝暦5年(1755)に現寺号を称し、京都御室仁和寺末となりました。門跡寺院の仁和寺なので菊の紋が付いています。
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延命地蔵やピンコロ地蔵などの置かれた一帯も鮮やかに彩られていました。
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愛染堂と朱雀門…門は旧水戸城二の丸に在った水戸徳川家霊廟の門と伝えられています。
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隣接して光圀公が名を付けて愛した保和苑があり、60種5000本のアジサイなど四季の花々が植えられています。この明星が池は水戸城の東の水堀の役目をした池の名をとりましたが、光圀公がその池を浚って魚を採ろうとしたときに家老の中山信正が堀の水を抜くとは…と諫めた話が残っています。
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この中山信正はご意見番で知られ、その墓は真北に光圀公の眠る瑞竜山を向いた場所にあり、家紋の「枡形に月」をかたどった墓石に光圀公から贈られた諡号「恭子(きょうし)」が刻まれています。
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社会派、前衛派の俳人として知られる金子兜太が旧制水戸高校在学中に詠んだ「白梅や老子無心の旅に住む」の句碑が置かれています。
水戸市街地から北西に少し離れた歴史あるこの一画は、いまの時期人影も少なく紅葉の穴場でした。
金子兜太好きです💛「銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく」にはびっくりしました🐻
旧制高校の時代から句作していたとは💎✨✨
歴史を感じながらゆっくりと鑑賞できました。
18歳にして老子の心を詠む金子兜太、やはりすごいですね。
コメントありがとうございます。