顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

ほしいも神社に初詣…ほしいものすべて手に入るご利益とか!

2020年01月11日 | 日記
干し芋の生産量が日本一のひたちなか市の阿字ケ浦町の堀出(ほりで)神社内に末社として昨年11月に創建されました。

堀出神社は寛文3年(1663)、水戸藩2代藩主光圀公が古墳を掘った際ご神体となる鏡が出てきたことに由来するそうです。

さて金色の鳥居が26基、干し芋の「黄金」色で燦然と輝いています。社紋は「干し」と「星」をかけ、星の中にシワをつけ「干し芋」を表現したそうです。

干し芋の技術革新と普及に尽力した小池吉兵衛ら5人を顕彰碑で「ほしいもの神様」として祭っています。
御利益は干し芋にかけて「欲しいものはすべて手に入る」とか!…、地元では干し芋の聖地として観光振興にもつなげたいといっています。

初詣の押さえに、直ぐ近くの酒列磯前(さかつらいそざき)神社にも詣でてきました。斉衡3年(856)、神が大洗磯前の海岸に出現したので、大洗とここに社を営んで大洗磯前神社と酒列磯前神社になったと伝えられる古くからの神社で、主祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと)、大国主命(おおくにぬしのみこと)と一緒にこの国を造ったという神様です。

太平洋を見下ろす高台にある神社参道は長さ300mで樹齢300年を超えるツバキなどの常緑広葉樹が茂り、この時期には椿の花がたくさん落ちています。

最近ここにお参りして高額当選者が寄贈したという亀の石像を撫でて、近くの超大型ホームセンタージョイフル本田ニューポートひたちなか店で宝くじを買うと当たるといわれているそうです。
年末ジャンボの挑戦は、数年前に諦めてしまいましたが…。

なお、酒列(さかつら)の由来は、周辺海岸の白亜紀層といわれる岩石群が南に傾斜している中で一部が北に傾いている「逆列(さかつら)」からといわれ、後に酒の神を祀るようになり現在の酒列になったとされます。
その岩礁に春の波が元気な飛沫をあげていました。

長塚節…生家と歌碑

2020年01月09日 | 俳句

昨年12月、常総市の豊田城(常総市地域交流センター)を訪ねた時に、郷土の歌人、長塚節の銅像が城の入り口にあり、天守の6階は長塚節の資料展示室になっていました。係の人に聞くと近くに生家が残っているというので行ってみました。

長塚節(明治12年(1879)~大正4年(1915))はこの地の国生村(常総市国生)の豪農で父は県会議員を務めるほどの名士の長男として生まれ、3歳で小倉百人一首をそらんじるほどで神童といわれたそうです。水戸中学にも首席で入るほどでしたが病弱のため中退し、療養のかたわら短歌に目覚め正岡子規に入門しました。

節は子規に地元の産物を送り続け、栗を拾って送った時の子規の礼状が知られれています。
明治34年9月20日付の封書で
栗ありがたく候

真心の虫喰ひ栗をもらひたり

鴫三羽ありがたく候

淋しさの三羽減りけり鴫の秋

病床にて 規   たかしどの


正岡子規の死後「馬酔木」の編集同人として活躍し、伊藤左千夫とともに「アララギ」も創刊した一方、病魔に冒され、婚約をも破棄した節は病気療養を兼ね諸国を旅し、深い透察で自然を詠んだ歌を残しましたが、九州の地で36歳の生涯を閉じました。
明治43年(1910)に朝日新聞に連載された小説「土」は、夏目漱石が絶賛し、現在でも「農民文学不朽の名作」として評価されています。

生家跡の前に立つ歌碑、明治41年5月のはじめ雨の日にあひて興を催してよめると詞書して詠んだ暮春の歌の1首で、30歳のときの作品であると案内板に書かれています。
すがすがしかしがわか葉に天ひびきこえひびかせて鳴く蛙かも


生家近くの空き地にも歌碑がありました。
明治41年、29歳の時に深まりゆく秋の風情を水棹に託して詠んだもので、秋雑詠8首の中の1首である(案内板より)
鬼怒川を夜ふけてわたす水棹の遠く聞こえて秋たけにけり


長塚節の俳句です。
白帆遙にわかさぎ船や蘆の花
芭蕉ある寺に一樹の柚子黄なり
鳴きもせで百舌鳥の尾動く梢かな


部垂(へたれ)城…佐竹氏兄弟の戦いで落城

2020年01月07日 | 歴史散歩

常陸大宮市にある部垂城は、久慈川西岸の比高25mの河岸段丘北側の縁上に築かれた連郭式平山城です。

築城は14世紀に常陸大掾の一族、河崎頼幹が最初といわれ、長禄年間(1457-60)には佐竹の臣、岩瀬一族の小貫頼定がこれを奪い居城とし3代約70年間居城し佐竹氏の宿老を努めます。
しかし享禄2年(1529)には、山入りの乱を収め佐竹中興の祖と言われる義舜の次男で、部垂城隣地の宇留野城主義久の後嗣になっていた義元が攻め落とし部垂氏を名乗ります。

佐竹氏宗家の長男義篤との仲は険悪なものになり12年にわたる部垂の乱が始まり小競り合いが続きます。一時和議も成立しますが、義元の家臣の讒言により天文9年(1540)義篤は700の兵で部垂城を攻撃、義元側は城兵50人で防戦しますが多勢に無勢、駆けつけた義父宇留野義久ともども義元と長男竹寿丸も討ち死にしてしまいます。
奮戦した家臣団は勇猛の士も多く小場城主・小場義忠の指揮下に組み入れられ、秋田移封の際は佐竹本家に属し大館城下に長く居住し、今も大館市内には部垂町(へだれまち)の地名が残っているそうです。

明治15年建立の佐竹義元の墓碑銘、読み下し文によると、城橋の修理を任せた家臣の不手際を叱ったのを恨み、義元に謀反の企みありと宗家へ箴言されての落城、「義元謗りに遭いて家を滅ぼすを伝うべきも亦悲しむべきなり…」と記されています。題額は第8代茨城県令で陸軍練兵場にする計画を斥けて弘道館を守ったことで知られる人見寧、撰と書の野口勝一は野口雨情の叔父で自由民権運動を唱えた政治家です。

城域は東西400m・南北300m、本郭跡には大宮小学校が建っています。周りは市街化が進み遺構はほとんど残っておらず北側などに僅かな土塁の形を見るだけになっています。

幕末にはこの部垂城跡に水戸藩の大宮郷校ができました。関鉄之介や斎藤監物など桜田門外の変を実行した勤王の志士が教授陣に名を連ねており、新しい時代に向かう教育が行われていたことでしょう。

城郭内の甲神社は城の守護神として、歴代城主の篤い信仰を受けてきたようです。
大同2年(807)に藤原良継が勅命を受けて甲明神を祀ったのがはじまりとされ、佐竹氏初代昌義が、源氏の祖である源経基の甲(かぶと)を奉納したことが名の由来と伝わります。

なお、部垂(へたれ)という地名は、語感が悪いと村民から改名願いが出され、天保14年(1843) 村の鎮守、甲大宮(甲神社)にちなみ大宮(おおみや)村となったそうです。
(甲神社本殿は千木のない珍しい造りです)

甲神社の境内には、勇壮な祇園祭(大宮の祇園)で有名な素鵞(そが)神社も鎮座しています。手前が素鵞神社の拝殿と本殿、奥に甲神社があり鳥居まで並んで建っているのは妙な感じですが、元は別な場所にあった素鵞神社が、元禄時代の水戸藩の一村一社制に伴い甲神社の摂社としてここに移されたといわれます。

新春2020

2020年01月01日 | 日記
あけましておめでとうございます。
この地方でも昨年続いた大きな天災を埋め合わせするように、穏やかな正月が届けられました。
暮れの散歩で撮っておいた正月向きの写真です。正月早々の無精ですが、今年も何卒よろしくお願いいたします。

林の中のマンリョウ(万両)、名前が目出度いので正月の縁起ものとして江戸時代から栽培されてきて、多くの園芸種があるそうです。

同じく正月飾りに用いるナンテン(南天)も野生化していました。我が家では北向きのトイレの外に植えたので、実がほとんど生りません。

散歩道に落ちていたピンクの椿、見上げると高い位置に満開です。侘助に似た咲き方をコンデジの望遠でなんとか収めました。

偕楽園に早咲き梅を探してきましたが、去年よりやや遅れていて白梅を数輪探せただけです。猩々梅林でやっと見つけた紅梅一輪、でも遅いくらいが梅まつり期間中の開花にはちょうどいいかもしれません。

偕楽園表門の蝋梅もやっと開いていました。昨年11月からの有料化に伴い表門前に料金所ができ、写真には写り込めなくなりました。

同じく表門前の十月桜は満開です。十月から4月まで花を咲かせますが、春爛漫でなく寒中にひそやかに咲く様に気が惹かれます。

フキノヨウ(蕗の薹)がいつもの土手に顔を出していました。もう少し大きくなったら数個摘ませてもらって新春の苦味を胃の腑に収めたいと思います。

蕗の薹紫を解き緑解き  後藤夜半
蕗味噌をなめて俳諧はかく寂びし  山口青邨
蕗の薹ほじくり出され箸の先  顎鬚仙人


この一年、どうぞ良いお年でありますように…