山歩人・吉克の山楽日記

北海道の“山”を中心にオールシーズン山歩(散歩)する・・・単独登山多し、山をテーマに限定した時々気まぐれ日記です!

関ヶ原合戦三山~松尾山・笹尾山・桃配山☂雨の戦場☂

2022年05月11日 | 🗻道外山日記

関ヶ原合戦三山行歩関ヶ原合戦布陣図

JR乗り継いで関ヶ原の戦いの始まり関ヶ原の戦いは、世界三大古戦場の一つである

一つ目はアメリカ最大の内戦・南北戦争における最激戦地ゲティスバーグ・アメリカ合衆国ペンシルベニア州

2つ目は、ナポレオン・ボナパルトが復活を期して挑み敗れたワーテルロー古戦場・ベルギー王国ブラバン・ワロン州。

3つ目は、関ケ原の戦いが起こった関ケ原古戦場・岐阜県不破郡関ヶ原町。

この3ヵ所は、敵味方合計の兵力が約150,000人以上を数え、戦い自体の規模が極めて大きいことや、いずれの戦いも時代の転換点として極めて重要な役割を担っていることなどが挙げられている。

松尾山へ出陣小早川秀秋の鎌紋駅から登山口まで遠い。山頂までも結構ある山頂近くの山之神神社登り「頑張れ下山「また来てねやっと山頂軽登山の山だった。まず▲三角点調査三等三角点「点名:溝口」松尾山293m小早川秀秋陣跡大谷吉継の陣へ出撃

下山し開戦地笹尾山目指す

馬防柵の笹尾山鉄壁の防御陣営近くに島佐近の陣地跡笹尾山198m石田三成陣跡敗走するぞ決戦地からの笹尾山

関ヶ原の決戦地島津義弘陣跡家康の本陣を強行突破しあっぱれな総退却を果たしたことで知られている。敗戦が決定的な情勢の中で島津義弘が敵陣に突撃した作戦は見事徳川家康最後の陣跡岐阜関ヶ原古戦場記念館で休憩&勉強徳川家康みそヒレカツ定食映像作家の重田佑介氏が制作した動く関ヶ原山水図屏風体験型の記念館であった500円

さらに歩いて桃配山104m徳川家康最初の陣跡。申の乱の際に大海人皇子が兵士たちに桃を配ったことに由来し桃配山笹尾山からだとず~っと下り坂であった。地形的(攻撃)には笹尾山が有利だったことがわかる。

おさらい1600年(慶長5年)に起こった関ケ原の戦いは、日本史上最大級の野戦である豊臣秀吉亡きあと、豊富家臣団を束ねていた石田三成率いる西軍と、当時の最高実力者・徳川家康率いる東軍が激突両軍合わせて150,000以上の兵が、関ケ原の地に入り乱れた。きっかけは、不穏な動きを見せる陸奥国の上杉景勝を討伐するため徳川家康が江戸に戻り、その間に石田三成が豊臣方の勢力を結集して挙兵したこと。しかし、徳川家康にとっては想定通りの動きだったようだ。唯一の誤算は、徳川家の後継者である徳川秀忠の遅参。信濃国の真田昌幸の足止め作戦にひっかかり、徳川家が抱える兵力の半数にあたる約30,000の兵が、関ケ原の戦いに間に合わなかった。しかし、事前に西軍へ内応を仕掛けていた徳川家康は、決戦の最中、豊臣秀吉の養子・小早川秀秋らの引き入れに成功。わずか1日で西軍を撃破。最後にものを言ったのは、軍事力ではなく政治の駆け引きだった。関ヶ原の戦いは、日本史上最大の野戦であるのと同時に、政治力の頂上決戦であった。下剋上の時代の集大成にふさわしい戦いだったと言える勉強になった一日・・・to be continued

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする