
偕楽園とともに水戸の梅まつりの会場になっている弘道館は、天保12年(1841)水戸藩9代藩主徳川斉昭公が創立した水戸藩の藩校です。正門と正庁、至善堂は、幕末の藩内抗争や昭和20年の水戸大空襲を奇跡的に免れ、現存する数少ない江戸時代の教育施設として、国の重要文化財に指定されています。

正門は藩主が来館する際など正式の場合のみ開門し,教師や役人たちは正門右手にあるこの通用門から出入りしていました。現在でもここから入ると料金所があります。

弘道館の本館には藩主臨席の儀式や大試験を行う正庁と、藩主の休息所と諸公子勉学の場所の至善堂があります。当時の敷地内に文館、武館、医学館、天文台などがありましたが、藩内抗争の最後の戦いで焼失してしまいました。

正庁はいろんな儀式を行ったり、藩主が臨席をして学問の試験や対試場の武術の試合を観覧したところです。

正庁の南側にある、武道の試合をする対試場に面した長押に架かる扁額には、斉昭公が篆書体で「游於藝(げいにあそぶ)」と書いてあります。藝とは六芸(りくげい)のことで、礼(儀礼)、楽(音楽)、射(弓術)、御(馬術)、書(習字)、数(算数)をいい、「文武にこりかたまらず悠々と芸をきわめる」という意味です。

正面の式台をあがったところにある諸役会所には、水戸藩の藩医松延年が揮毫した「尊攘」(尊王攘夷)の雄渾な書が掲げられています。

各部屋は畳廊下で結ばれており、写真の二の間畳廊下の長押や柱には明治元年の最後の藩内抗争で付いた銃痕や刀傷が残っています。

藩主が臨席する正席の間の床の間に掲げられているのは、弘道館の建学精神を刻んだ弘道館記碑の拓本です。

この十間畳廊下の先に、藩主来館時の休息所と子息の勉学の場の至善堂があります。

至善堂の一番奥の部屋が御座の間です。

御座の間は、斉昭公の7男で最後の将軍慶喜公が幼少期にここで学び、明治元年(1868)には同じ部屋で厳しい謹慎生活をおくったことで知られています。

至善堂の外ではサンシュユ(山茱萸)が満開でした。

正庁と至善堂の間の中庭は普段目を向けない一画ですが、この季節は白梅が主役になっています。

弘道館内の梅林でもいろんな梅の花の饗宴が見られます。花弁の底が濃い紅の花は、「鈴鹿の関」という品種です。

至善堂を覆う梅花の中に、水戸の六名木「月影」も咲いていました。

藩校としては当時全国一の規模を誇った面積約10.5haの敷地ですが、現在は有料区域に弘道館本館と梅林があり、その周りにもある梅林には弘道館付属施設や旧県庁舎など公共の施設があります。

弘道館に隣接したこの梅林は、藩校当時は文館のあったところです。

当時の藩校には付き物の「孔子廟」、弘道館建学の精神である「神儒一致」にもとづいて建てられ、儒学の祖である孔子を祀っています。

「神儒一致」「文武不岐」をうたう弘道館のもう一つの拠りどころの鹿島神社は、鹿島神宮から分霊された「武」の神様、武甕槌命(たけみかづちのみこと)を祀っています。

孔子廟の西側にある鐘楼には、弘道館の寄宿生や学生に時を告げた斉昭公自鋳の鐘「学生警鐘」(複製。実物は館内展示室)が吊り下げられています。
薄紅色の梅は、「トキノマイ(朱鷺の舞)」という品種です。

藩校当時の敷地中央には、弘道館の建学精神を刻んだ弘道館記の石碑が納められている八卦堂が建っています。東日本大震災では碑の一部が崩落し、文化庁が6か月をかけて修理復元しました。(弘道館正庁正席の間に拓本が展示されています)
堂を覆っている梅花は「八重寒紅」です。

種梅記碑は、斉昭公が水戸に梅を植えた由来を書いたもので、独特の水戸八分という隷書体で彫られています。その中で梅は風雅を鑑賞して戦さでは食糧に役立つので備えあれば憂いなしと述べられています。(拓本は弘道館内に展示されています。)

樹齢300年以上のクスノキ(楠木)に覆われて「要石歌碑」があります。斉昭の自詠自筆で「行末(いくすえ)も ふみなたがへそ 蜻島(あきつしま) 大和の道ぞ 要なりける」と流れるような草書体が彫られています。(弘道館至善堂御座の間に拓本が展示されています)

旧弘道館敷地内に建つ昭和5年建築で近世ゴシック様式の旧茨城県庁本庁舎は、レンガ張りの重厚な外観でいろんなロケや撮影に使われています。
弘道館の有料区域の入館料は…
大人420円、小中学生210円、シルバー(70歳以上)210円
団体(20人以上)大人320円、小中学生160円、シルバー(70歳以上)210円
開館時間 2月20日~9月30日:9:00~17:00
10月1日~2月19日:9:00~16:30
休館日 12月29日~12月31日
なお、有料区域以外はいつでも解放されています。
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