顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

青い稲刈り

2019年09月07日 | 日記

一面の黄金色の穂波…米どころで知られる水戸市東部の稲田でここ数年、異様な光景を目にします。黄金色に染まった稲穂の間にパッチワークのように青々とした稲の田が混じっています。
これはWCS(ホールクロップサイレージ)飼料用稲といい、稲が熟して米になる前に刈りとって、繊維の多い茎葉部分と完熟前の子実部分を一緒にラッピングして発酵させ家畜の飼料にするものです。

特に牛の飼料として、約80%を輸入に頼っているトウモロコシ類と同じ栄養価が期待でき、安定した供給と常陸牛などのブランド力アップ、そして主食用米の生産調整などいいことずくめで喧伝されています。

飼料コンバインで刈り取った飼料用米は、約90cmのロール状に巻かれて排出され、それをラッピングマシーンできっちりと密閉し、積み込む道路際まで運ぶ一連の作業が機械化されています。

從來のコシヒカリを青いうちに刈り取ったりしていましたが、最近では「月の光」「ホシアオバ」など新しく開発された多収品種を栽培することも多くなってきているそうです。
販売価格はいろんな補助金が付くので、主食用の米と同程度かそれ以上になるようですが、長年稲作に勤しんできた方にとっては複雑な思いだと聞きました。
日本古来の稲作文化を守れとか軽々しく言えない時代の波が流れています。

久慈川を配した要害…石神城

2019年09月04日 | 歴史散歩

久慈川に面した比高15m、標高19mの台地の先端に位置する石神城、当時は久慈川が城の東側直下を大きく蛇行しており、さらに南北を深い谷地に狭まれた要害の地にあります。台地つづきの城の西側には幾重もの堀と土塁が台地を遮断して造られています。

近隣の城址の中でとりわけ保存状態がよく、堀や土塁が良好な状態で残存しており、しかも地元の東海村でも石神城城址公園として駐車場、トイレなども整備してありますので(余計な手を加えていない)、藪を歩かなくても当時の様子を偲ぶことができます。
※図は東海村観光協会ホームページより借用しました。

Ⅱ郭北側からみたⅠ郭(遠見城)、城域の中では一番高く詰の城的な役割も持っていたといわれます。また眼下の久慈川の水運を掌握する上での見張り場として機能したかもしれません。

Ⅰ郭(遠見城)は25m✕90mくらいで、三方を囲む堀と土塁は城内で一番強固に作られています。Ⅱ郭との間には木橋が架けられていたとされています。



Ⅱ郭(御城)はいわゆる本丸で約100m✕120mくらいで東京ドームのグラウンドの大きさ、城の主要な建物はここにあったと思われます。
蟬の抜け殻がいたるところに付いていました。大木に掴まっているのは薄い色で小さいので多分ツクツクボウシ、ウバユリの実莢に掴まっているのはアブラセミでしょうか。

Ⅱ郭からⅢ郭への虎口は土橋になっていて、防御のため土塁が食い違いになって造られています。写真はⅢ郭から撮りましたが、右側の土塁が左側より手前で切れています。

Ⅲ郭は100✕110mくらい、Ⅱ郭、Ⅲ郭の縁沿いには桜が植えられており、花見の時には賑わうかもしれません。



深さ7m、幅10mほどの空堀と土塁が那珂川に面した東側を除いて郭全体を取り囲んで、しかも土塁の外側はさらに切岸にするという二重の防御構造になっています。

さて石神城は、石神小野崎氏歴代の居城です。佐竹氏の重臣山尾小野崎氏の庶流で、永享4年(1432)の石神合戦で石神城が初めて歴史上に姿を現しました。この合戦で通房が戦功を挙げ、鎌倉公方足利持氏より感状を与えられたと伝わります。延徳1年(1489)、山入の乱に介入した伊達、葦名、結城らの連合軍が佐竹領に侵入した時、小野崎通綱は佐竹義治の身代わりとなって久慈郡深荻で討死し、佐竹軍を大勝に導いた功により、その子通老に那珂郡石神350貫文などの所領が与えられました。天文4年(1535)、石神城主小野崎通長による「石神兵乱」が起こり、佐竹義篤は石神小野崎氏の同族、額田城主小野崎篤通にこれを鎮圧させ、その後、天文16年(1547)に石神氏と額田氏は領地争いを起こし、額田氏によって石神城を攻め落とされてしまいます。その後石神氏は佐竹義篤への戦功によって石神城主に復帰しますが、慶長7年(1602)、佐竹義宣が出羽秋田へ移封となると、小野崎通広もそれに従って秋田に移り、石神城は廃城となりました。

城址より400mくらい南に、石神城主小野崎氏の菩提寺、長松院があります。 墓地内にかって大きな堀があり寺堀という小字も残っているそうなので、ここも総構えの外郭の内に入っていたとされています。写真は石神城歴代城主の霊堂です。

石神合戦の供養塔も建っていました。塔の下には多量の経石(仏教経典の文字が書かれた石)が埋められているそうです。

住吉山長松院は曹洞宗の古刹、長享1年(1487)、領主小野崎氏の保護により曹洞宗通幻派の雲渓道端が開山したと伝わります。

空蝉のちからの脚に地の月日  宇多喜代子
空蝉の一太刀浴びせし背中かな  野見山朱鳥
空蝉やいのち見事に抜けゐたり  片山由美子