顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

鎌倉殿の13人…八田知家と常陸の宍戸氏

2022年09月07日 | 歴史散歩

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で市原隼人が野性的な役で演じている八田知家は、藤原道兼を祖に持つ宇都宮氏2代宗綱の次男で源頼朝に仕え、常陸、下野と安芸高田郡に所領を与えられ、常陸守護職にもなりました。本拠地の小田城(つくば市)に嫡子の知重を入れ、四男家政を宍戸荘(笠間市)に配しました。(写真はNHKのホームページより)


小田城の知重はやがて小田氏を名乗り一帯を支配する一大勢力となり、一方家政は侍所別当の和田義盛との和田合戦で戦死するも、子孫は代々宍戸氏を称して400年近く宍戸の地を領しました。
(写真は現在の小田城、再建された土塁と遠くに筑波山です)

さて今回はその宍戸氏の話です。

その居城山尾館(宍戸城)があったとされる涸沼川を望む高台に、江戸時代の明和6年(1769)、宍戸氏の子孫一木(ひとき)氏が作ったと伝わる八田知家と宍戸家政供養の五輪石塔が建っています。


代々墓碑には、「八田四良左衛門尉筑後守常陸介知家」から「宍戸四良左衛門尉安芸守常陸介家政」、その後の歴代宍戸領主が記されています。

古い石塔などが約400年近い一族の歴史を語っているようですが、詳細は不明です。
鎌倉時代の宍戸氏は無難に乗り越えましたが、戦乱の時代には南朝支持から北朝へ転じたり、また近辺の大勢力の上杉氏や後北条氏、佐竹氏、大掾氏、江戸氏などの間で離合集散せずには存在できず、最終的には江戸氏に味方した宍戸義綱は佐竹氏に滅ぼされてしまいます。庶流の宍戸義利が佐竹氏に従属して海老ケ島城に配されますが、佐竹氏の秋田移封には従わず、一族の宍戸源左衛門秀知などが随従し秋田佐竹氏直臣として代々仕えたといわれています。

佐竹氏と入れ替わりに、慶長7年(1602)出羽国秋田より秋田実李が5万石で移封され、近世の宍戸城が新しく北東に築かれました。安倍貞任の後裔を称し平安時代後期から出羽、津軽地方を領する名族が、この地に新しく築城しなければならない不満があったようですが、5万石にふさわしい城下町をつくりあげました。しかし正保2年(1645)秋田俊季のとき陸奥国三春へ転封となり、その後は幕府直轄領となりました。

宍戸歴史民俗資料館にある秋田氏時代の宍戸城絵図に、宍戸氏時代の宍戸城を置いてみました。説明文には、初めに新善光寺跡に館を造り、のちに古舘に移したと書かれています。
この場所には、建仁3年(1203)家政の弟七郎朝勝が新善光寺という堂宇も建て、善光寺式阿弥陀三尊像を安置しました。小田氏や宍戸氏は篤い善光寺信仰を持っており、八田知家は「新善光寺殿」という法号で呼ばれることもあったそうです。
長野善光寺信仰は平安時代末期から全国的に広まり、鎌倉時代には各地に「善光寺」という名前の寺院が多く建てられ、阿弥陀如来像(善光寺仏)が祀られるようになりました。現在でも「善光寺」を正式な寺名とする寺院は全国に119寺もあるそうです。
なお最後の当主宍戸義利が、佐竹氏の命で配された海老ケ島(筑西市)に移した新善光寺は、現在も時宗の寺として残っています。


また、笠間市住吉の教住寺には宍戸氏7代朝里を供養した五輪石塔が残っています。朝里は鎌倉末期の徳治元年(1306)生れ、南北朝の激動の時代に勢力を拡大し、初代八田知家の菩提を弔うこの教住寺を建てたと伝わります。


住吉山教住寺も長野善光寺ゆかりの時宗のお寺です。前述の新善光寺本尊の阿弥陀三尊像は、ここに伝えられているという情報もありました。


そういえば宗家の小田氏の建立した善光寺が石岡市にもありました。現在は廃寺で、数年前に訪れた時には本堂は崩れ落ちた無残な姿でしたが、裏手に小田一族の墓といわれる五輪塔がひっそりと並んでいました。
拙ブログ「荒れ果てた寺…善光寺楼門 2018.8.7」で紹介したことがありました。

この善光寺の楼門は国指定重要文化財です。文亀元年(1501)小田城主13代の成治が小田家菩提寺の山之荘村小野の「新善光寺」を深く信仰していた母堂が出家の身となった時、その願いでこの地に「月光山無量寿院善光寺」を建立したと伝わっています。


ところで中世宍戸城の約1キロ北にある唯信寺は、宍戸家政の弟宍戸義治が、近くの稲田草庵に住まわれていた親鸞に帰依して唯信の法名を賜り、弘長元年(1261)に開いたと伝わる真宗大谷派の古刹です。

以後歴代の住職は宍戸姓を名乗り、現在の住職は家政から数えて26代目になるそうです。昭和20年に空襲により本堂が全焼、戦後再建されて、今は桜の名所としても知られています。

秋田氏が三春へ転封となった宍戸の地は、天和2年(1682)水戸藩2代藩主徳川光圀の末弟松平頼雄が1万石で立藩、本丸跡に陣屋を設け、以後松平氏が代々宍戸藩を治めましたが、幕末の天狗党の乱に巻き込まれ、悲惨な歴史を残しました。
拙ブログ「宍戸城から宍戸陣屋へ…悲劇の宍戸藩 2018.1.16」で紹介させていただきました。

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