十善戒略解総論 要旨 明治十九年一月 釋雲照著述 長木栄治郎出版
十善戒法は、一切世間出世間の善法の本源であり、積善の家に餘慶ありと言われるように、吉凶殃慶一つとして因なくして果はない。いまこの身が壮健で長寿であるのは前世で不殺生戒を護った餘慶であり、衣食住俸禄あって安楽なのは不偸盗戒の餘慶であり、男女仲良く子孫あり家門繁栄するのは不邪淫戒の餘慶である。
教養や慣習が家に備わるのは不妄語戒の餘慶、穏やかに控えめな徳により周りに重んぜられるは不綺語戒の餘慶、家族仲良く老いて子孫に孝心あるのは不悪口戒の餘慶、家族親族近隣と仲睦まじきは不両舌戒の餘慶である。家に財あり山海の実りあり融通するは不貪欲戒の餘慶、身体健全で顔端正にして周りから侮られず慕われるのは不瞋恚戒の餘慶、神々の守護あり心に憂いなきは不邪見戒の餘慶である。
逆に、殺生する者は、寿命短く、恐怖多く、恨まれ仇多く、死後悪趣(地獄・餓鬼・畜生の世界)に逝く、人に生まれても短命多病となる。偸盗する者は、財産を失い、法により裁かれ、心に常に恐怖あり、死後悪趣に逝く、人に生まれても他に使役され貧しく衣食に困窮する。邪淫する者は、家に和みなく、法に裁かれ、自分を欺き人を畏れる、死後悪趣に逝く、人に生まれても意に随う伴侶は得られず、針の筵に置かれる。
妄語、綺語、悪口、両舌する者は、怨み憎まれること多く、自分を欺き信用なく、しばしば禍に遭い、死後悪趣に生まれる、人に生まれても言葉不自由となる。このように一度なされた善悪の行いは、その業消えることなく、その報い必ずあることを知り、一切の苦楽はみな自分の心から生じるものであるので、善人君子の楽しむべきなのはこの応報の原理なのである。
このような善き戒が身にあるときは、自ずから悪事が遠ざかることは、人に元気が充満しているときには病いに侵されないようなものである。不殺生戒が身にあるときは、たとえ怨みもち生き物を殺害する悪賊や毒虫に遇っても、慈悲心をもってこれに対峙するので自然に遠ざかっていく。不偸盗戒が身にあるときは、金銀財宝を前にしても不要な欲を起こすことなく、放火や盗賊、暴漢が自然に遠ざかっていく。不邪淫戒が身にあるときは、余所の男女に愛着を生ずることなく、隙をうかがったり示しあわせるなどの毒害は寄りつかない。
不妄語戒が身にあるときは、欺いたり心乱れ偽証したり贋の書類を作ったりという悪心は寄りつかない。不綺語戒が身にあるときは、言葉飾ることなく、軽口を言ったり、戯れを言うような迷い患いが寄りつかない。不悪口戒が身にあるときは、言葉柔らかに、罵詈雑言を吐くような悪心が寄りつかない。不両舌戒が身にあるときは、言葉に誠実さが表れ、他者と仲違いをしたり関係を悪くしたり他者を悪く言ったりお世辞を言ったりという悪心が遠ざかる。
不貪欲戒が身にあるときは、足ることを知るがために、欲張り貪り他の盛んなるを羨んだり名利を求めるような悪心が寄りつかない。不瞋恚戒が身にあるときは、身が慈悲そのものとなるので、眉をひそめたり眉間に皺を作ることもなく、憂い悩み嫉妬を起こす悪心が遠ざかる。不邪見戒が身にあるときは、人を見ても自然を見ても因果応報の姿を知るので、邪なものに心惑うことなく、聖なる者を軽蔑し賢者をそしり神を侮り仏菩薩を誹謗するような悪心は決して起こらない。
ときに、この世で戒に則った生活は難しいことであって、通常の人のなせることではないと言う人がある。これに答えるに、例えば殺生をしようとするには、自分の手足を使って、道具を揃え相手の隙をうかがい策を施さねばならず、難義を窮めることであり、不殺生戒を護ることの方がよっぽどなしやすいことであり、実は十悪こそなしがたいものなのである。
また、現世の苦楽は既に前世の善悪業によって決まっているのに、この世で善をなしても利益無しと言う者があるとか。これに答えるに、前世の善悪業に二種、決定業と不定業とがある。善悪の業に強弱重軽があり、その強く重い業はその報いを受ける時には、苦楽の軽重長短が厳然と決定されているとされる。これに対し、不定業はそれが未だ定まらない業のことで、この世で善を行うときには善き縁を催して前世の善業により善き結果をもたらす。また悪をなせるときには、悪縁が増上して前世の悪業が悪い結果をもたらす。これは前世までに蓄えた善悪業が弱く現世の善悪の助縁に引かれてもたらされるものなので、悪をなさず善を行う事によって、悪縁を避け善縁を常に生じ善業が報い結果するように生きるべきなのである。
また、仏法は世間の実情に合わず奇怪で役に立たない荒唐無稽のものだと言う人あり。これに答えるに、きれいな鏡がその姿をそのままに映し出すように、この善悪業をもたらす善悪の行為も一度なすならば、その行いと心のなした軽重によって、必ずこの世でか、来世ないし未来世にてその報いを受けるものであって、僅かでも道徳心ある者は、この因果応報の理を常に忘れることなく、重んじるべきである。誰もが、眼前の小利に惑うことなく、十善戒を守護して善なる大利益に浴すべきである。
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十善戒法は、一切世間出世間の善法の本源であり、積善の家に餘慶ありと言われるように、吉凶殃慶一つとして因なくして果はない。いまこの身が壮健で長寿であるのは前世で不殺生戒を護った餘慶であり、衣食住俸禄あって安楽なのは不偸盗戒の餘慶であり、男女仲良く子孫あり家門繁栄するのは不邪淫戒の餘慶である。
教養や慣習が家に備わるのは不妄語戒の餘慶、穏やかに控えめな徳により周りに重んぜられるは不綺語戒の餘慶、家族仲良く老いて子孫に孝心あるのは不悪口戒の餘慶、家族親族近隣と仲睦まじきは不両舌戒の餘慶である。家に財あり山海の実りあり融通するは不貪欲戒の餘慶、身体健全で顔端正にして周りから侮られず慕われるのは不瞋恚戒の餘慶、神々の守護あり心に憂いなきは不邪見戒の餘慶である。
逆に、殺生する者は、寿命短く、恐怖多く、恨まれ仇多く、死後悪趣(地獄・餓鬼・畜生の世界)に逝く、人に生まれても短命多病となる。偸盗する者は、財産を失い、法により裁かれ、心に常に恐怖あり、死後悪趣に逝く、人に生まれても他に使役され貧しく衣食に困窮する。邪淫する者は、家に和みなく、法に裁かれ、自分を欺き人を畏れる、死後悪趣に逝く、人に生まれても意に随う伴侶は得られず、針の筵に置かれる。
妄語、綺語、悪口、両舌する者は、怨み憎まれること多く、自分を欺き信用なく、しばしば禍に遭い、死後悪趣に生まれる、人に生まれても言葉不自由となる。このように一度なされた善悪の行いは、その業消えることなく、その報い必ずあることを知り、一切の苦楽はみな自分の心から生じるものであるので、善人君子の楽しむべきなのはこの応報の原理なのである。
このような善き戒が身にあるときは、自ずから悪事が遠ざかることは、人に元気が充満しているときには病いに侵されないようなものである。不殺生戒が身にあるときは、たとえ怨みもち生き物を殺害する悪賊や毒虫に遇っても、慈悲心をもってこれに対峙するので自然に遠ざかっていく。不偸盗戒が身にあるときは、金銀財宝を前にしても不要な欲を起こすことなく、放火や盗賊、暴漢が自然に遠ざかっていく。不邪淫戒が身にあるときは、余所の男女に愛着を生ずることなく、隙をうかがったり示しあわせるなどの毒害は寄りつかない。
不妄語戒が身にあるときは、欺いたり心乱れ偽証したり贋の書類を作ったりという悪心は寄りつかない。不綺語戒が身にあるときは、言葉飾ることなく、軽口を言ったり、戯れを言うような迷い患いが寄りつかない。不悪口戒が身にあるときは、言葉柔らかに、罵詈雑言を吐くような悪心が寄りつかない。不両舌戒が身にあるときは、言葉に誠実さが表れ、他者と仲違いをしたり関係を悪くしたり他者を悪く言ったりお世辞を言ったりという悪心が遠ざかる。
不貪欲戒が身にあるときは、足ることを知るがために、欲張り貪り他の盛んなるを羨んだり名利を求めるような悪心が寄りつかない。不瞋恚戒が身にあるときは、身が慈悲そのものとなるので、眉をひそめたり眉間に皺を作ることもなく、憂い悩み嫉妬を起こす悪心が遠ざかる。不邪見戒が身にあるときは、人を見ても自然を見ても因果応報の姿を知るので、邪なものに心惑うことなく、聖なる者を軽蔑し賢者をそしり神を侮り仏菩薩を誹謗するような悪心は決して起こらない。
ときに、この世で戒に則った生活は難しいことであって、通常の人のなせることではないと言う人がある。これに答えるに、例えば殺生をしようとするには、自分の手足を使って、道具を揃え相手の隙をうかがい策を施さねばならず、難義を窮めることであり、不殺生戒を護ることの方がよっぽどなしやすいことであり、実は十悪こそなしがたいものなのである。
また、現世の苦楽は既に前世の善悪業によって決まっているのに、この世で善をなしても利益無しと言う者があるとか。これに答えるに、前世の善悪業に二種、決定業と不定業とがある。善悪の業に強弱重軽があり、その強く重い業はその報いを受ける時には、苦楽の軽重長短が厳然と決定されているとされる。これに対し、不定業はそれが未だ定まらない業のことで、この世で善を行うときには善き縁を催して前世の善業により善き結果をもたらす。また悪をなせるときには、悪縁が増上して前世の悪業が悪い結果をもたらす。これは前世までに蓄えた善悪業が弱く現世の善悪の助縁に引かれてもたらされるものなので、悪をなさず善を行う事によって、悪縁を避け善縁を常に生じ善業が報い結果するように生きるべきなのである。
また、仏法は世間の実情に合わず奇怪で役に立たない荒唐無稽のものだと言う人あり。これに答えるに、きれいな鏡がその姿をそのままに映し出すように、この善悪業をもたらす善悪の行為も一度なすならば、その行いと心のなした軽重によって、必ずこの世でか、来世ないし未来世にてその報いを受けるものであって、僅かでも道徳心ある者は、この因果応報の理を常に忘れることなく、重んじるべきである。誰もが、眼前の小利に惑うことなく、十善戒を守護して善なる大利益に浴すべきである。
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