住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

明治の傑僧・釋雲照律師の『十善戒略解総論』要旨

2024年05月27日 11時34分18秒 | 仏教に関する様々なお話
十善戒略解総論 要旨 明治十九年一月 釋雲照著述 長木栄治郎出版



十善戒法は、一切世間出世間の善法の本源であり、積善の家に餘慶ありと言われるように、吉凶殃慶一つとして因なくして果はない。いまこの身が壮健で長寿であるのは前世で不殺生戒を護った餘慶であり、衣食住俸禄あって安楽なのは不偸盗戒の餘慶であり、男女仲良く子孫あり家門繁栄するのは不邪淫戒の餘慶である。

教養や慣習が家に備わるのは不妄語戒の餘慶、穏やかに控えめな徳により周りに重んぜられるは不綺語戒の餘慶、家族仲良く老いて子孫に孝心あるのは不悪口戒の餘慶、家族親族近隣と仲睦まじきは不両舌戒の餘慶である。家に財あり山海の実りあり融通するは不貪欲戒の餘慶、身体健全で顔端正にして周りから侮られず慕われるのは不瞋恚戒の餘慶、神々の守護あり心に憂いなきは不邪見戒の餘慶である。

逆に、殺生する者は、寿命短く、恐怖多く、恨まれ仇多く、死後悪趣(地獄・餓鬼・畜生の世界)に逝く、人に生まれても短命多病となる。偸盗する者は、財産を失い、法により裁かれ、心に常に恐怖あり、死後悪趣に逝く、人に生まれても他に使役され貧しく衣食に困窮する。邪淫する者は、家に和みなく、法に裁かれ、自分を欺き人を畏れる、死後悪趣に逝く、人に生まれても意に随う伴侶は得られず、針の筵に置かれる。

妄語、綺語、悪口、両舌する者は、怨み憎まれること多く、自分を欺き信用なく、しばしば禍に遭い、死後悪趣に生まれる、人に生まれても言葉不自由となる。このように一度なされた善悪の行いは、その業消えることなく、その報い必ずあることを知り、一切の苦楽はみな自分の心から生じるものであるので、善人君子の楽しむべきなのはこの応報の原理なのである。

このような善き戒が身にあるときは、自ずから悪事が遠ざかることは、人に元気が充満しているときには病いに侵されないようなものである。不殺生戒が身にあるときは、たとえ怨みもち生き物を殺害する悪賊や毒虫に遇っても、慈悲心をもってこれに対峙するので自然に遠ざかっていく。不偸盗戒が身にあるときは、金銀財宝を前にしても不要な欲を起こすことなく、放火や盗賊、暴漢が自然に遠ざかっていく。不邪淫戒が身にあるときは、余所の男女に愛着を生ずることなく、隙をうかがったり示しあわせるなどの毒害は寄りつかない。

不妄語戒が身にあるときは、欺いたり心乱れ偽証したり贋の書類を作ったりという悪心は寄りつかない。不綺語戒が身にあるときは、言葉飾ることなく、軽口を言ったり、戯れを言うような迷い患いが寄りつかない。不悪口戒が身にあるときは、言葉柔らかに、罵詈雑言を吐くような悪心が寄りつかない。不両舌戒が身にあるときは、言葉に誠実さが表れ、他者と仲違いをしたり関係を悪くしたり他者を悪く言ったりお世辞を言ったりという悪心が遠ざかる。

不貪欲戒が身にあるときは、足ることを知るがために、欲張り貪り他の盛んなるを羨んだり名利を求めるような悪心が寄りつかない。不瞋恚戒が身にあるときは、身が慈悲そのものとなるので、眉をひそめたり眉間に皺を作ることもなく、憂い悩み嫉妬を起こす悪心が遠ざかる。不邪見戒が身にあるときは、人を見ても自然を見ても因果応報の姿を知るので、邪なものに心惑うことなく、聖なる者を軽蔑し賢者をそしり神を侮り仏菩薩を誹謗するような悪心は決して起こらない。

ときに、この世で戒に則った生活は難しいことであって、通常の人のなせることではないと言う人がある。これに答えるに、例えば殺生をしようとするには、自分の手足を使って、道具を揃え相手の隙をうかがい策を施さねばならず、難義を窮めることであり、不殺生戒を護ることの方がよっぽどなしやすいことであり、実は十悪こそなしがたいものなのである。

また、現世の苦楽は既に前世の善悪業によって決まっているのに、この世で善をなしても利益無しと言う者があるとか。これに答えるに、前世の善悪業に二種、決定業と不定業とがある。善悪の業に強弱重軽があり、その強く重い業はその報いを受ける時には、苦楽の軽重長短が厳然と決定されているとされる。これに対し、不定業はそれが未だ定まらない業のことで、この世で善を行うときには善き縁を催して前世の善業により善き結果をもたらす。また悪をなせるときには、悪縁が増上して前世の悪業が悪い結果をもたらす。これは前世までに蓄えた善悪業が弱く現世の善悪の助縁に引かれてもたらされるものなので、悪をなさず善を行う事によって、悪縁を避け善縁を常に生じ善業が報い結果するように生きるべきなのである。

また、仏法は世間の実情に合わず奇怪で役に立たない荒唐無稽のものだと言う人あり。これに答えるに、きれいな鏡がその姿をそのままに映し出すように、この善悪業をもたらす善悪の行為も一度なすならば、その行いと心のなした軽重によって、必ずこの世でか、来世ないし未来世にてその報いを受けるものであって、僅かでも道徳心ある者は、この因果応報の理を常に忘れることなく、重んじるべきである。誰もが、眼前の小利に惑うことなく、十善戒を守護して善なる大利益に浴すべきである。

(↓よろしければ、一日一回クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 地域生活(街) 中国地方ブログ 福山情報へにほんブログ村






コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自覚して行うこと

2024年05月21日 17時52分12秒 | 仏教に関する様々なお話
自覚して行うこと--今日の護摩供後の法話に加筆して



今日も沢山のお参りをいただきありがとうございます。いま、3月31日の御開帳のお二人の先生による記念講話の文字起こしをして、寺報に掲載する原稿を作っているところです。

ところで、その保坂先生のお話の中で、沢山の人がお寺に寄り集まり、行事をしてお寺を盛り上げて、次の世代にも繋げていくことは、皆さん自身の仏道修行であり、そのことの意味を自覚して行うことが大切だとの指摘がありました。さらにそれは、安心の徳を積むことであり、悟りへの道であり、幸福への道であるとも。

またその講話の冒頭には、私たちは普通、仏教という言葉を使っているわけですが、この言葉自体が古い言葉ではなく、明治二十年代ころに定着した言葉であって、仏教と言ってしまうと、その時点でキリスト教のような絶対的な存在に対する信仰と教義や儀礼、教団という意味づけになってしまうのとの指摘もありました。それまでは、仏道、仏法という言葉が使われていたのであり、信仰そのものというよりも、より大きなウェートで行為実践、修行を内包するものであり、日々の仏事、仏道修行を意味する内容であったというご指摘もありました。

今日もこうして沢山の皆様がお護摩に集まり小一時間もの間お藥師さんを拝み、心経を唱え真言を唱えて下さいました。このこと自体が信仰のもとになされた、立派なご修行であり、さらに中にはこの日のために沢山の写経まで書いてお持ち下さっています。それは何か願い事のためであったり、また、心の安らぎのために、ありがたい御利益のためにと色々な目的でなされたものと思いますが、なぜ写経をするのか、保坂先生が言われるように、その意味をきちんと自覚して行うということも大切なのではないかと思います。

写経や読経は、やはりそれは善いことであると漠然と思うわけですが、それは読んだり書き写す内容がお経であり、仏の説法であり、それは弟子たちの悟りの修行に役立てるためのものであり、だからこそありがたいものと言えます。読経し書写することでその内容まで十分に理解できずとも、功徳は甚大ですが、やはり教えを理解することも必要でしょう。仏教は学ぶべき教えとも言われていますから。

そして、こうして毎月お護摩にお参り下さり、仏道修行を既にしている皆さんは、そのことの自覚はないのですが、仏教徒と言えるでしょう。仏教徒とは、三宝に帰依する人のことです。仏法僧に帰依したならば、仏という存在を最高の理想として生きることになります。だから礼拝されるのです。理想に近づいていく、そういう行為として修行が位置づけられるわけですから、皆さんがなされている経を唱え、書写する行為もその一端と見做されるのではないかと思います。

そう考えますと、つまりは読経し写経する皆さんは、意識するしないにかかわらず仏道修行をして、功徳を積み、仏教徒の最高の理想に向けて前進するためにそれを行っているということになるのです。最高の理想である悟りを得るまでには何度も生まれ変わり功徳を積んで心を清浄にする必要もあるでしょう。ですが、そうして一歩でも半歩でも前に進んでいくために功徳を積むための仏道を行じているのです。  

そう理解されて、それを自覚されてなされていくと、より安心した毎日、揺るぎない確信のもとに日々を淡々と生きることになります。ご自分のなされていることの意味をもっと深く自覚されて、さらにさらに精進して下されたらありがたいことと存じます。



(↓よろしければ、一日一回クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 地域生活(街) 中国地方ブログ 福山情報へにほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明治の傑僧・雲照和上の「十善の法話」現代語訳 (6)

2024年05月05日 12時12分22秒 | 仏教に関する様々なお話
明治の傑僧・雲照和上の「十善の法話」現代語訳 (6)




よって律の偈にも、「たとえ百劫という果てしない時間を経るとも、なされた業は亡びること無く、因縁が巡り来たるとき、果報還り報いて自ら受ける」とあります。

律蔵の中の各章段の終わりにこの偈を掲げて誡めています。よって私も、またつねにこの偈を引いて応報の理を述べるのです。たとえ百劫という果てしなく長い年月を経ても、いったんなされた行為の善悪の業の力は決して亡くなったり枯れたりということはなく、因縁が熟したときにはその善悪の果報が生じて、他の人がそれを承けること無く、必ず自身がこれを承けて悪は必ず苦果を、善は必ず楽果が報いることでしょう。

それは決して他に神仏あって苦楽を与えるのではありません。自ら悪をつくり自ら悪の果を受け、自ら善を修めて自ら善の結果を受けることは、鏡に姿が現れ、谷に呼びかけて声が反響するようなものなのです。たとえ大地を打ち外すことがあっても、この応報の真理は古今にどこにあっても、決して僅かにも相違あることはありません。よって、勉めてなされるべきなのは、ただ十善道徳であり、頼みても頼むべきは因果応報の真理なのであります。たとえ富財産が四海を埋め尽くし、妻子家族が思いのままに財宝を身につけたとしても、無常の暴風はたちまちに来り、息絶える時には一物もその死後の魂に随いついていくものはありません。

大国の君主と言えども、橋の下に住まう乞食同様に、死に去って冥途に赴くときには異なることなく、ただ知らず知らずのうちに一人彷徨って死者のいく黄泉に入るのみなのです。そのとき、実に頼りとならないのは、世間の名誉や地位であり、そのためになされた業であります。それに対し、今世でも後世でも我が伴侶となって導き、涅槃安楽の境遇に至らしめてくれるのは、ただこの十善道徳による功徳のみなのです。ことここに至って、このように思えるならば、歓喜の涙を拭って信じ行うこと、貧人が宝を得たときのように、また渡りに船を得たように、得難き心地がして、この十善のためには、たとえ命を落とすことがあったとしても、決して退歩退くことのないようにと固く誓って、自らも勉め、周りにも勧め励むべきものと言えます。

この肉身は言ってしまえば旅館のようなものです。惜しむようなものではなく、今日努力して善業を貯え、後の世の糧を得たならば、命終を迎えた時、その旅館を出て、明日にはもっと上等な旅館に移り宿泊したらよいのです。善業の道徳だけの身となれる人は、四苦八苦を生じさせるこの不浄なる肉身を脱ぎ捨てて、煩悩の無い正に清らかな真如法性そのものとなって不老不死となることでしょう。ただおおよそ世の中の人は、わが身である旅館を惜しむことばかりに専心して、旅費を貯えることをしないというのは愚の骨頂ともいうべきことです。旅館というこの身を惜しむことなく、旅館は他にも散在しているのですから、後の世の糧となる金貨をこそ貯えるべきなのです。

もちろん、後の世の糧となる金貨とは十善道徳にほかなりません。ときに世間の金貨は時代や国の事情により通用しなくなるということがありますが、そればかりか価値が目減りすることもあります。ですが、この十善道徳の金貨は、この世界のはじめから未来永劫、日本でも中国でも欧米でも、東方阿閦如来の世界でも、西方阿弥陀如来の世界でも、十方世界いたるところで、過去現在未来、三世にわたり、通用しない時も空間もないのであります。たとえ百千万効を経たとしても決して朽ちることはなく、ますます光輝を放って自身を利益し、一切の人々を利益して、様々に果てしなく世の人々を救うことでしょう。どうして貴ばないことがありましょうか。勉めないことがありましょうか。  了


(↓よろしければ、一日一回クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 地域生活(街) 中国地方ブログ 福山情報へにほんブログ村


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明治の傑僧・雲照和上の「十善の法話」現代語訳 (5)

2024年05月03日 07時52分30秒 | 仏教に関する様々なお話
明治の傑僧・雲照和上の「十善の法話」現代語訳 (5)





十善四恩は一切道徳の元素となるものであり十善の他に別に道徳はない事

今本会・十善会において主張する、十善因果応報によるところの道徳は、道徳即十善、十善即道徳であり、因果応報ということが人の行いに顕れて十善となるので、十善の他に道徳はなく、道徳の他に十善はないのであります。またこの因果の真理を離れて仏教は無く、仏教すなわち道徳であり、道徳すなわち仏教であり、私の仏教の真理から言えば、道徳の他に宗教なく、宗教の他にさらに道徳無しとするのです。

どうしてかと言えば、仏教とは天然の真理に則って、普通に衆生が起こす慈悲と、この世のすべてのものは無我であると悟ったものが起こす慈悲と、さらにはあらゆる差別を離れた仏の大悲の心、この三つの慈悲の心を起こして、多くの人々と遍く十方世界の生きとし生けるものを憐れみ、それらを利益し安楽にする事業に勤め励むのを菩薩の本来の仕事とするのです。また諸々の仏がこの世に出生する一大事とするのもこのことと別にあるわけではありません。およそ菩薩の最初の発心や諸々の仏の悟りに到る目的や願いはこのためにこそあると言えましょう。

世の中の人が父上に対して、その恩に報いようとするならば、この十善を離れては真にその恩に報いることはできないでしょう。なぜならば、世俗にあって普通にいうところの忠孝とは十善道徳の一部に過ぎず、道徳はすなわち道徳であると言っても、十分に道徳の根源をきわめ奥底まで尽くして忠孝の道を全うすることはできません。それはただ人情や常識を本として志を尽すものであって、確実な真理に則ったものではないので、常識の範囲で父上のためにこの上ない善事と思ってしたものであっても、後になって顧みた時、かえって真に利益や安楽をもたらすものでなかったという場合も多々あることでしょう。

今もしもこの十善因果の理に則って、忠孝を尽すときには、たとえ目の前で父上の気持ちを十分に愉快にさせられるようなものでなかったとしても、後々に必ず父上のためになる大孝であったと顕かになるでしょう。ましてや父上のためと思って、他の者から怨みや怒りを買うようなことをしたとしたら、父上のために悪をなすこととなり、それを忠孝などと捉えるのは顛倒の極みであり、決して忠孝とはならないのです。なぜなら、悪をなして善い結果を得ようというのは原因結果の真理においてあり得ない定則だからです。

よって、大孝をなそうとする者は必ず因果応報の原理にのっとり、怨みに報いるに徳をもってなし、父親が怨みを受けるようなことの無いようにすべきであり、それをこそ大孝と言うのです。自分が父母から恩を受ける年月は長いものですが、その恩に報いて恩を返そうとしてもその時間は限られているものです。どうしてその短い時間の孝をもって長い年月の恩に報いることができるでしょうか。

もし仏教の十善の真理に基づいて至孝をなすならば、ただ父母にこの世の快楽をあたえるのみならず、いくつも生まれ変わってもお互いに愛し喜びをもって、自ら十善道徳の至孝を行い、またよく父母に十善因果の真理を信じせしめて、無理に勧めずとも父母が進んで善根功徳をなして一切衆生のためになすならば、大きな至孝と言えるものとなることでしょう。そうすれば真実の道徳、真実の忠孝はこの十善を離れて他に求めても決して得られるものではなく、この大孝至徳をもって父親の恩に報いるのを仏教の真面目、一切道徳の本体とするのであります。世の中の有徳の皆さんはよくこの旨を心得ていただきたいと思います。

さらにもう一言申し上げておきたいと思うのは、もしこの原因結果応報ということをよく理解する人は、慈善道徳をしても人に誇ることのないようにしなくてはならないということです。自分はこんな善いことをした、人に喜ばれるようなことをしたと、自ら吹聴して人様の信用や敬服を求めることをしがちですが、真正なる道徳をなそうとする者にとって、これは最も慎むべき事であり、このようにすることは、善は善ではありますが、その結果は甚だ下品なものとなり、阿修羅界の報いを得ることにもなりましょう。ですから、善はなるべく秘すべきなのです。これを陰徳と言います。逆に悪はなるべく表に露すべきことであって、これを発露懺悔と言うのです。

例えば筍を育てるようなもので、枯れ葉や肥料でその根を覆うときはその質柔らかに味は甘くかつ大きな筍となりますが、肥料を与えず、その根を覆うことをしなければその質は硬く味も悪くなります。善悪をなす場合もこのようなものです。善いことをして努めてそれを隠す者はその福が増すことでしょうし、それを人に言いふらすような者はその徳は薄くなるでしょう。これに反して、悪をなして努めてそれを覆い隠す者は悪業の力が増し、努めてそのことを懺悔して公にする者はその悪業は極めて弱いものとなるでしょう。これも自然の理によりそうあるべきことであって、こうしてみてみると、善悪応報原因結果の天則は定まれる一定不変のものであり、一毫も変異あるものではないのです。ましてや一度撒いた原因が報いて結果を顕さないということも決してあることではないのです。

(↓よろしければ、一日一回クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 地域生活(街) 中国地方ブログ 福山情報へにほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明治の傑僧・雲照和上の「十善の法話」現代語訳 (4)

2024年05月01日 17時08分23秒 | 仏教に関する様々なお話
明治の傑僧・雲照和上の「十善の法話」現代語訳 (4)




十善を行じて四恩に報いるべき事

私たちが今日こうして身体欠けるところなく、健康で幸福に、無事に日を過ごし安穏にして、このように才智あり、様々な仕事をなせるのも、決して自分一人のなせる技ではありません。父母が自分を産み育ててくれたのは、父母への恩であり、着るものも、食事をし、また書物を読み、物を書いたり、眼に触れ手に触れる物すべてが世の中の人々の労働によりなせるものであって、これは一切衆生への恩であります。また国王ともいえるお方があって、国を鎮め安定せしめ、私たちを見守って下さっているのは、これは国王への恩でありましょう。

そればかりか、果てしない過去から今日迄、私たちは一切衆生とともに、この三界に生まれ変わり死に代わり輪廻してきました。その間に、すべてのものたちと、ときに父母となり兄弟となり、また主や友となって、無量無辺の関係を持ちつつ今日に到っていると考えられます。そうであるならば、一切の男子は我が父、一切の女人は我が母とも言えるものなのです。どうして他者を殺したり奪ったり邪な関係を持ったりできましょうや。また、嘘をつき媚びへつらい汚い言葉を吐き、仲違いさせたり。さらには、欲を貪り、怒りをあらわにしたり、道理に合わないことを押し通すことができるでしょうか。

さらに申し上げるならば、今この森羅万象は、みな真理そのものであって自性なく、実相、つまり縁起の法をそのままあらわにしているものであって、その身の他に仏はなく、仏の他に衆生もなく、衆生の他に自心もないのです。我が心と仏と衆生は本来平等、つまり一体なので、無二とも言えるものでありまして、分け隔てあるものではないのです。この無二の関係にあるものたちの中で、我とか他とか、こちらとかあちらとか分け隔てして自ら損となることをしてどうなりましょうか。

このような高い見識をもって十善をなすのは、すなわち真正なる道徳であり、そのまま四恩を奉ずるものと言えましょう。これをインドでは菩薩と名づけ、中国では聖人と名づけ、日本にあっては明神と名づくのです。このような真理を明らかにして、すべての衆生を憐れみ、救済するのは仏教の教理であり、その実践であって、これは即ち三宝への恩であります。このような心構えで四恩の大きな徳にむくい生きることによって、国家の深い恩に報いることを仏教の真の報恩とするのであります。


(↓よろしければ、一日一回クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 地域生活(街) 中国地方ブログ 福山情報へにほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

供養について考える

2024年04月29日 12時33分17秒 | 仏教に関する様々なお話
供養について考える (昨日の法事の後の法話に付け足して)



昨年は、四有ということを申しまして、衆生の死の瞬間を死有、それから、中陰とも申しますが、中有という時間を過ごして、次の生存へ生まれる瞬間を生有といい、それから本有という生涯を生きると考えてこの四つの有を繰り返し生まれ変わる、輪廻すると仏教では考えられているという話をしました。今私たちはですから、本有を生きているということになるわけです。昨年お亡くなりになられた故人は次の世、来世に逝かれている先に向けて、前世でお世話になった遺族親族の皆様が功徳を積み、その功徳を手向ける、回向するというのが今日の法事ということになります。

今日は供養とは何かということについて少し考えてみたいと思います。この言葉は中国で訳された言葉で、もとのインドの言葉はプージャーと言いまして、神仏への捧げ物としてのお祀り、お供えやお勤め、礼拝などを意味します。仏教のお寺でも朝のお勤めのことをプージャーと言っていました。インドのお祭りで有名なドゥルガー・プージャーとかカーリー・プージャーというようにお祭り全体を表す言葉として使用される場合もあります。ですから日本でも施餓鬼供養とか、盂蘭盆供養というように使われます。

そしてこのプージャーという言葉にはもう一つ大事な意味があり、尊崇する尊敬するという意味があります。尊いありがたい存在だからお供えをする、礼拝するということになります。インドではヒンドゥー教のお寺などでは拡声器を使ってスピーカーから大きな音で毎朝お勤めを村中に聞かせるという所もあります。ありがたいお経を自ら唱えるだけでなしに多くの人に聞かしめて功徳を分け与え、より大きな功徳とするということなのでしょうか。

お経は仏さまの教えですから、仏様に聞いてもらうものではなく、唱えた人本人が、また聞く人にとっても、それを糧に修行の精進功徳となるものでしょう。お経はどれも悟りという、最高の心の安寧にたずねいるための手ほどきとなるものですから、何度もお唱えし、耳にすることによって、少しの時間であっても、日常の喧噪から離れ、心に安らぎが得られ、僅かでも悟りに向かって前進する功徳あるものです。

ですから、今唱えた仏前勤行次第の最後の廻向文にも「願以此功徳・・皆共成仏道」とあり、勤行次第をお唱えした功徳により、皆ともどもに仏道を成ずることを願うわけです。成仏道とは悟りを得ることですから、それが成仏するということであり、仏になるということですね。それはとても善いこと、最高のところに逝くことだと皆さん漠然とかもしれませんが分かっておられるのです。ですから、通夜葬儀の時に知らず知らずのうちにどうぞ成仏して下さいと焼香するわけですが、それは悟りに向かってこれからも精進前進するべく、より善きところに趣いて下さいと願っていることになります。

そして、塔婆には、「◯◯◯◯大姉第一周忌菩提の為也」と書いてあります。菩提とは、悟りのことですから、一周忌にあたり、塔婆を建立する功徳を故人の悟りのためにふり向ける、廻向するものです。お釈迦様のような菩提、最高の悟りに到達するまでには果てしない時間を要するとされるわけですが、そこに到る過程で、様々な気づきをともないつつ小さな悟りを得て、そうして少しでも近づくだけで、大きな安らぎが得られるものです。

悟りというのは、この自分というような厄介な思いがなくなり、ものの真実因果に通じているので考えることなく、煩悩がないので煩うことがなく、貪りも怒りもなく、何がなくても満ち足りた豊かな心で、何があっても動じることなく、他に対しては優しい慈しみの心で接しられることですが、私たちもそうした心を理想としたい、そういう心になれるように努力したいと思われるならば、それが仏教徒であり、だからこそ皆様はこうして法事に参加されているのではないかと思います。

法事は、集まった人たちがお経を共に唱え、また長いお経を聞いていただき、日常とは違う空間で静思黙想して安らいだ時間を過ごし、来世に旅立っている故人に向けてその功徳を手向ける場であり、また参加された人たち自身が功徳を積む場でもあります。私たちもみないつかは位牌となり家族から手を合わされ成仏を願われる存在になります。また、仏壇は位牌になられたご先祖がみな最上段の仏様のように最高の安らいだ心になれるよう、一生でも早く悟れるようにと菩提を祈る場ではありますが、子孫にも確かな生き方を仏教に学び精進させるために、またときに迷い悩みをご先祖に打ち明け心の声を聞く場として用意された子孫への遺産ともいえるものです。

菩提を得る、成仏する、悟るなどということは自分の人生とは何の関係もないことだと思われるかも知れません。が、こうして法事の場でお勤めをする、つまり供養するというのは、すでにそうした認識のもとで法事における供養が執行されていることにご理解をいただき、単なる故人の冥福を祈る場ではなく、今を生きている私たち子孫も巻き込んだ過去から未来につながる仏道精進の構造のもとにあることをご承知いただけたらありがたく思います。

ところで、少し前から、アメリカやヨーロッパでは仏教の瞑想法をリラクゼーションの手法として活用し、宗教性を排除したマインドフルネスという瞑想法が考案されて多くの人が実践しています。鬱やストレス障害の治療として医学や心理療法の分野でも、また企業研修として自己啓発のため、刑務所の囚人の更生のためなどにも役立てられています。一五〇〇年の伝統ある仏教徒である私たち日本人も、供養の真の意味をくみ取り、故人の安寧を願うものとしてだけでなく、仏教の本質に迫る生き方が求められているのではないかと思います。


(↓よろしければ、一日一回クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 地域生活(街) 中国地方ブログ 福山情報へにほんブログ村




コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日の護摩供後の法話に補足して

2024年02月21日 19時45分24秒 | 仏教に関する様々なお話
今日の護摩供後の法話に補足して


今日も沢山の添え護摩の木を皆様書いて下さって大きな護摩を焚かせていただきありがとう御座います。毎月お大師様の日に、一ヶ月のいろいろ積もった、願い、思い、計らい、心の重荷を仏様にすべてをお預けして、放下する心の大掃除の場として、私も大切な行として修法させていただいています。

ところで皆様の中には、自分自身が病を抱えている方もあるし、ご家族が長く患っている人もあります。また長く患っていた家族をお見送りしたという方もあり、様々な思いを以てお参りいただいていると思います。

私たちのしがちなこと、習慣として何事も二つに分けるということをしがちです。良いこと悪いこと、楽しいこと苦しいこと、幸せなこと不幸なことと。ですから、病気になる、亡くなる、またはいろいろな場面で思ったようにならなかったりすると、それらは悪いこと、良くないこと、不幸なことと判断しがちです。

ですが、それらは本来自然現象です。色々な原因によって結果しただけのことに私たちは色々とそこに思いを重ねて気持ちが塞いだり、落ち込んだりしてしまいます。

どうしても一つのことに心が塞いで閉じこもってしまったようなときは身体を使って動いてみることです。外へ出たり、運動したり、出られないときは映画でも見たり本を読んだり。

すべてのことはあるべくしてあるのだから、そのことをどう受け取り、捉えて、そこからどうしていくかが大切でしょう。

これまでの様々な積み重ねによって今があるわけですが、この次にどう考え行動するかによって未来は違ってきます。悪いことが起こったと暗い気持ちになることなく、冷静に、ではどうあるべきかと考えて、自分の心を自ら幸せなものにする必要があります。

人のせいにしても何も解決しません。残念なことではあるけれども、あるべくしてあったのだと思いあきらめて、あるいは、自分の考え思いがすべて正しい、こうあるべきという考えも捨てて、自分の受け取り方を変えてみたら、自ら幸せな心を作り出していく工夫や智慧が湧いてくるのではないかと思います。

息子さんに先立たれたある方が、当初は相当なショックだったようですが、しばらくしてそれをきっかけに若い時の夢であった音楽の世界に再チャレンジして、作曲したり歌ったりして、同じように子供に先立たれた家族に向けた歌を作り、多くの人たちから励ましをいただいたと感謝された方がありました。

また昔歯医者さんの奥さんでご主人のスケジュールや会計まで任されてとてもハードに働いていたら、ステージフォーのがんが発覚して、色々と思案されて、すべて仕事を辞めてしまわれて、生活を一変して、瞑想やお経の勉強などをされて、食品も厳選して生活されていたら、いつの間にかがんが消えて、今も元気に以前とは比べ物にならないくらい精神的にとても豊かに暮らしている方もあります。

私たちはみんな前世までの沢山の業を持って生まれてきて、来世にその業を少しでも善いものにして受け渡していく役割があります。何があってもそれによって自分を変えて、それを一つの学びと捉えて、前向きにプラスのものに転回していってほしいと思うのです。

人生で起こることのすべてが自分が学び成長していく切っ掛けとしてあり、来世により良いものを受け渡すためにあるのだと思えれば、何があっても冷静に受け入れることができます。病気も、身近な人の死も、失敗も、挫折も。

そうした悪いことと思われがちなことの方が、かえって善いことよりも多くの学びを私たちにもたらしてくれるのかも知れません。・・・

月例護摩供は、毎月二十一日午前8時から9時頃まで、大師堂にて。お気軽におこし下さい。


(↓よろしければ、一日一回クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 地域生活(街) 中国地方ブログ 福山情報へにほんブログ村


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明治の傑僧・雲照和上の「十善の法話」現代語訳 (3)

2023年12月11日 19時13分22秒 | 仏教に関する様々なお話

明治の傑僧・雲照和上の「十善の法話」現代語訳 (3)



私はかつて新潟県に行ったとき、壁に大きな字で書かれた書軸が掛けられていたことがあります。これは五歳の子供が書いたもので、その運筆が見事で筆勢は力があり、実に大人の書家にも及ばないほどで驚いたことがあります。五歳といっても満三年の子供で、その運筆を習うと言ってもまだ一年足らずとのことでした。しかしその書は大人の書家の数年もの刻苦も及ばないほどで、私の見るところ、世の人のいわゆる原因結果をもって論じるならば、この訳が判ろうというものです。

今私の因果応報の真理をもって見るならば、決して怪しむべきことではなく、その生まれながらに書をよくする人は、いわゆる前生において、かつて書芸に勉めた原因が報いて今日の身に顕れたということでしょう。この理によってこれを見るに、今わが国の四千万の人々が、その苦を味わえるものと楽を味わえるもの、困窮せるものと栄達せるもの、賢こきものとそうでないもの、才能あるものとなきものと、各々四千万種に分かれる様相は、その原因にそれぞれ違いがあるからなのであります。

一切のこの世のことは、一事一物として同じものがないのは、この原因がみな様々だからなのです。だからその結果であるものごとはみなそれぞれに異なるのです。ですから、かの他宗教が一切の万物をもって一神の所造とするようなことは大いにこの真理に反するものであって、奇観を呈するものといえましょう。

今喩えをもってこれを示してみると、ここに金平糖を製造する器械があるとして、一つの銅の鍋の中に一度につくるとその数は百千万粒とはいえ、みな同質同形でその甘味もまた同じになります。決して大小長短はありません。このように百千万粒がこのように皆同じようになるのは他でもなく、その原因である製造する人も、器械も砂糖などの材料もみな同一のものをもってつくるからです。この百千万粒の原因がみな同じだからその結果においてもまた同質同形同一となり大小長短がないのです。もとより原因結果の天則であり、疑うべきことではありません。

ですから、かの天主は何をもって同一の神が同一の人種同一の天地空気世界をもって製造しながら、同一の人間をつくることができず、千万無量に差別されるのでしょうか。今一歩譲って、同一の日本人にあっては、同一の人種であるのでまさかその身の丈一丈六尺などということなく、ただ五六尺と大差なくよしとするとしても、そのこころ性質はみな少しも似通っているということはありません。その心のはなはだ甘いものがあれば辛いものもあり、はなはだにがいものも、渋いものも固いものもあります。薬となるものがあり、毒を含むものもあり、はなはだしいものは日本人にして日本人ではないようなものもあります。

どうしてこのような違いが生じるのでしょうか。一つの器械の中で一度につくる金平糖が辛かったり、苦かったりあるいは毒気を含むものがあればそれはまた奇妙なものといえましょう。物理に適さないこととはこうしたことでしょう。ですから、いまこの因果応報の真理、原因結果の天則をもってこれらを見ていくならば晴天に太陽を望むがごとく、まことに明瞭なことなのです。

このように深く因果応報の真理をあきらかなものと認識したならば、たとえ人が十善は行わないと言っても行はざるを得ず、十悪をなそうと努力したとしてもできないものなのです。ですからつまり善なることにはたとえ少しでも喜び励んで務め、悪いことにはわずかなことでも恐れて避けるべきなのです。このように了解したならば、この応報の真理ほど愉快に喜ばしいものはないのです。さすればこのことを父母親族はもちろんのこと、一郡一国に及ぼして、この世のすべての人たちにこの真理に安住してもらうように勉めるべきであり、それは教主釈尊の説かれた自利利他の善行による最も大事な因縁の教えなのであります。



(↓よろしければ、一日一回クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 地域生活(街) 中国地方ブログ 福山情報へにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明治の傑僧・雲照和上の「十善の法話」現代語訳 (2)

2023年11月18日 20時14分44秒 | 仏教に関する様々なお話
明治の傑僧・雲照和上の「十善の法話」現代語訳 (2)


まさにこの原因結果という言葉は今日世間において、いたるところで語られないことはないでしょう。ですが、世の人々が言うところはただ目の前の原因結果だけを言うのであって、過去や未来に及ぶものではなく、ただ自分一人に現れ見る、この一生のことに過ぎません。ですが、この目の前の一生のことですら、原因と結果と符合しないこともあります。言い換えると、豆の実を蒔いて麦を収穫したり、麦の種を蒔いて米を収穫するというような不思議なことです。

どのようなことかといえば現実に、生涯務めて汗を流し困苦しても、十分に飲み食いもできず着るものも満足でない者があります。また日夜学業に励み人の倍もの努力をしてもその結果は平均程度にしかならない者があります。あるいは、怠慢であるにもかかわらず博識の者があり、遊び惚けているのに生涯余りある衣食にあずかり困る事のない者があります。

こうした事柄は世の中には現実に少ないことではありません。これすなわち、原因と結果と相反するものがあるということです。もし世間で実に勉強する者がことごとく学者となり、仕事もせずにブラブラしているものがみな困窮するのであれば、すなわち世の中の人が言うような一生の間に眼に見ることのできる程度の原因結果で事足りることでしょう。ですが、この世の中のことは決してそのようにはならないことはみな人の知るところです。

またたとえ勉強して博学者となったとしても、その勉強して博学となることの原因は何から来たのかと問うならば人は答えることができないでしょう。どうしてかといえば、もしも父母が元手を出し身体も健康で、またもとから利発であり、精神的にもしっかりして勉強することができるとしても、その精神や幸福がどういう原因から来たのかと、そのよってきたるところを尋ねる時は、必ず何の原因をもってこの精神を受けることができたのかと問わねばならず、ついに五里霧中に茫然とならざるを得ないでしょう。これは人が浅き知恵でもって目に見ているこの一生のことの他に過去も未来もあることを知らないが故の狭い考えから出た根拠のない思い込みであって、人は死後我は断絶して無に帰するとする断見、あるいは、世界は永遠で自我も死後まで不滅であると執着する常見に惑わされているからであります。

ですから、ここに仏世尊があり、この迷える者を憐れみ大覚の悟りを開いて、私たちのために迷い転じて開悟して妙なる教えを説きあらわされたのです。この生死の冥暗の中において燎然たる火を観るがごとくあるものは、ただこの三世因果善悪応報の真理のみなのです。もし今この三世因果の真理によって世間を照見するならば、その勉強してもそれでも貧困をもたらすかのように見える者は、これは勉強が原因で貧困の結果をもたらしたのではなく、過去世における人を困らせ苦しめた原因が今日に結果を顕して貧困を受けているのです。いわゆる貧困の原因とは財を貪り、施さず、かえって他人の財をかすめ取り他を苦しめる所業が今日に結果して自分の困苦となっているのです。

またこれに反して、生まれながら聡明で利発で活発な人は前世において学を修め知恵を磨き徳を積んで慈善に努めた結果が今日に現れ、慈悲深い父母に愛され教育を受けて生来の智力をもってますます増進発達する結果となるのです。こうして見てみると、たとえ勉強して今世についにその好結果が顕われなくとも、その勉強の功徳は無駄になることはなく、現世にその結果を得られなくても未来において必ずその結果を得ることができるのです。

またこれに反して、仕事もせずブラブラしている者が生涯困苦を感じることなく生きられるというのも、遊び惚けていることが原因で安楽を得ているのではなく、その安楽を得ている原因は過去世において他人に慈善を施し人に安楽を与えた原因が今日に結果して困苦を感じない一生を過ごせているにすぎないのです。ですが、いま遊び惚けていて善行に励むことがなければ必ず未来に困苦することは疑うべくもない真理の当然の結果であります。今仕事も満足にせず遊び惚けて困苦を感じないからと自ら奢り努力しない時は未来に必ず激しい苦しみを感じ安楽な日がなくなることでしょう。

このように広く三世にわたる原因結果を見ていくと一事一物として疑うべき事柄もなくなり善因善果悪因悪報の法則明らかとなり判断に苦しむようなこともないのです。これすなわち大聖世尊が三大阿僧祇劫の修行によって、あらゆる現象が具えている真実不変の本性である深い真理をご覧になり、その至らぬところがなき智慧によって達観なされたものであるが故なのであります。

ですから、心から道徳というものを志そうとする者は深くこの意をくんで、篤く因果を信じて勉めて十善を行じ、また人にも善悪因果の真理を信じて十善を行うように勧めるべきなのです。もしこのようになる時は、天下に正しく道徳がゆきわたり行われないところがなくなるでしょう。これは真に正しき道徳であり、人の人たる道というべきものです。もしもこれに反する人は、果てしないこの世とはいえ身を置く場を失うことでしょう。だから疾く勉めるべきなのです。


(↓よろしければ、一日一回クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 地域生活(街) 中国地方ブログ 福山情報へにほんブログ村




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明治の傑僧・雲照和上の「十善の法話」現代語訳 (1)

2023年11月15日 08時43分48秒 | 仏教に関する様々なお話

雲照大和上遺墨展によせて - 住職のひとりごと

雲照大和上を学ぶ会の松本宣秀師が23日来訪された。来月14日から18日まで倉敷市立美術館にて、倉敷仏教会主催「雲照大和上遺墨展と講演・明治150年を雲照大和上に問う...

goo blog

 


『十善の法話』 東京十善会蔵版  明治二十八年四月十五日十善会福田慈海編輯発行 

『十善の法話』 雲照和上の御講演 (東京三浦家において)

さて、十善(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌・不慳貪・不瞋恚・不邪見)とは、人の人たる道であり、一切万善の根本道徳の標準であります。仮にも人の道徳の標準であるならば、世界のどこにあっても修めなくてはならないものです。富める人はますます修すべきであり、貧しい人もますます行わなければならない生き方であります。ですが、この十善は自然に表れる徳であり、この世の真理が顕われるものであるので、ことさら仏教の十善ということではありません。仮にも人として生まれ人としてあるからには、この十善に依らねばならないのです。

君主に仕えて忠誠を尽そうとする者、父母に仕えて孝をなそうとする者、官僚となりて人々を指導する者、教師となって生徒を教育する者、上は天皇陛下をはじめ、下は一般市民に至るまで、等しく行わねばならないものはただこの十善のみなのです。ですからこの十善を他にして忠も孝も願っても決して得られるものではないのです。

私が以前京都から東京に来るときに、船中で津田何某という人があり、私に、自分は幼少の頃西洋に行き数年過ごしたことがあり、外国の言葉などに不自由はないが、自分の国のことを知らないのです。あちらにある時友人が私に、日本の宗教の教えはどのようなものかと問われましたが、答えられず赤面したようなことなのです。今仏教を学ぼうとするなら何宗によるなら仏教の大意を知ることができるでしょうかと。

私は答えるに、いま諸宗の中の何宗を学んでも仏教の大意、そのおおよそのことを知ることはできないでしょう。どうしてかと言えば、例えばここに樹木あって、東にある枝は枝葉が東を向いて西には向かわず、西にある枝は枝葉がみな西に向かって東には向いていません。南北の枝葉もまた皆同様です。もしも人がその枝葉に、その樹木の方向を問うならば、東の枝はこの木は東の方向に向かっていて西には向かわないと言うでしょう。西の枝はこの木は西の方向に向かっていて東には向かわないと言うでしょう。南北の枝もまた同じように言うことでしょう。

一日中このことを尋ねていても結局樹木の方向を知ることはできません。ですが、もしもその枝葉を捨てて、その根幹について見てみるならば木の中心は上に立ち上がり空に向かっている様が見えてきます。すると東に出る枝もあり、西に向いている枝もあることがわかります。あるいは、南北に出ている枝もあります。しかも東西南北の各々向かう方向は異なりますが、その幹は一つであって、背いて離れることもないことが知られるのです。もしもその根本を捨てて、むだに枝葉について見るならば東西南北それぞれ誤り、ついにその樹木の全体を知ることはできないでしょう。

このことと同様に、もしも仏教の根本を知らないのに、たとえ八宗九宗を研究しても、またついに仏教のおおよそのことを知ることはできません。どうしてかと言えば、甲という宗派は念仏によらなければ成仏することはできないとして、題目など唱えてはいけない、唱えれば妨げとなる行となって往生できなくなると。乙なる宗派はいや題目でなければ成仏しない、念仏すれば題目を唱える功徳が消えてしまうと。

丙なる宗派は念仏を唱えたり題目を唱えたりというのはこれはみな顕教の説くところであって、今生で成仏する教えではないのです。ひたすら真言を唱えなさいと。あるいは、念仏も題目も真言もみなだめであると、本当の自分の、心の中の仏心を見つめそれになりきることこそ、この道の真実であるといい、ただ黙して坐りなさいと。つまり甲のよしとすることは乙が否定し、乙の正しいとすることを丙は正しくないとする。一日中八宗を探し九宗の門を叩くとも、ついに仏教の何たるかを知ることができないばかりか、疑念を抱いて、かえって学ばない方がよかったということになるでしょう。

では、いかにしたらよいのでしょうか。それは、ただその根本を求めればよいのであります。もしもその根本のところがわかるならば、枝葉はおのずから明らかになり、天台を学ぶもよし、そうすれば天台の教えから仏教の本来のあり方がわかることでしょう。あるいは禅や浄土の教えを学ぶのもよいでしょう。禅浄土の教えから仏教の本来がわかるというものです。さらに、甲の言うことも乙の言うことも、それぞれの主旨がわかり互いに妨げるものでもなく、甲をまっとうすることも仏教、乙をまっとうすることも仏教であるとわかります。あたかも東の枝もあって、西の枝もあることで同じ一樹木であるようなものです。つまりそれは他でもなく、仏教の根本のおおよそを了解することです。

その根本とは何かといえば、十善十悪因果応報の真理のことであります。お釈迦様が三大阿僧祇と言われる果てしない時間の間修行してこられたのもこの真理を研究し体得するためだったのです。五十年余りの説法である八万四千の法門もこの真理をおし広げて説明し、展開したものであって、この天地世界に起こる様々な出来事、苦も楽も、窮することも達成されることも、各々その違いが起こる所以、広く十方世界にわたり様々に異なる理由を探求するとき、この真理に依らなければ到底知りえないのであります。


(↓よろしければ、一日一回クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 地域生活(街) 中国地方ブログ 福山情報へにほんブログ村



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする