霞ケ浦に張り出したかすみがうら市の出島にある崎浜横穴墓群です。
無数の牡蛎殻が積もった化石床の崖に並ぶ横穴が、異様な光景を見せています。
約12万~13万年前のこの一帯は海の中で東京湾の一部となり、真牡蛎が積もるように繁殖していたと思われます。
上記の現地案内版によると…地球の12万年前からの長い歴史の一コマを見ることができます。
➊約12万~13万年前、古東京湾時代のこの一帯は海の中で、真牡蛎(まがき)の貝殻が潮流によって集積し自然に積もって化石床を作りました。
➋約2万~3万年前の海退期、大陸にマンモスがいたこの時代は気温が低い氷河期で、海面は今より80メートルも低くなり陸地化しました。
➌歴史は進み約6千年前には地球が暖かく海水面が高くなり、内陸の奥深くにまで入り江ができる「縄文海進」により、今よりも広い霞ケ浦ができ、ここは浸食されて牡蛎化石の崖ができます。
➍やがて人類が現れ、水上交通や魚介漁の便がいいこの地方には人が住むようになり大きな古墳も多く見られますが、大化の改新時の「大化の薄葬令」で墳陵の小型簡素化が行われ、前方後円墳の造営から横穴墳墓に変わっていったといわれます。
この横穴墓群は羨道と玄室の間に段差を設けた高壇式という構造です。
玄室も規模の大小があり、設けられた棺床は1床から3床のものが見られます。
牡蠣殻の壁に囲まれた玄室、古墳のように個人一人の墓所ではなく一族が何度も使用したともされ、副葬品はほとんど発見されていないということです。
棺床が無くなり仏像が置かれている横穴墓もあります。右手に錫杖を持つお地蔵さんでしょうか。
この一画には17基の横穴墓が確認されているそうです。
古墳などの造営、埋葬者はほとんど不詳とされていますが、霞ケ浦市立博物館長千葉隆司さんは、この一帯の加茂という地名や霞ケ浦に面した地理的環境から、大和朝廷で薪や水など厨管理に携わり京都の加茂神社との繋がりのある古代氏族の賀茂(加茂・鴨)との関連性を指摘しています。
北東2キロには加茂神社があります。寺伝では寛正元年(1460)加茂孫四郎が東下の際に京都加茂社よりの御分霊を鎮座させたと伝わります。
小さな神社ですが境内はきれいに掃き清められていました。
また北東2.5キロの牛渡牛塚古墳の案内板には、「常陸国府に下向途中にこの地で亡くなった勅使を慕って泳いできた牛が力尽きてこの地で亡くなり、地元の人が感動して牛塚と名付けた」と書かれています。ここの地名も牛渡になっています。
標高は4mという市内で最も低い場所にあり、直径40m、高さ4mの円墳です。
小さな祠が建っていて、中には石仏が置かれていました。
県内の横穴墓群はこの他にも十五郎横穴墓群(ひたちなか市)、十王前横穴墓群(日立市)など各地にみられますが、いずれも水上交通の好立地で大型古墳が近くにあり、7世紀半ばの古墳時代末期の短い期間の造営によるものです。
写真はひたちなか市の十五郎穴横穴墓群です。那珂川の支流本郷川の台地上にある、彩色装飾で知られる虎塚古墳群の一画に、186基もの膨大な数で残存しています。
大和朝廷から遠く離れていますが、茨城の古墳の数は多く、「茨城県古墳総覧(1959)」によると約3,400、その後の調査で現在では10,000基を超えるともいわれています。その中には舟塚山古墳(石岡市)、富士見塚古墳(かすみがうら市)、三味塚古墳(行方市)などの巨大な前方後円墳もみられます。
これは4世紀から7世紀のころには、大和朝廷の力がこの地方まで広がったことを示しており、支配者の強大な権力の象徴として大型古墳が作られました。しかし7世紀中葉の645年に発令された「大化の薄葬令」で墳墓は小型簡素化されて、新しい形態の横穴墓や方墳などになり、やがて古墳時代の終焉を迎えました。
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