顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

嶋崎城ふたたび…発掘された石塔の謎

2021年10月10日 | 歴史散歩

10月4日、5日の2日間、嶋崎城址(潮来市)で発掘された歴代供養塔の現場見学会が行われました。2019年12月以来の2度目の訪問です。

本丸虎口の高い土塁は、御鐘台とも呼ばれ、時報や登城合図を知らせる鐘があったといわれます。
昭和55年(1980)、本丸にある御札神社社殿改修工事で資材運搬のため拡幅したところ、土塁下部に3.47mの長さにわたり板碑2点、五輪石塔材40点が敷かれているのが発見されました。その後2回にわたり解明調査をして、土塁の破壊につながるさらなる発掘はせずに埋め戻したそうです。

天正19年(1591)島崎氏を滅亡させた佐竹氏は、農耕に適した温暖で近隣の津(港)を掌握する豊かなこの地の拠点として堀之内大台城を築城しますが、慶長元年(1596)に完成するまでの5年間は城代小貫頼久がここに居城、その時に埋められたと思われます。なお、堀之内大台城発掘調査でも、主殿と城門礎石群はすべて、五輪塔・宝筐印塔・板碑の石塔を転用していることが見つかったそうです。

この石塔類はまた埋め戻されるそうですが、多量の石塔が埋められている謎は、専門家の調査を待たないとわからないとの説明でした。ただ気楽な仙人は、城を攻め落とした佐竹氏の城代、小貫頼久が嶋崎氏の跡形をすべて抹殺したかったのではないかと推測します。多分嶋崎氏を滅ぼした経緯に、疚しいうしろめたさを感じていたのではないでしょうか?
伝えられているこの話は、拙ブログ「頃藤城(大子町)…謀殺された嶋崎城主親子2021年9月14日」で紹介させていただきました。

北側から見た嶋崎城、手前に「お投げの松」が見えます。落城の際、城主義幹(安定)が大事にしていた松の銘木を、奥方が城外へ投げ捨ててしまったのが根付いたと伝わっていますが、松枯れ病で枯れてしまい、三代目の松だそうです。

さて、2年前の訪問時には、生い茂った草木に覆われて全貌がよく見えませんでしたが、今回はびっくりしました。嶋崎城址を守る会の活動により、草木が刈られた城域と歩道、随所に設置された丁寧な案内板、しかも大きな駐車場まで整備されていました。このグループは「嶋崎城址を守る会」というブログも立ち上げているので、詳しい内容がよくわかります。
上記の嶋崎城予測図は当日配られたパンフレット掲載のものです。

広い帯曲輪には休憩できるスペースもできました。右手の切岸は砂岩層、左手の一段下には腰曲輪があります。

大手道を突き当たると、東2郭の高い切岸が行く手を遮ります。右手が1郭虎口方面、左手が帯曲輪を経て物見台方面です。

1郭手前には水場のある水の手廓があり、1廓との間は空堀ですが、もとは水堀だったのではと案内の方の話です。

1廓は土塁で囲まれ、13代嶋崎長国が鹿島神宮の御札を身に着けて戦ったら無傷で勝利したので、その御札を祀ったと伝わる御札神社が建っています。

1廓の虎口を出ると土塁に囲まれた馬出廓があります。本丸攻撃を防ぐ緩衝地帯です

馬出郭から東2郭へ向かう土橋があります、城内には丁寧な案内板がいたるところに掲げられています。

東2郭は四方を深い堀や断崖に囲まれており一番奥に八幡台があります。

八幡台と物見台の間の空堀は最深部で20mもの高さがあります。
この鉄壁ともいえる守りの城も、最後の領主嶋崎安定とその子徳一丸が佐竹氏に謀殺され、その後の攻撃であっけなく落城してしまいます。そしてその佐竹氏も、嶋崎城奪取の11年後には、家康により秋田に移封され、一帯で手に入れたすべての城は廃城となってしまいました。

当日は地元の「嶋崎城址を守る会」の方々が詰めていて案内、説明をしていただきました。

要所には大きな案内看板、地元の活動に触発されて行政も予算を付けたようです。
この壮大で遺構のしっかり残った中世の城跡を、保存、管理されている地元の皆様に多大なエールを送りたいと思います。

秋の気配…緊急事態やっと解除!

2021年10月06日 | 季節の花
結局いつものように派閥の力での新内閣スタート、救いは感染者の激減です。今後も with corona が続くとしても、とりあえず世の中が少し回りだして、気持ちも秋晴れになってきたような気もします。

秋を感じさせる花、ホトトギス (杜鵑草)は、葉や花にある紫色の斑点模様が、野鳥のホトトギスの胸にある模様と似ているので名前が付きました。

県北の山間部に入ると蕎麦畑が多く見かけます。粒ぞろいで香りと甘みに優れている「常陸秋そば」というブランドで出荷するには、栽培方法や種子の検査に厳しい基準が設けられているそうです。

ツリフネソウ(釣舟草)はホウセンカの仲間の一年草、横から見ると舟を釣っているような形から命名されました。熟果に触れるとタネが弾けるのでホウセンカと同じ「私を触らないで」という花言葉も持っています。

イネ科のハトムギ(鳩麦)の実が生っています。古来より食料として利用されてきましたが、現在では漢方薬や健康食品として知られています。

秋の七草のフジバカマ(藤袴)は、花弁の形が袴のような藤色の花という命名説ですが、写真ではよくわかりません。そっくりなヒヨドリソウの花の色は白です。

タマスダレ(玉簾)は細長い緑の葉をスダレに、真っ白な花を玉に例えました。ブラジル原産、日本の風土に合ったのか全国で栽培され、野生化も見られます。

マメ科のエビスグサ(胡草、恵比須草)は、その生薬名ケツメイシ(決明子)、商品名ハブ茶の名の方が知られている薬草です。

紅白のタデ(蓼)の花が咲いていました。イヌタデ(犬蓼)でしょうか、別名「赤のまんま」とともに秋の季語です。一方「蓼食う虫も好き好き」のタデは柳蓼のことで、ぴりりとした独特の辛味を蓼酢にして鮎の塩焼きに添えるそうですが、食したことはありません。こちらは夏の季語になります。

山野であまり見られなくなったオミナエシ(女郎花)、お寺の裏に群生していました。

千波湖畔で撮ったゴキヅル(合器蔓)、ウェブ図鑑で名前が分かったツル性一年草です。面白い名前は、果実が上下に割れた様子を、合器(蓋つきのお椀)に例えて付けられました。

公園の生垣のアベリアは、19世紀にイタリアで作出された交配種で、花期が長く寒さに強いため道路沿いなどにも多く植栽されています。和名はハナツクバネウツギ(花衝羽根空木)、白花もあります。

千波湖畔桜川沿いのガマ(蒲)の穂、晩夏の季語ですが、まもなく爆発するように飛び出すガマの穂絮になると初秋の季語になるようです。 

さざなみをしたがへ蒲の穂の毛槍  鷹羽狩行
焦臭きまで林立の蒲の穂ぞ  伊丹三樹彦
大いなる蒲の穂絮の通るなり  高野素十

北大路魯山人の春風萬里荘(笠間市)

2021年10月03日 | 日記

「なんでも鑑定団」でいつも高額な評価の北大路魯山人の住まいで、昭和40年(1965)に北鎌倉より移築された春風萬里荘、2回目の訪問です。(建物北側に面した枯山水は、京都の龍安寺の石庭を模して造られたといわれます)

この茅葺き入母屋造りの重厚な構えの建物は、御所見村(藤沢市)の豪族で大庄屋の伊東家の母屋で、徳川家康も宿泊したと伝わる由緒あるものを、昭和の初めに北大路魯山人が、北鎌倉の地にひらいた星岡窯の母屋として、もう一軒の慶雲閣と共に移築し自らの住居としていました。

昭和39年(1964)、洋画家朝井閑右衛門と小説家田村泰次郎が、長谷川仁笠間日動美術館前理事長と笠間を訪れた折り、笠間にアトリエを作りたいという作家達の要望から、「芸術の村」の構想が生まれました。そして昭和40年には、北大路魯山人が住居としていた約300㎡のこの茅葺き民家を北鎌倉より移築して「春風萬里荘」と名付け、「芸術の村」が開設されました。
「春風萬里」とは、李白の漢詩にある言葉で、北大路魯山人が好んで用いていたそうです。

明治16年(1883)京都に生まれた北大路魯山人は、はじめ書家として世に出ましたが、篆刻、絵画、陶芸、漆工芸などの多方面にその才能を発揮し、没後約50年以上を経た現在でもその評価は衰えていません。

建物の内部は、魯山人が住んでいたままに残されており、「万能の異才」とうたわれて、万事に凝り性だった魯山人の才能と感性を偲ばせる箇所が随所に見られます。

床の間には、ここを所有管理している笠間日動美術館の所蔵品を差し替えて飾られています。訪問日には、水戸出身の彫刻家木内克の「人魚図」が掛けられていました。

裏手の座敷には、奥谷博の作品が掛けられていました。

裏座敷からの枯山水、垂れ下がった萩の花は計算されているのでしょうか。

長押にかけられた扁額の一部、上から、高橋是清「和風喜気相随」、草野新平「春風萬里」、中村不折「亀鶴年壽斎」です。

作り付けの仏壇は東大寺本堂の屋根組などを模し、地味ながら透し彫りの技巧を駆使していると案内板には書かれています。中川紀元の「南無観世音菩薩」が飾られていました。

驚いたことに、1センチ角くらいの上部垂木全部に、伊東家の家紋でしょうか三柏紋を打ち込んだ金具が嵌め込まれています。

茶室「夢境庵」は、千宗旦によってつくられた裏千家の名茶室「又隠」を手本として、魯山人が設計しました。三畳控えの間、四畳半本勝手、洞庫口水屋からなり、床柱は黒柿、長押は南天の樹を用いています。

茶室から見た木戸、雰囲気がとても出ていました。



おなじみの陶器の作品です。端整な陶磁器とは対極にある力強い、自由闊達な絵付けで「食器は料理の着物である」という魯山人の思想が実践されています。

入口は三和土(たたき)の土間、その左手にある元は馬屋であった洋間の床は、欅の木目を見せた「木レンガ」が敷き詰められて、自然石そのままを組み上げた暖炉、手斧削りの長椅子などと調和しています。

風呂場には、長州風呂と上り湯と洗い場が配され、周りは半円筒形の自作の織部陶板が青竹のようにめぐらされ、棕櫚縄で締めた絵付けが施されています。

ステンドグラスと自作の陶製便器「アサガオ」が3基並んだトイレです。



なんといってもここの魅力は、自然の地形を生かした広大な回遊式庭園です。桜、梅、つつじ、もみじ、花菖蒲などの植物が季節ごとのいろんな表情を見せてくれます。

今までは道がわかりにくい場所でしたが、国道355号のバイパスが完成し、迷わずに行けるようになりました。近くには茨城県陶芸美術館や道の駅笠間もありますので、充実した秋の一日が過ごせることと思います。