顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

歴史を語る銅像たち①…水戸の街角を歩く

2022年08月13日 | 水戸の観光

残暑お見舞い申し上げます。
酷暑続きですねぇ…、さすがの仙人も外出をためらってしまいます。撮ってあった水戸市内に建つ歴史上の人物の銅像を集めてみました。


水戸藩初代藩主徳川頼房です。家康60歳の時の末っ子11男として慶長8年(1603)伏見城に生まれた頼房は、3歳にして常陸下妻城10万石を、次いで常陸水戸城25万石を領しました。17歳の時に初めての水戸就藩、その後ほぼ毎年水戸に就藩し、水戸城の修復や城下の整備を行い水戸藩の基礎を築きました。
彫刻制作は篠原洋、水戸城二の丸の柵町坂下門(水戸三高前)に建っています。


2代藩主徳川光圀は、「水戸黄門」の名で知られています。儒学を奨励し、水戸学の基礎というべき大日本史を編纂し、その資料収集のために各地に家臣を派遣したことや、晩年隠居して盛んに領内を巡り民情視察を行ったことから、水戸黄門漫遊記のストーリーが創作されたといわれています。
能島征二作、南町3丁目交差点南にあり、水戸駅前から大工町までの「黄門さん通り」の中間になります。


9代藩主徳川斉昭は、幕末の文政12年(1829)に水戸藩主となり藩政改革、産業振興を図り また海防参与として幕政にも関わりましたが開国論などで大老井伊直弼と対立、水戸での永蟄居中の万延元年(1860)急逝しました。人材育成のための藩校「弘道館」や、「一張一弛」を掲げその付属施設として「偕楽園」を創設しました。
小森邦夫作、水戸城三の丸の大手橋西側にあります。


斉昭の7男で最後の将軍になった徳川慶喜です。5歳の時から弘道館で学問を修め、11歳で一橋家に入り、尊王攘夷の機運が高まる中第15代将軍となりますが、やがて大政奉還を行って新しい日本へと舵を切りました。
能島征二作、南町3丁目のみずほ銀行前です。


安積澹泊は、彰考館総裁を務め大日本史編纂に指導的役割を果たしました。通称が覚兵衛で、水戸黄門漫遊記の格さんのモデルになったといわれます。
一色邦彦作、大日本編纂の地碑が建つ、水戸城二の丸(水戸二中前)にあります。


会沢正志斎は、水戸学の理論的指導者で著書「新論」は幕末の尊攘運動に大きな影響を与えました。彰考館総裁、弘道館教授頭取を歴任し、斉昭の藩政改革に尽力しました。
小鹿尚久作、正志斎の屋敷跡と伝わる南町三丁目の大通りにあります。


本間玄調は水戸藩の藩医、華岡青洲や蘭医シーボルトなど西洋医学の先駆者たちに学び、藩校弘道館医学館の教授を務め、講義、治療、著述に活躍し、多くの人命を救ったことから斉昭より救という名を賜わりました。藩主斉昭の子や自分の子にまず種痘を施し、藩内に種痘を普及させたことでも知られています。
後藤末吉作、弘道館医学館跡に建つ三の丸市民センター前にあります。


こちらは水戸駅前の水戸黄門一行の銅像です。助さん格さんを従えて「この紋所が目に入らぬか!」の名セリフが出てくるような場面です。
小森邦夫作、助さんの右手の先に水戸城二の丸隅櫓が見えるのが分かるでしょうか。

地元に居ながら素通りしてしまいがちですが、これを機会にしっかり目をとめて彫刻家の皆様の力作を鑑賞しようと思いました。

よろしかったら「歴史を語る銅像たち②…水戸の街角を歩く」もご覧ください。