二度目の紹介です。敵の大軍というか、ものすごい蚊の襲来に耐え切れず短時間の攻防で退却してしまいました。
ここはお城マニアの春風亭昇太師匠もスゴイ!と感心した知られざる名城です。師匠のブログ「ザブトン海峡航海記」でも紹介されており、著書「城あるきのススメ」でも絶賛されているそうです。(縄張り図は、茨城町史より拝借いたしました)
しかし築城の主、時期などは不明で、鎌倉殿の13人、八田知家の嫡子小田知重の3男光重の築城説や、応永年間(1417頃)大掾詮幹の3男義幹による築城説などがありますが、どちらも裏付ける資料がないというのが現状のようです。
文明13年(1481)大掾氏の水戸城を攻め取った江戸氏と交誼を結んでいた小幡氏は、天文元年(1532)当主小幡義清が参拝中の大洗明神下で江戸氏によって謀殺されたため完全にその支配下になります。大規模な城の構築はこの時期の江戸氏によるものとされ、南方の小田氏、大掾氏らに対する備えとしたといわれます。その後天正18年(1590)、秀吉によって常陸国の所領を安堵された佐竹氏が、江戸氏の居城水戸城や周辺の諸城を一気に攻め立て、小幡城も瞬く間に落城してしまいます。しかし12年後には、その佐竹氏も関ヶ原の戦いでの態度を家康に咎められ、出羽の国への移封により近辺の城はすべて廃城となりました。
三方を湿地に囲まれ西に広がる南北約350m東西500mの舌状台地に築かれたこの城の特徴は、地方の小領主の城にしては膨大な土木量で築かれており、しかもその主郭部がほとんど手付かずで残存しているということです。
また、迷路のように張り巡らされた、高いところでは10m、幅も20m近くある空堀もこの城の特徴で、その大きさに驚かされます。上からの攻撃を受けながら、その切岸を攀じ登ることは不可能です。
空堀に突入した敵は必ず巨大な切岸に突き当たるようになっており、複雑な屈曲によって敵は自分の位置が分からなくなってしまい、いつの間にか城の外に出てしまいます。
Ⅰ郭を守る4郭との間は二重堀になっていて、その土塁上は凹型の変形武者走りが掘られ、兵は姿が下から見えずに塁上を移動して、堀底の敵を攻撃できます。これは他の城では類を見ない遺構といわれています。
変形武者走りと、左手にⅠ郭下の空堀を監視する櫓台跡です。
郭との間をつなぐ土橋の跡です。
本丸は一辺が約100mの四角形で、周りを高さ5mくらいの土塁で囲まれています。空堀を5m掘り下げその土で5mの土塁を築き上げたということになります。重機のない時代の土木工事にどのくらいの人数が従事したのでしょうか。
落城の際、姫君が家宝の黄金の鳶を抱えて身を投げたと伝わる井戸が、本丸にあります。
城の鬼門の位置にある香取神社です。
香取神社から見た城跡、手前には寛政川が今も流れています。
大手門があったとされる辺りです。東関東自動車道で分断されてしまいました。
約600m東南にも外郭南堀跡が残っていて、この城の外郭の大きさに驚きます。Gooogle Earthで見ると周りを城域のように見える地形が囲んでいますので、守備兵力から見てもあり得ませんが、白い破線で囲み、暫し空想の世界に遊ばせていただきました。
広い駐車場もでき、城内の案内板も要所に建てられましたので迷うこともなく城攻めでき、お城好きの方にはおすすめの常陸国の中世城址です。時期によっては蚊の大軍が待ち受けていますので、対策をしていくことをお勧めします。
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