住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

現実を見つめて-チェルノブイリ原発事故10年目の環境問題[平成8年(96)6月記]

2011年03月24日 17時27分22秒 | 様々な出来事について
日本全体、いな全世界を巻き込む大事故に発展するかに思われた福島第1原発の事故は、その後、消防、自衛隊さらには外国の応援も受けながら放水し放射線を発し続ける使用済み核燃料の冷却を行い、さらには電源機能の回復によって劇的に終息に向け動き出しているかに見える。しかし事はそう簡単ではない、電気系統の爆発による損傷はかなりのものと言われその回復には時間がかなり掛かりそうだ。そして、現在大衆の関心を集める問題は既に発せられた放射性物質による食物や家畜さらには人体への影響に関心が向かっている。

しかしいつまた大地震が襲いかかるか分からないこの日本列島に未だ何もなかったかのようにたくさんの原発が稼働している。今朝の朝日新聞には静岡県知事川勝平太氏がソフトランディングとの軟らかい表現ながら原発依存からの脱却を唱えている。当然のことではないか。下記の文章は、今から15年前に、仏教雑誌『大法輪』の環境問題に関する特集のために書いたものです。チェルノブイリの事故の悲惨さが正に今私たちの所に降ってこようとしている。いや既に降りつつあると言った方がいいかもしれない。安全に運転していたとしてもとてつもない負の遺産を私たちは生み出しつつある現実を知るべきかと思います。



現実を見つめて-チェルノブイリ原発事故10年目の環境問題[平成8年(96)6月記]

(大法輪平成8年9月号掲載)               
                                        
 <原発事故十年目の現実>
1996年4月26日、旧ソ連・ウクライナで起きたあのチェルノブイリ原子力発電所の事故から10年を迎えた。日本でも様々な集会が開かれ、新聞やテレビでも10年目を迎える現地の様子が報じられていた。

NHKの特集番組「終わりなき人体汚染」を私も拝見した。チェルノブイリから400~500キロも離れた地域で子供たちの甲状腺がんや白血病がいまだに増え続けている。妊婦の染色体異常と新生児の先天異常、それに事故処理に当たった作業員たちの脳神経細胞の死滅も深刻さを増す。今も放射能を放つ土から栽培された作物を、それと知って食べざるをえない人々の心はいかばかりであろうか。その痛ましさ、恐ろしさに思わず映像に見入ってしまった。

そして遠く日本から8000キロも離れた土地の出来事。50年も前の広島・長崎で起きた放射能被爆が繰り返されてしまった。そう感じた人も多かったかもしれない。しかし私はこの番組を見終って、そこに日本に暮らす私たちの今の現実に何も触れられていないことに戦慄を覚えた。

はたして日本の老朽化しつつある原子力発電が、このチェルノブイリ原発の様に事故を起こさないと言い切れるのだろうか。はるかに狭いこの日本で、もしも同じ様な事故が起きたらどれほどの被害になるのか。大地震が原発を襲ったらどうなるのか。そのとき、私たちはどう行動したら良いのか。「もんじゅ」のその後も心配される。そうした同じ地球に暮らすものとして、同じ過ちを犯すやも知れない国の一員として、何も語られないことの怖さを感じずにはいられない。

そもそもチェルノブイリ原発の事故がどれだけ恐ろしいものであったかを、私たちは知らない。プルトニウム、ストロンチウム、セシウムといった放射性物質が死の灰として降り注いだと新聞などで報じられている。こうした金属の仲間が原子炉の暴走による爆発によってガスになってしまうほどの高温、摂氏三千から四千度に上昇して、膨大な死の灰となり1万メートルも上空に吹き上げ、全世界を汚染してしまった。

事故による直接の死者は阪神大震災の死者を上回る6千人以上に上るともいわれている。被曝した人は全体で1000万人を越え、この事故に直接起因するガン患者は数十万人に達する。そして避難者は立入禁止地区30キロ圏だけでも13万5千人にも及んだ。阪神大震災では地震後すぐ近くの学校などに歩いて避難できたが、チェルノブイリの事故では見えない放射能を浴びつつ、家族が散りじりとなりながらバスでの大移動になったという。

一瞬の原発内の爆発で、地球上の環境が見えない放射能によって計り知れないほどに汚染されてしまった。原子炉から吹き上げた死の灰は国境を越えて全世界に降り注いだといわれる。ポーランドでは牛乳の飲用が禁止され、スウェーデンの湖では食用に危険な程の放射能で魚が汚染された。そして遠く離れた日本でも母乳から放射性ヨウ素が検出されている。震災後の復興は次の日から始まるが、原発事故は10年たった今も、その被害状況すら正確につかむことができない。そしてこのチェルノブイリの影響がピークに達するのはあと10年も先といわれている。

<私たちの問題として>
こうした私たちを取り囲む環境の現実を、日常生活の忙しさに取り紛れ、はっきりと知らずに、または知ろうともせずに過ごしてはいないだろうか。原発や核の恐怖ばかりか、防災を無視した町作り、開発や事業という名で進められる自然破壊、大気や河川、海洋の汚染、資源やエネルギーの無駄使い、ごみ問題、有害な化学物質や電磁波の問題等々。

こうした生活環境について知れば知るほど不安になり、そんなことを真剣に受け止めていては実際の競争社会の中で生きていけないではないか、と思われる方もあるかもしれない。しかし、やっと40年を経て解決に漕ぎ着けた水俣の人々も、雲仙普賢岳の噴火で家を追われた人たちも、奥尻島や阪神・淡路の地震で家を潰されて避難した人たちも、その瞬間まで我が身に災難が降りかかるとは誰もが想像もしていなかった。私たちの町が、生活がこんなにも危険で脆いものだとは、誰もが知らなかった。いざとなっても警察も消防も役所も当てにはならない。まずは自分自身が、そして身近な人たちがたよりであるということを思い知らされたのではなかったか。

<現実に向き合う>
お釈迦様は、最初の説法において四聖諦[4つの聖なる真実]という実践に導く教えをお説きになられた。この教えを私たちのテーマに則して考えてみてはいかがであろうか。

[1]自分自身の心の現実に向き合い、移ろい悩み苦しむ心をありのままに知るべきであると教える[苦の真実](苦諦)は、私たちを取り巻く様々な環境の真実の姿をはっきりと知ることの大切さを教えてくれている。

今の私たちの生活を維持していくために地球上の環境が日に日に破壊されていく現状、多くのヨーロッパの国々がその危険性と非採算性から国民投票を経て脱原発に向け進み始めた中で、いまだに増設を進める我が国の原発行政、無目的な乱開発の現実などについて目をそらすことなくはっきりと知らねばならない。

そして私たちの行いの一つ一つが何によって成り立ち、どういう結果を招いていくのかも自ら尋ねてみる必要がある。大量生産大量消費される品物によって暮らす私たちは、末端で環境を破壊する担い手でもある。そして各家庭の、例えば電気の無駄づかいは電力消費を増大させ資源を浪費し、自然を破壊したり、日々増加する被曝労働者を抱えつつ稼働される原発を増設する理由の一つにもなる。この様に私たちの一つ一つの行いが、すべてに通じ関わっている。私たち自身がそうした現状を増長しつつある現実を知らねばならない。

<その原因は>
[2]苦しみの原因は自らの貪りの心であり、それを根絶すべきであると教える[苦の原因の真実](集諦)は、今の状況に至った原因が私たち一人一人の行いを生じさせる欲の心、貪る心にあると知り、改めるべきであると教えてくれている。

手軽さ、便利さ、快適さのために経済至上主義を許してきたのは私たち自身ではなかったか。そのためには資源やエネルギーの大量消費と環境の劣化を敢えて顧みずにきたのではなかったか。開発という名の自然破壊の陰に、利権を貪る構造が存在し、それを学歴、地位、権威を求める私たちの欲の心が支えてきたのではないか。私たちはこの欲こそを拭い去り、単に利便性のみを求める安易な生活を改めていく必要がある。

<理想の姿とは>
[3]苦しみを滅した心の平安を実現すべきであると教える[苦の滅の真実](滅諦)は、私たちの進むべき方向をはっきりと設定すべきであることを教えてくれている。

ごみとして捨てられ、この地球上に害を与え続けるような、使い捨てされるものに囲まれて暮らすことが私たちの理想ではない。限りある資源やエネルギーを湯水の様に使い、なおかつ一瞬の事故によって計り知れない被害を人と環境に与えるものであり、そればかりか日々排出される放射性廃棄物の処理に半永久的に膨大な資本を投じざるをえない原子力発電に頼るような危険と隣あわせの浪費型社会が理想でもあるまい。

この地球に暮らす一つの種として、人間らしく将来にわたって安心して暮らすことのできる生活環境を子供たちに残してあげるにはどうあるべきか、が私たちにとっての火急の課題である。出来得る限りのものをリサイクルして、資源としてのものを生かしてあげる。太陽や風力による自然エネルギーやコジェネなど、より多く実用化されることも期待したいが、大切なことは、今の増え続ける消費量に合わせて供給を膨らませていくのではなく、無理のない供給量に合わせた、より自然を育む生活習慣に切り替えていく冷静なる認識が求められているのではないだろうか。

<いかにあるべきか>
[4]苦しみを滅する方法として偏らない清浄な生き方を実践すべきであると教える[苦の滅への道](道諦)は、その理想を実現するために私たち一人一人の日々の生活そのものの改善を促すものである。

自分一人が気をつけてもどうなるものではないと、ものを無駄づかいし電気や水を使い放題使う生活。また、このままでは地球の自然が崩壊する、この世に未来はないと今の社会生活を放棄してしまうこと。そのどちらも極端な生き方だといえる。これまでの日々の積み重ねが今の状況を作り出してきたように、自分自身の行いの一つ一つについて自ら判断し改善していく必要がある。私たちの生活環境を守るという観点から様々な問題に知悉するとき、どう物事をとらえ考え行うか、どのように生活し生業に努めるべきかを知ることができる。

そして、時として日常の生活を離れ、自然の中で静かに目を閉じ瞑想するとき、自分と回りのものたちとのつながりや自然との関わりにも気づくであろう。互いに関係し、それらが在ることによって自分が今あることを実感するとき、地球上の様々な出来事、現象が自分と決して無関係ではないと知ることができる。人間中心の発想を改め、人と自然との調和を模索しつつ、生きとし生けるものを友として、その平安を願う、慈しみの教えの大切さをも実感するであろう。


ほんの20年程前に、川でざりがにやおたまじゃくしと遊ぶ子供の姿を見ることの出来た東京都下の町でも、都市化が進み、河床はコンクリートに固められ、電線が張り巡らされて、すっかり生き物たちの姿が失われてしまった。過密度を増し、それだけ災害時の危険は増大していく。家の中には電気製品が溢れ、増大する電力需要をまかなうために全国17か所に50基もの原発が稼働し、毎日放射能を大量に放つ廃棄物を吐き出している。どの国もその高レベル廃棄物を処理する処分法すら確立できないまま、世界中で400基を超える原発が稼働している。この事実に、私たち人間の愚かしさを思うのは私だけであろうか。

お釈迦様は、若き日に栴檀の香りたつ王宮にあって、カーシー産の瀟洒な衣をまといつつも、人の老い衰え、病み苦しみ、死にゆく現実を他人事とすることなく、自分の身に引き当てて、自らの若さ、健康、寿命に対する慢心を捨て、出家なされた。私たちも、身の回りの現実をありのままに見つめ、我が身に引き当てて今に目覚めることから始めなければならない。そしてそのことは、漠然と不安や苦しみを感じている心の現実を探究する、仏教の実践にも通じることなのではないだろうか。

   参考文献・危険な話 広瀬隆著(八月書館)
         ・脱原発年鑑 原発資料情報室編(七つ森書館) 

なお、この度の原発の事故並びに放射能汚染について関心のある方は下記動画を是非ご覧下さい。

http://www.ustream.tv/recorded/13509353


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続・無常なるかな-東北関東大震災に思う

2011年03月21日 19時57分34秒 | 様々な出来事について
日に日に亡くなられた人が増え続けている。その中で、9日目にして八〇歳の女性とお孫さんが救出されたというニュースも伝わっている。避難所の態勢もまだ整わないところが多く、まったく取り残されている人たちも居られるようだ。政府は何をやっている足りないものばかりだという声も漏れ伝わっている。確かにその通りなのであろう。しかしそう言うのは簡単だが、このような事態で全てが上手いように進むことを望むのもいかがなものか。おそらくそれは、被災者と自治体、政府を結ぶ中間にいてそれらの手配をすべく努力している人たちから漏れ出た言葉だと思う。実際に被災して避難している人たちの声はまた違うのではないか。

毎日被災地での様子に心痛めながらも私たちの生活は進行していく。お彼岸になり、また通常の仕事も当然のことながら進めていかねばならない。そうしていながらも誰もが被災地を思い、またそれが自分の身近で起こることを考え、様々なことを考えさせられることであろう。すべてのものは無常であり、苦しみは突然やってくる。この世の中はそんなものだと頭では分かっていながらも、突然の場面では誰でもがとてつもない苦しみを感じる。しかしその苦を何とか長引かせることなく、また出来れば軽いものとして受け取ることはできないものだろうか。

私たち誰にでも、いつそのような苦しみがやってくるか分からない。それは今回のような天災かもしれないし、災害かもしれない、また、病気や、身近な人の不幸かもしれない。とにかくそうしたことごとが今回の地震や津波の被害のように、それらがいくつも重複して起こる事態に追い込まれないとも限らない。日々、私たちは心構えとして、この世は無常なのだという真理を心の片隅に、頭の隅に留めておくことが必要ではないかと思う。

そして、何かあったとき、それがこの世の習いとすることであると、誰にでもやってくることであると思うことが出来たなら、絶望したり、パニックになったり、自暴自棄にならずに済むのではないか。今回の東北関東大震災で被災した人たちの多くが冷静な対応が取れたのも、多くの人たちがそのような思いをお持ちであったればこそ、大きなトラブルもなく粛々と行動されたのであろうかと思う。それをおそらく海外のメディアは日本人はみな水を汲むのにも取り合いにならずパニックを起こすこともなく列を作り冷静であると称賛しているのであろう。

そして、前回も書いたとおり、無常だからこそ、そのどん底にあるような思いから必ず回復していける、立ち直っていける、よい方向に変わっていけると信じられる。それは運命などでないと。これからの行い、考え方次第で換えられるのだと思える。それが大切なのではないかと思う。

同じような境遇にあっても、生と死を分けることがある。それをその人の持った功徳である、行い、つまり業なのだと言う人もある。すべてのことに原因ありとも言い、生き残れた方にはよいが、亡くなられた方には誠に無礼な冷酷な物言いに聞こえる。しかし、それほどこの世の中の現象は単純ではないだろう。一人一人の今生での行い、その方たちの過去世の因縁、それがこの天災とどう関係しどう結果していくのか、そんなことがお分かりになられるのはおそらくお釈迦様だけであろう。安易に言うべきことではない。

しかし、増一阿含経の中にある『業道経』という経には、同じ事をしても地獄に行く人と行かない人がある。それを分けるのは、その人の日々の行い、心を修め、智慧の教えを学び、功徳豊かであったかどうかにあると書かれている。人として生まれたからには善きことをせよとも教えられるように、行い次第によってよくあれるのは私たち人間だけなのであるから、たくさんの善いことをしておいて悪いことはないとも考えられる。仏を拝むことも大切かもしれないが、それよりも行いが大切なのだとお釈迦様もおっしゃられていることにも通じる。

五歳の女の子が家族が皆亡くなり、家も流され天涯孤独になった。避難所でインタビューに応じたその子は、「それまでの生活がいかに幸せであったかが分かりました」とコメントしたという。だから私たち被災しなかった者たちは今こうしてつつがなく暮らせることに幸せを見出すことが大切だという人もある。漫然と何もかも当たり前、不満ばかりを言うことに対する反省の弁として聞くことは出来よう。

しかし、事はそれほど簡単ではないというのが本当のことであろう。何もかにも整い、なんでも当たり前の生活をしている天人のような生活に興じている人たちにそのありがたさを思えと言っても、簡単にそう思えるものではない。この世の中はそんなに生ぬるいものではないだろう。やはり苦しみの現実を身をもって体験して初めてそのありがたさが分かるものではないか。幸福を食べて生きる天界の住人がやはりこの苦楽ある人間界に地獄の苦しみを味わいつつ降りてきて、やはりそこで努力しなくては悟れないというのはそうした意味でもあろうと思えるから・・・。



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被 災 者 の 声-阪神大震災から得たもの

2011年03月19日 18時16分13秒 | 様々な出来事について
(今この未曾有の東北関東大震災にあたり、被災地でたくさんの人たちが悲痛の声を上げつつあることに心痛みます。なにも出来ずにこの場に留まっている居心地の悪さを感じます。全国の多くの人たちがそうした思いで、人ごとではなく自分のこととして見つめておられることと存じます。以下の文は、16年前の阪神大震災の折に避難所に駆けつけ感じたことを綴ったものですが、少しでも被災地で、またこれからボランティアに駆けつけようと思われる方になにかのご参考になればと思い掲載します。)

被 災 者 の 声-阪神大震災から得たもの

[平成7年(95)3月記]
                                                
二月一日から二週間、神戸市東灘区の市立本山南中学で約八百人の被災者の人たちと生活をともにした。(東灘区は六万七千人という最大の避難者をかかえる自治区であり、大小あわせ百十もの避難所がある)

地震直後から何かできることがあったらしなければと思い。とりあえず食料だけ自分なりに梱包したものを神戸市の災害対策本部宛に送ってはいたが、何か物足りなさがあって申し訳ない思いが続いていた。そうしたところに、芦屋の友人からの連絡で、カウンセラーという精神面のケアーをする人が足りないのだが、という話に早速現地に赴くことにした。

<避難所へ>
JRの芦屋駅に降り立ち、友人と会い初めて地震の被害を被った町を歩いたとき、建物の倒壊したすさまじさに比べ、ものものしい様相で歩いてはいるものの道行く人が意外と落ち着いていると感じた。小雪のちらつく中、瓦礫を避けたり、上から垂れ下がっている電線に気をつかいながら阪神芦屋駅まで歩き、二つ目の青木駅へ。大阪方面の電車を使う人の終点ということもあり、駅の周辺は 大きな荷物を持った行き交う人であふれていた。

青木駅から本山南中学のある田中町まで、普通に歩けば約二十分なのだが、途中瓦礫で道が分断されていたり、水道の工事などで通行止めになっていたりと、地図にある道が通れず、歩道に広がった瓦礫で車道を通らざるをえないようなところも多くやっとの思いで一時間以上もかけて本山南中学にたどり着いた。

<避難所の様子>
本山南中学は当初から、被災住民の自治が確立し、それを駆けつけてきたボランティアが支援していくという体制が取られた。本来あたり前のようなこのことが、意外と他の避難所ではできていないことを後から他の避難所を回ってみることで知ることができた。現在、体育館には床に布団や毛布を敷いて寝ている人たちが三百人、そのロビーで寝ている人五十人、各教室が四百人、校庭に特設のテントを作って生活している人や倉庫に寝泊まりしている人が五十人。

水を含めた生活物資の搬入と分配。炊き出しの準備と実施。災害対策本部の受付事務。これらがボランティア側の当初の仕事であったが、避難している住民は日に二度のパンやおにぎり、牛乳などの食料の配分やトイレ、廊下の掃除などが割り当てられている。

私がうかがったのは地震発生二週間が過ぎ、それぞれ厳しい状況の中で、大分その生活にも慣れてきたという頃だった。私も、一人で話だけしているわけにもいかず、とにかく給水車が来れば、ポリタンクに水を移し、食料などの物資が届いたら搬入の手伝いをするというように、この避難所の仕事を一通り経験することにした。そして、空いた時間には体育館に入って行ったり、教室を歩いて出会った人と話をするというようになるべく多くの人と話をし、気安く話をしてもらえるような雰囲気を作っていった。

この避難所に生活する人の名簿から一人だけの世帯やお年寄りだけのリストを作り一人一人当たることもしてみた。また、保健室に来る人の中で精神的に弱っている人を教えてもらい訪ねてもみた。そうして、午前中と夜は、この本山南中学の中の人たちの様子を見ることを中心にし、午後は周りの避難所の様子を見て回ることが私の日課となった。
                                           
<地震直後のこと>
はたして、何人の人と話しができたのだろうか。話し込むと、すぐ一時間二時間があっという間に過ぎている。話している人も我を忘れて夢中になってしまう。地震の話から脱線して若いとき活躍していた話や家のことに話の向かう人も多かった。中には地震によるショックで自閉症が更に悪化し、かなり重傷と思われる方も中にはいたが、おおかたの人たちが肉親を亡くした人も含め、この地震を乗り越え次の人生に向かって積極的に取り組み始めたという印象であった。

話を始めると、一様に皆堰を切ったように地震のときの自分の体験を話してくれる。箪笥が仏壇の上に重なったことで押しつぶされずに済んだ人や、 二階のベランダの縁が倒れて来たとき、その丸く開いた切れめに自分の顔が入ったので助かったという人。大きな箪笥の倒れる寸前に無意識に体が反対側に滑り込んで助かった人。

毎日五時にジョッギングに行っていたのにその日初めて行くのをやめたおかげで、自分も助かり、箪笥にはさまれた奥さんをすぐに救出できた人、阪神高速を普段使っている長距離の運転手さんが、その日はどうしてかすいていたので下を走って帰ってきたところ橋脚の倒れたあたりで地震にあったという人など、話してくれた多くの人がそうして助かったことが奇跡だと感じている。

<避難所が出来るまで>
そして、地震後明るくなるのを待って男の人たちは周りの倒れた家々で生存者がいないかどうか生き埋めになっている人たちの救出に時間を忘れたという。それから、中学校に家を失った人たちが集まり、はじめは千二百人もの人たちの避難生活が始まるのだが、初めは電気も水もなく、食べるものもなく。異様な暗やみの中で寒さと余震と空腹に苦しむ三日間を辛抱された。

初めて来たおにぎりのありがたさ。数が十分ではなく、一家族にひとつという割り当てではあったが、騒ぎも起こらず、そのひとつのおにぎりを分け合って食べたのだという。その頃はただ生きていて良かったというたったひとつの気持ちがみんなの中にあって、だからこそ不平不満も出ずにただ我慢できたのであろう。仮設トイレも当初なかったため、校庭に垂れ流しの状態が続いたのだという。

昼間は壊れた家から少しでも衣類や寝具を取り出し、夜はみんなで身を寄せあって寒さをしのいだ。救援物資が届くようになり、その分配方法や管理をめぐってお世話役ができ、リーダーという人が取り仕切るようになっていった。そしてボランティアが現れ、より快適な環境を作るためにみんなが力を合わせていくこととなった。

<気持ちの変化>
こうして、ただ生きていて良かった、一口でも食べられてありがたいという一念だった人たちも一週間二週間が過ぎ、だんだんともっといい物が食べたい、もっといいところに寝たい、という気持ちも一部現れて来た。そして他に住むところのある人は移って行き、電気が通じたことでひびのはいった家に戻る人も出てきた。

しかし、してもらうことに当たり前だ、行政はけしからんと思っているような人には誰一人として会わなかった。ボランティアに対しても、送られてくる救援物資に対してもみんな感謝の気持ちで一杯であった。毎日同じようなパンとおにぎりの配給に対しても。

ごてごてに回る行政の対応に対しても、おおかたの人がこれだけの惨事にすぐ対応できるほうがどうかしている。いろいろな面で対応が遅れたのは、行政のせいではなく、この地震を見に周りの県から押しかけて来た人たちのせいで必要なものが届かず、必要な作業が遅れた。これは我々住民の側の責任なのだ。ある人がそういわれたことが印象に残っている。決して人に責任をなすりつけるのではなく、すべてのことを自分たちの問題として捉えようとしている。

ほとんどの人が身近な人を亡くしたり、家屋をつぶして悲しみ、これからの将来に不安をかかえている。しかし、その多くの人たちはこのような否定的な感情を自ら乗り越えようとしている。どうしてこのような大震災が神戸で起こったのか。これまで、しゃにむに働いて来るだけだった人たちが我が身を振り返り考え出した。これには多くの人が神戸市株式会社という言葉を使って説明してくれた。

神戸の人にとって神戸市はお金の亡者という印象があり、自分たちも当然そうした影響の下に何よりも儲けることを第一に生きて来た。この地震は贅沢に慣れ、ほかして無駄にすることを反省することすらしない今という時代への警鐘であると受け止めている。多くの人がこうした風潮への罰が当たったのだと考えている。

<連帯感が生まれる>
これまで自分の人生の大半をかけて築いて来た家が一瞬にして倒壊した。育てて来た会社が、店が全壊し再開のめどもつかない。そうした悲惨な目に会った人たちが、本当に大切にするものはそんなものではなかったんだと語りだす。この世のものはどんなに立派なものでも頑丈なものでも簡単に壊れてしまうものなんだね。それなのに、こうしてこの命を助けてもらったこと、みんなと一緒にいられることに感謝しなきゃ。あのときのひとつのおにぎりがありがたいと語る。

みんな一緒という気持ちが芽生え、全然知らなかった人と声をかけ励まし合い、助け合い、語り合う喜び。いくつもの心の絆が生まれた。ある中年の奥さんは結婚してこんなに旦那さんと一緒にいれたのは初めてだと嬉しそうにいう。若い人たちがこんなにありがたいと思ったことはない、いつもは最近の若いもんはと言っていたのに若い人たちを見直しました、という声も多くの人から聞いた。贅沢は言えません、家を無くして来ているんですから、でも何でも若い人たちがしてくれて、また沢山の救援物資をいろいろな方からいただいて本当にありがたい感謝の気持ちで一杯です。

生かしていただいた人は何かそれまでにいいことをしていたんでしょうね。こうして生かしてもらったからには、そのことを忘れることなく、何かこれからも人様のためになることをさせてもらって決して自分のことばかり考えて譲ることをしないような人にだけはならないようにしなければいけないと思っているんです。と話してくれたご婦人もいた。

<少しづつ問題の芽が>
地震によって一人一人何かに気づき出した。それまで当たり前と誰もが思ってきた価値観が崩れ、人と人の暖かいふれあいの中に限りない大切なものを見いだしているように思われる。校庭のストーブに体を温めるおじさんたちも驚くほどの哲学者然とした言葉を語り出す。家の壁が吹き飛んで、心の壁も無くしたようだ。誰とも自然に声を掛け合い、友情の感情を持つ、何でも助け合ってやろうという気持ちが芽生えた。慈悲にあふれた空間が生まれた。本山南中学校にはとても明るい雰囲気が満ちている。

しかしだからといって、誰一人問題が無いというとやはり片手落ちだ。夜になるとお酒が入り物資を分けろと押しかけて来るような人も三、四日に一度はいるし、やや乱暴な人たちもいて、それなりに問題はある。しかし、それは普通の状況下でも起こりうるものであって避難所に特有のものでも無い。これから大切なのは、避難所生活が長くなることによる疲労、無気力。だから盛んにイベントを計画しているところが多い。

それに、精神面のケアー。このためには本来から言えば、避難者同志で語り合える場の設定が大切であって、専門的な処方の必要な人はわずかであるという感触を得ている。そして、家族別々に暮らすことを余儀なくされている人も多い。何よりも早く仮設住宅、公共住宅の入居を進めてあげたい。

いまだにプライベートな空間が無く、風呂は近くの学校の自衛隊の仮設温泉に入り、洗濯もできない毎日を避難所の人たちは送っている。先に帰って来てしまう後ろめたさを感じつつ、私は帰路についた。新幹線の中から眺める建物がなぜみんな地面に垂直なのか。神戸の風景のほうが自然なのではなかったか。一瞬そんな幻想が頭をよぎった。倒れた建物があり、瓦礫があることのほうが普通なのではないか。

何でも表にあるものはきれいに整理されていなければいけないということのほうが不自然なのではないのか。新しく作られるものがあるなら壊れるものがあって当然で、そうした中から何かが生まれて来る。神戸は多くの人や建物を無くした代わりにおそらくそれを失わなければ得られなかったとてつもない財産を一人一人の被災者が獲得したであろうと思える。その財産を少しでもお裾分けに預かったのが全国からまったくの善意で被災地に駆けつけたボランティアたちではなかったかと思う。

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無常なるかな―東北関東大震災に思う

2011年03月16日 07時00分28秒 | 様々な出来事について
ご存知の通り、大変な事態に陥っている。日本の国はこれからどうなっていくのだろうか。様々なことが取り沙汰される中で、多くの善意ある人々によって被災した人たちの心が少しでも癒され、また、この国に降り注いだ危難が好転して行くことを願いたい。

何をもってもまずは、今回の地震、津波で亡くなられた方々にお悔やみを申し上げるとともに、未だに家族の行方さえ分からない方々、家も財産も暮らしの糧もなくした皆様に何とか早く様々な対策が講じられることを、さらにはその上に原発の放射能の恐怖におびえる人たちも含め、一刻も早く心落ち着き、安らいだ気持ちになれるようにと願いたい。

この世は無常である。とおっしゃられたのはお釈迦様である。その真理を本当に理解していれば、この危機的な状況もごく自然なこと、自然の営みに起こるべくして起こったこととして受け入れることも出来るのかもしれない。しかし、私たちはまったくこのことを自然のこと当たり前のことと受けとることなど出来ない。何とか生き延びた方々は奇跡だった、運が良かったと思われるであろう。本当にそのように思えるものだと思うし、その実感はよく理解できる。かつて阪神大震災の折、ボランティアとして現地にあって、多くの被災した人たちの話を聞かせていただいたが、皆さんそう語られていた。

だが、仏教では、何事もいろいろな原因、条件によってこの一瞬成り立っているに過ぎないと考える。私たちの立っている地面も本当はいつどうなるかも分からない、だから無常なのだけれども、普段はみな今までの安定した状態がずっと続くものと考えている。少しずつ変わり、変化していることに気づかない。それが今回のように急激な変化を伴うと突然すべてのことが急転直下変化したと感じる。青天の霹靂、そう誰でもが思うであろう。が、正にこの言葉は私たちが無常ということを本当には分かっていない証拠になるものなのかもしれない。何不自由なく暮らしている人たちにとっても、今は奇跡的な一瞬なのである。

何事も移り変わる、常に変化しつつある。私たちは、そんなことは当たり前のことだと思っている。ただ、おそらくそれは頭で理解しているに過ぎない。本当は無常ということを私たちは受け入れようとはしない。ずっとこの安定した状態が続いて欲しい、続くものと思って生きている。だからこそ、今回の地震は青天の霹靂なのである。

普通、私たちは誰でもが安定したこの状態がずっと続くものと思う。だから、毎日の普段の生活が成り立つのであろうし、そう思っているからこそ家族を持ち、将来のためにいろいろなことも出来る。しかし、それも変化していく、無常だからこそ成り立つことでもある。歳を重ね様々な体験から家族ができ仕事が進み経験を積んでいくのも変化していくからであろう。健康に生きていられるのもこの身体が無常なるものだからである。

安定し変わらずにあって欲しいものと、変化していって欲しいものとが自分にとって望ましい状態である間は、何の不思議も感じずに普段の生活を送っている。それなのに、そのどちらもが本当は無常だからこそ成り立っているということには気づかない。しかし、それらが自分にとって望ましくない方向に変化していくと、途端に無常ないしは無情だと感じるに過ぎない。

この世は無常なるが故に苦であるともお釈迦様はおっしゃられた。誰もが苦を体験しつつあるのに、それに気づかない。何かあったときだけ苦しみを感じているように思う。そして今、こうなって、被災地の人たちとともに私たちはその苦しみを、レベルの違いこそあれ感じつつある。痛みを共感している。無常なるが故にこの世は苦なりということを、正に私たちは学びつつある。

ところで、今私たち国民を不安のどん底に陥れているのは余震もさることながら、福島第一原発四基の状態であろう。高レベルの放射能にさらされながら、現場ではどれだけの作業が出来ているであろうか。どのような人たちがその作業を担わされているのであろう。それを監督する人たちはどこでその指示をしているのであろうか。技術と知識を併せ持つ人たちが現地できちんと状況を把握しているのであろうか。心許ない限りである。

原子力、放射能、それを最も危険なものと知っているはずの日本で、原発がこの狭い国土に、地震国に、何故これほどまでに作られてしまったのか。チェルノブイリ、スリーマイル島の世界的な原発事故があってもなお、建設予定地の住民の反対で作られにくくなっているとは言え、今日まで54基を数えるほどに増設されてきた。福島原発の現地の状況は、おそらくこの人知を越えた恐怖の中で、思い通りの作業が出来ない状況なのではないかと危惧される。

原発は、正常に稼働していたとしても、高レベルの放射能を放射し続ける廃棄物を膨大に排出し続けている。それを安全に半永久的に保管していかねばならない。一万年という果てしない時間で濃度が半減するという数字もどこかで見た記憶がある。それもガラス固化体に入れた上で地下深くに埋められての話だ。一万年もの時間何事もなく保存できるとする科学的な見識は、どうやってこの地震国で保証できるのか。さらには国内にその最終処分場さえ決められない現状の中、無謀に稼働されているのが我が国の原発なのである。

そしていま、高濃度の放射能が放出されている現状において、どうやってその放射能の害から私たちを守れるのか。おそらく何も科学者たちは語ろうとさえしないであろう。正に科学の過信によってもたらされた人災と言えるのではないか。放射能は国境をまたいで飛散していく。人知を越えた無謀なる冒険のために全人類を危険にさらしている。これこそ、この世の無常という真理をまったく分かっていない人たちのなせる業(わざ)なのだと言えまいか。が、ともあれ、まずは現場で必死にこれ以上の被害が拡散しないためにいのちを張って作業している人たちの健闘を祈りたい。


無常とは、ただ私たちに今あるこの悲惨な現状を甘受せよなどという教えではない。天罰などと言ってそれを被災した人たちだけにその悲惨な現実を受け入れよというような教えでもない。無常だからこそ、これからの展望も開ける。苦しみも癒される。家族を亡くし、何も考えられないような心境であったとしても、明日の生活さえどうしたらよいのか何のあても無いとしても、家が無くなり家族と別ればなれになってしまったとしても、必ずそのつらい思い悲しい思いどうしていいか分からない今の心は変化していく。必ず、よい方向に向かっていける。だからこそ、この世は無常なのでもある。どうか希望を失わず、これから少しずつ変わっていける、たくさんの人たちが助けてあげたいと思っている、みんながやさしい思いでいることを忘れないで欲しいと思う。

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年頭に思う

2011年01月05日 20時08分16秒 | 様々な出来事について
今年も元旦の護摩を焚き檀信徒の皆様と共に幕開けした。護摩を焚き終わった頃には近隣からお見えになった初詣の参詣者もまばらで、今年も例年行列をなして鰐口を叩くという老若男女の姿を見ることはなかった。毎年のことながら残念に思う。ところで、皆さんは初詣の賽銭にはいくらくらいを投じたであろうか。

かつて東京の深川にある冬木弁天堂にいたことがあるが、そこでは万札が賽銭に投じられることも稀ではなかった。深川七福神の一つということもあり、それこそ一晩中札所の朱印をもらうために色紙を持った参詣者で賑わったものだ。そして7日まで特設にお堂の中まで土足で上がってお参りできるように設え、七福神に今年一年の福を授けて貰う人、また弁天様ということで、特別に芸事や商売をされている人も多くお参りに来られていた。中には有名な俳優さんやテレビでお馴染みのソムリエなども来られ親しく語らいをしたことを思い出す。

ところで、そうした参詣の折、賽銭を投じて、それでこと足れり、後は神さま仏さまよろしゅうにと私たちは思いがちではないだろうか。しかし、それではやはり片手落ちであろう。たとえば、日頃余りお会いしない人などにものを頼むとき、私たちは菓子折の一つも持って丁重に挨拶し、事の事情を説明し、こちらも努力するので何とかお願いしたいと頭を下げるものではないだろうか。

だとするならば、神さま仏さまに投じる賽銭はどう考えても軽すぎる。菓子折ほどにもならないかもしれない。それでたいそうな願い事を聞き入れてくれると思うのはどう考えても早計であろう。もしそれが挨拶程度のものであるならば、「ならばそなたの行状をしかと見定めてしんぜよう」と神さま仏さまは思われるかもしれない。

そう考えてみると、私たちはあまりにも安易に神頼み仏頼みをしているとは言えまいか。いやいや賽銭も立派な布施、善行であると言う方もあるかもしれない。とするならば、その後の布施に続く仏行である戒と定が、やはり必要となる。それをしっかり行じて初めて慧という果が得られる。善因善果、何事も因果応報がこの世の掟ならば、なおさら私たちは安易な神頼みはあり得ないということをそもそも知るべきであろう。

そんなことは百も承知、それでも正月の一つの仕切り直し、ご挨拶として初詣に参るのであると言われるのであれば、なおさら日頃のお勤めの大切さが分かっておられるであろう。毎日勤めるからこその勤行。仏前に仏飯やお茶湯をお供えして勤行次第を毎朝お勤めなさっておられることであろう。そうしてお勤めをなさっておいでなら、それで終わりではなく、それは何のためなのか、それは自分の生きるということとどう関わりがあるのかをご存知であろう。

勿論経を唱えなくてはダメだというのではない。経を唱えずとも、日頃の行いに気をつけ、自らの心の有り様を観察されるなどすることはいくらでもある。他の人々や生き物と共に良くあるように、自分の物などと狭い考えにとらわれず他と分かち合い、快楽におぼれることなく。相手を思いやり優しく真実を語る。少欲知足を心がけ、誰にも慈しみの心で接して功徳を積み、この世の真実の姿を見据えていくなど。

しかし、勤行次第は読むだけでも一つの行となり、また、そうして仏前に疎かになりがちな仏道への精進を日々誓うものであろう。毎朝、頑張りますと宣言するものなのではないか。それは一生続く。だから仏教徒の人生は精進の一生。最終目標にはお釈迦様の悟りを置いて日々一歩一歩を歩む。勿論それは簡単なものではない。だからこそ歩む意味がある。簡単なものなら一生の、いや何生もの目標たり得ない。何回も何回も生まれ変わって私たちはその目標に向かって生きる。だからいつかその目標が達成される、つまりは悟りの可能性が誰にでもあるのだとも言える。

そして、だからこそ一家で一番尊いものとして仏壇を一番その家の上(かみ)に祀り、その最上部に仏さまを仰いでおられるのではないか。仏壇こそ私たちの生きるすべてを教えて下さっているとも言えよう。その形はこの世の生命のあり方を教え、仏像の澄みきった眼差し、落ち着いた姿勢、静寂、高貴な佇まいは、人としての最高の生き方を教え、たくさんの位牌は人とは死すべきものであるとも教えている。お供えした花もじき萎れ枯れていく。掃除をして綺麗だと思ってもすぐにホコリが目に付くようになる。何事も無常であることを明らかにそこに見せてくれる。時を無駄にせず、何が大切で、どう生きるべきか。そこから私たちは何を学び、日々生きる糧と出来るであろうか。

お天道さまが見てござる。昔の人はそう考えられた。すべてのことに原因がある。すべてのことはそれによって結果する。因果が巡り巡る。すべてのことはあるべくしてある。それはとても厳しい、おそろしい、怖いことでもある。だから、日々精進せよとお釈迦様は最後におっしゃられたのであるまいか。・・・・・。


(追記) 

お参りをして下さるのはありがたいことです。そこからどのように人々の信仰なり信心なりを発展させていけるか。それが大切なことだと思っております。ただ手を合わせ賽銭を投じるだけの行為から、少しいろいろなことに関心を持つ。お寺や神社があれば、何か素通りできない。どんなところかと関心を持つ。手を合わせる。何をしていても、目に見えない何事かの力を感じそれらにありがたく思う。そんなところからひとり一人の人たちが何か目覚めるものがあればいいと思っています。


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宗教とは何だろう

2010年11月12日 08時17分22秒 | 様々な出来事について
11月4日に紙上に発表された朝日新聞の死生観を問う世論調査によれば、「宗教が生きていく上で大切なものだと思いますか」との問いに、そうは思わないという人が62%。また、「宗教を信じることにより、死への恐怖がなくなったり、やわらいだりすると思いますか」との問いに、そうは思わないという人が68%にも上るという結果が出ている。誠に嘆かわしいことだと思う。

宗教というものがまったく分からない時代になっていると言えまいか。核家族化して、子々孫々に伝えられてきたであろう、家の教え。その家で大切にすべきものは何か、そんなことはまったく教えられず、ただ日々の寝食と知識教育、労働だけの日常に明け暮れている現代人の姿が想像される。

私たちは何のために生きているのか。生きるとは何なのか。そんな問いに今の教育はまったく答えられないのではないだろうか。少し前に、知り合いのあるお医者さんが命の大切さについて講演を頼まれたが、どう話して良いものか分からないのですと言われていたことを思い出す。医学の知識経験はあっても、命そのものについて学んできたわけではない。それはやはり宗教の領域であろう。

宗教とは何だろう。おそらく他の動物に宗教はあるまい。他の動物と人間の違い、それは正に生きるということそのものを問う営みを持つか否かではないだろうか。毎日目を覚まし、ご飯を食べ、仕事に行く。仕事に行くからこそお金を手にして暮らせるのではあるけれども、それは生きていくためであろう。生きながらえるために働き、ご飯を口に出来る。

そのための技能、知識、マナーを学ぶために、現代の私たちには学校があり生まれてから約20年もの長い時間をそのために費やす。他の動物も生きるために食物を口にすべく育てられ様々な経験の元に食を繋ぎ生きながらえていく。そこには人間と何も変わりはないように見える。そこで、私たちはそれと同じような一生を過ごすだけでよいのかという問いが必要になる。

人として生まれたからにはそれだけではいけないのではないか。なぜならば私たちは物事を考え自らそれを実行する能力を有するものとして生まれてきているのであるから。生きるということそのものを問う営み。そのためにこそ宗教がある。宗教は生きるということと密接に関係しているのであり、ただ祈りを捧げるために宗教があるのではない。儀式儀礼のために宗教があるのでもない。それは副次的な事項であって、本来私たち自身がいかに生きるべきか、そのことを問う営みこそが宗教であろう。

お寺や神社、教会に行ったらこうしなくてはいけない、持ち物やお供えの仕方、作法、・・・そんなことは本来どうでもよいことなのであって、大切なことではない。大切なことはその儀式儀礼に参加してその人自身がそのことにどのような意味、価値を持って参加されているかということであろう。姿形、形式、作法にとらわれる余り、その中心課題にはまったく無頓着に関わりを持つが故に、宗教というものの本質すら分からない時代となってしまっているのではないか。

生きるとは何か。いかに生きるべきか。人生とは何なのかを問う営みには、多くの先人の足跡が参考となるであろう。彼らがいかにしてそれを獲得したのか。その足跡を訪ねつつ学び、自らの思索を深め、体験を重ねていくことこそが宗教に他ならない。そういう意味において、本来宗教とは人生そのものなのだと言えよう。

「宗教が生きていく上で大切なものだと思いますか」こんな問いが世論調査に入ってくるのは我が国くらいのものであろう。このこと自体誠に不名誉なことであるとも言えるが、当の宗教者自身さえもがこのことに何の反応もない、無自覚無感覚に飼い慣らされてしまった、誠に嘆かわしい末世の時代でもあるのである。

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暑い夏、雑感

2010年09月05日 13時02分59秒 | 様々な出来事について
9月に入ったというのに、相変わらずの暑い日が続く。異常気象、地球温暖化だからと簡単に片付けていいものだろうか。巷間伝わっているところでは、この異常な暑さの原因は、今年春に起こった英石油大手BPによる米メキシコ湾原油流出事故の影響とも、地球を取り巻く熱圏の崩壊とも言われている。

熱圏とは電離層とも言われ、地上から80kmから1000km付近にある大気層で、地球の大気と宇宙空間が最初に出会うところでもある。太陽や宇宙から降り注ぐ人体に有害な電磁波や放射線をここで吸収している。地球の温度調整もここでしている。熱圏は太陽活動のサイクルにより、薄くなったり厚くなったりしているが、米航空宇宙局(NASA)が7月15日に地球大気の熱圏崩壊を発表しており、今回観測された収縮の規模は科学的に説明がつかないほど大規模なものだという。

この熱圏崩壊の原因には二つの説があり、一つは太陽に何か大きな異変が起きているのではないかということ。昨年は太陽の活動の活発さをあらわす黒点が観測されなかったのに、今年になって急に沢山の黒点が観測されるようになったという。そしてもう一つの原因が、米軍がアラスカで展開している軍事プログラム『高周波活性オーロラ調査プログラム』(HAARP)による影響とも言われている。

HAARPとは電離層の研究を目的とする軍事プロジェクトで、「民生および軍用の通信システムと監視システムを強化するために使用する」とされているが、実際にこれが使用されただけで大規模な地震や地球規模で気候異変が起きるのではないかとも言われている。

ところで、この暑さ36度から38度の日が連日続いているが、かつてインドのサールナートというお釈迦様が最初に説法された聖地で一年間過ごしたときには、連日40度を超える夏を経験したことがある。夏と言ってもインドの場合は、乾季と雨季に別れており、そのあたりでは3月の半ばから6月の半ばに雨が降り出すまでが乾季でとてつもなく暑い。一番暑い日には54度という日があった。

建物もコンクリートなので、昼間の熱気で壁は熱を持ったまま、部屋の中は熱気で夜も寝られたものではない。そこで、チューブベッドを外に持ち出して四隅に棒を立て蚊帳を吊り、その中に入って寝るのだが、蚊が侵入してきたり、暑くて寝られない日も多かった。そういうときには気休めにもベッドの周りにじょうろで水を撒いて寝たものだ。昼間は誰も外に出ない。木陰で静かにしているほか仕方がない。仕事は朝夕の涼しいうちにすべてを済ませてしまう。

そんな感じで耐えて6月に入り、今か今かと待ちかねて雨雲が現れだして、わっーといわゆるスコールのような雨が降ったときには、みんなで外に出て両手を広げて雨を受け空を仰いだものだ。その時ほど雨がありがたいと思ったことはないし、そのまま地面に上を向いて寝ころんだものだ。しかしそういう雨期にはいると、そのサールナートあたりではそんなに毎日雨が降るわけでもないのに、ジトジトしだして、逆に体調を壊し、病気になる人も現れる。相変わらず外に寝ていて、急に雨が降り出して大急ぎでみんなで手伝いながらベッドをひさしの中に入れることもあった。いずれにせよ、今思えば楽しい貴重な体験だった。

しかしあれだけ暑い夏を経験していても、やはり、今年のこの日本の異常な暑さは身体に応える。あれから気がつけば20年近い年月が経過している。月日の経つは早いもので、次の世代に何もかも任せなければいけない日もすぐにやってくる。そんなことを考えさせられる記事が今年8月8日に朝日新聞に掲載された。「墓守いない散骨、子に迷惑、けじめ」と一面トップに書かれていた。読むと、瀬戸内の呉市の男性が都会に出た子供に先祖の墓守を委ねられないからとすべて掘り起こし海に散骨したという内容であった。

タイトルにあるように子に迷惑を掛けられないからとある。それがけじめだとも書かれているが、けじめとは何だろうか。何もかも後腐れ無く処分することがけじめなのだろうか。逆にきちんと自らのルーツを確認する場だと言って、住まいは離れていても通ってくるか、逆に墓を移転することも選択肢にあっても良かったのではないかと思う。なにもかにも合理的な判断と思ってしたことが、実はとてつもなく大切なものを失うことになったと気づいても遅いということにならないか。

他国に比べ家族を大切にし、親族、地元、故郷、お国を大切にしてきた日本人の美徳がこうして失われていく。核家族化して、さらに家族関係も崩壊しようとしている今の日本人を象徴しているかの記事だと思うのは私だけであろうか。根無し草になって、みんなバラバラ、隣にいる人が何していようがおかまいなし、何かしたら親兄弟、先祖に顔向けも出来ないという感覚も失われて殺伐とした社会になっていきはしまいか。そんなところからも、精神的に病んでいく人々が後を絶たず、自殺も減らないのだとは言えまいか。さらには社会との帰属意識、ひいては日本人としての帰属意識も希薄となっていくのではないか。

8月6日、米国大使ルース氏の出席を巡って話題となった今年の広島原爆の日ではあるが、何故原爆の日の行事は毎年行われるのか。やはり次の世代にきちんと受け継いでいくことが大切だということであろう。やはりとても暑い夏に終戦を迎えたあの戦争とは、どれだけ悲惨なもので、何の決定権もない庶民が犠牲となるだけで、結局はごく一部の者たちの単なる経済活動に過ぎないものだったということも知らねばならないであろう。

そういう庶民の感覚を、真相を次世代にきちんと伝えていく必要がある。そういう過去を蘇らせ、普段なかなか出来ない話しが自然に出来る場としても、お墓や仏壇というのは意味ある物なのではないか。とにかくいろいろなことを次の世代にきちんと伝えていかねばいけない。こんなことをこの記事を読んで考えさせられたのであった。・・・・。


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安芸門徒はなぜかくも大勢力となり得たか

2010年05月04日 19時25分01秒 | 様々な出来事について
安芸門徒はなぜかくも大きな勢力となったかについて、ある敬愛する先生から問われ、調べを進めていたところ、中国新聞社刊「安芸門徒」復刻版 (水原史雄著1996年8月8日刊)をお持ちの方があり、お借りして読んだ。それによると、そもそも中国地方への浄土教の先鞭をつけたのは、法然が法難(1207)に遭い、流罪になった法然の弟子浄聞が備後を配流の地にされたことだという。しかしその足取りは不明とのこと。

そして、鎌倉末期に、本願寺系ではない、仏光寺系の親鸞、真仏、源海、了海、誓海、明光と次第する法脈が備後に教線を展開した。この明光派と安芸門徒に言われる人々は、親鸞の説いた信の大切さに加え、「一流相承系図」なる系図に入信者は教化者の次に僧衣を着た姿で絵姿を書き、確かに親鸞-明光に繋がる視覚的な安心を与えることで教線を拡大していったと言われている。

ところで、安芸門徒のそもそものおおもとになった本山級のお寺は、福山と尾道の間にある沼隈町山南(さんな)の光照寺というお寺である。その南東10キロのところにあるのが鞆の浦で、ここは瀬戸内海の潮の干満の分岐路にあたり瀬戸内きっての要港であった。明光はおそらく海路で鞆の浦から上陸し山南に来て、光照寺を1320年に開基したのであろう。

しかし実際にはその孫弟子の慶円という人が自分がなした業績をその恩師の名を借りて語ったとも言われている。明光は相模の生まれで、鎌倉の事情にも精通していたであろうことを考えると、当時備後地区も後醍醐天皇側について倒幕に加勢する武将たちが多く、彼らに師から伝え聞いた知識は重宝がられたということもあったのかも知れない。そして、その時期、備後での真宗の教線が浸透していく。

そして、1337年という年に、覚信尼の子・覚慧の子である本願寺三世覚如(親鸞の曾孫)の長子存覚がこの備後に下向している。平川彰先生の『仏教通史』によると、存覚は本願寺で生まれたものの、14歳の時、奈良の興福寺、東大寺で受戒、華厳、法相を学び、東寺系の真言宗の受法、さらに叡山で、諸学を研鑽している逸材であった。21才で本願寺に戻り、父の覚如と、越前に出向き、如導に「教行信証」を教授し、仏光寺了源、錦織寺愚拙らに教義上の指導をしたと言う。その後、覚如は、存覚がなした聖道門流の法儀などに対して、在家主義の好みに合わないと存覚を義絶。

だが、覚如自身も実は、比叡山や南都で勉学した人で、倶舎論、法相宗を学んでいる。「報恩講式」や「本願寺親鸞伝絵」を著し、親鸞を本願寺聖人と位置づけ、親鸞の本廟を本願寺と称したのも、この覚如であった。

そして、存覚は、49歳の時、備後の門徒の求めに応じて備後に来る。1338年には、国府守護の前で法華宗徒との対論にのぞみ勝ったといわれている。「備前法華に安芸門徒」と言われ、備前には日蓮の孫弟子、日像の流派の人々が布教したことから、当時かなり、備中備後にもその教線が延びていた。そんなことから、真宗門徒としてはその勢力に対抗する意味でも対論にのぞまねばならなかったのであろう。

そうして、備後の門徒たちは、室町時代初期から中期に次第に尾道や世羅、三和、神石など南北に勢力を拡張していったらしい。しかし今日のような大勢力になるには、この後、本願寺系への教義変更があり、そこには、蓮如が果たした民衆の力を高揚させ、守護大名から戦国大名となっていた軍事力との拮抗した大勢力を集結させられるだけの結束力が求められていたからと考えられる。

本願寺教団は第八世蓮如が出て一気にそれまでの沈滞した体制を挽回し、近畿、北陸、東海地方を教化。特に加賀では一向一揆を指導して、富樫家を排除(1488)して、一世紀に亘り加賀一国を実効支配する。余談ではあるが、蓮如の生母は、蓮如6歳の時行方をくらまし、備後の鞆の浦に身を寄せていたとも言われるが、遂に蓮如は備後並びに安芸には下向していない。おそらく、当時備後の門徒衆は下野の専修寺系であったためではないかと思われる。

そのためか芸備には一向一揆はなく、歴史に安芸門徒の名が登場するのは毛利氏が門徒保護をうたってからである。しかし毛利氏の保護の前には、武田氏が安芸の守護として門徒を保護した。安芸武田氏は、信玄の祖の分流で、現在西本願寺広島別院である仏護寺が創建されるのがその時代のことであった。とはいえ初めには広島県安佐南区の武田山の東麓の龍原の地に仏護寺は造られ、もとは天台宗の寺で、開基は甲斐武田氏の一族だった。

しかし、第二世円誓の時早くも、本寺と十二坊すべてが真宗に改宗している。1496年4月8日円誓が読経していると、黒衣の老僧が現れて説法し数珠を交換する、その後お参りした京都の蓮蔵院の親鸞の木像が円誓自身の数珠をしていたとのことから、その不思議に感涙して蓮如に帰依し、真宗に転じたということになっている。そして、そのことから、この龍原こそが親鸞の「滅後の巡教地」と言われるが、当時既に、領民の中にかなりの真宗門徒がおり、それらの勢力に押されるか、ないしそれを利用する意図もあったのではないかという。

そして、備後の光照寺の上寺は、開山の明光の出身地である相模の最宝寺で、この最宝寺が、永正年間(1504-21)頃、光照寺も含め下寺を伴って本願寺の配下となった。1537年、光照寺は最宝寺の下から抜け、直接の本願寺直末にする運動をするが、最宝寺の反対で実現はしなかったものの実質的にはこのときから本願寺直結の待遇を与えられた。

その後、1541年安芸武田氏は、毛利元就に壊滅させられ、城主武田信重には幼子がいて、城を脱出、太田川を渡り安国寺に入って、後の安国寺恵瓊となる。そして、その城は焼失、麓にあった仏護寺も焼かれる。1552年、仏護寺三世超順は元就と会談して仏護寺の再興がなり、以前にも増して広い寺域に堂宇が再建。その後元就が勢力を拡大するに際しては、安芸の真宗寺院も参戦して軍功をたて、太田川などの海賊衆も門徒化していった。

戦国時代の武将たちは、本願寺の門徒になることによって、身の保全を計り、さらに勢力の拡張を計ろうとした。もとは一揆と争った越前朝倉氏、甲斐の武田氏、美濃の土岐氏、近江の浅氏井、六角氏、阿波の三好氏、そして、安芸の毛利氏も、本願寺門徒と結んだ。これらの大名と敵対することは本願寺とも敵対することになり、第11世顕如の呼びかけに応じて各地に一揆が起こった。

そして、一方これらの大名や一向一揆と敵対する信長は全国制覇の軍をおこし、幕府最後の将軍義昭を奉じ上洛。その二年後、石山本願寺と信長の11年に亘る激戦の幕が開く。蓮如の時代に石山坊舎としてあった拠点を十世証如が石山本願寺として広大な寺域に諸堂宇を建立し、その周りに数千種の商いの寺内町を作り今の大阪の元を作っていた。

信長は鉄砲生産随一の堺を平定すると西国の前線基地とすべく石山本願寺の明け渡しを求める。本願寺顕如はそれを拒否。1570年石山合戦が始まり、西国の門徒に向け顕如は檄文を送り「・・・各々身命顧みず忠節を・・・」と書かれたその檄文によって、各地の門徒が石山に集結した。

以後十一年間に亘り信長と石山本願寺は断続的に合戦を繰り広げるが、要害堅固な法城であった本願寺は当初紀伊の門徒雑賀鉄砲衆により信長を何度も撃退した。そのため信長はその後兵糧攻めによる包囲作戦に転じる。そして、危機に面した本願寺にこのとき大量に兵量を送り込んだのが、村上水軍、小早川水軍で、毛利の配下の者たちだった。この船団には沢山の門徒衆が乗り込んでおり、この間に毛利家臣団の門徒化、ないし、門徒の毛利家臣化が進行して、いわゆる安芸門徒の規模を拡大させた。

頼みにした信玄、謙信が相次いで死に、大砲を要した巨船七隻を大阪表に配置した信長の前に毛利水軍は屈し、石山本願寺を明け渡して、顕如は紀伊の鷺森に移った。当初安芸に本願寺を造る構想もあったようだが、毛利軍にとっては石山の砦を失って信長勢が西国に攻め寄せてくる危機感もあって、それだけの余裕が無かった。

しかしこの石山合戦の間に毛利氏に安芸門徒は一体化し、そればかりか他国の門徒たちをも安芸に吸い寄せることになり、毛利氏を頼って安芸に移住するものも多かったという。天下が信長から秀吉の世になると、顕如は秀吉と結び、大阪城下の天満に本願寺を造営する。しかしその6年後には秀吉の命で、京都の今の西本願寺の地に本願寺を移転。そして、家康の時代になると、西本願寺12世准如の兄教如の為に家康は東本願寺を建てさせ、全国の門徒や末寺の勢力を二分させた。西日本には西本願寺の勢力地となる。

広島では、関ヶ原の合戦にて西軍の総大将であった毛利輝元は敗れて広島城を追われ、防長二国に移り、関ヶ原の合戦で東軍の先鋒を勤めた福島正則が入城した。そして、治政の一つとして広島市中区寺町付近に真宗寺院を17か寺を移転させ、仏護寺を中心とする寺院統制を行った。その後西本願寺広島別院となる仏護寺であり、のちに末寺とのトラブルもあったようだが、こうして備後安芸ともに西本願寺末の真宗寺院が大勢の今日に見る真宗大国の規模はほぼ出来上がっていく。

そして、江戸中期後期には芸轍と言われる、慧雲、大瀛、僧叡など数多の学僧を輩出。慧雲は、多くの弟子を育てるかたわら、当時学問仏教に偏向していた宗学を門徒の教化に転用することを眼目とした。山間部でも講組織を結んで読経聞法を毎月行わせ、多くの一般門徒に影響を与えた。多くの弟子がそれを継承して盤石の体制を整え、今日の安芸門徒が成立しているのである。



参考文献は、前述の「安芸門徒」「仏教通史」だけである。宗門の方からすれば穴ぼこだらけの内容かも知れない。どうかご容赦いただき、出来れば開いた穴をパズルのように埋めてくださったらありがたい。

(追記)明治16年2月 本願寺派寺院 安芸 399か寺     備後 259か寺
             門徒   安芸 13万2千296戸  備後 4万5千788戸

昭和51年の中国新聞の調査によれば、広島県人の57パーセントが真宗門徒で占められるという。


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阿修羅展と時代の波

2009年12月06日 11時29分12秒 | 様々な出来事について
今年も終わろうとしている。あと何日寝たらお正月なのかもわからないが、月日の経つのだけは早く感じる歳になってしまった。一年があっという間だった気がする、特に今年は様々なことで、選挙の年でもあり、世界経済の動揺した年でもあった。誠に目まぐるしい一年間ではなかったか。そして、仏教界では、阿修羅に始まり阿修羅に終わった一年ではなかったか。

東京国立博物館での入場者新記録を打ち立て、80万人もの拝観者があった。九州国立博物館でも同様の人気。さらにお堂で見る阿修羅像展でも、特設の仮金堂で多くの仏たちの中心に置かれてお祀りされた。そもそも、お堂の端に傍らに置かれて、そう特別に関心を持つ人もなかったと聞く。

それなのになぜ今年ここまでの人気を博したのであろうか。ずっと疑問に感じていた。入場するだけでも2時間待ち、さらに数珠繋ぎに牛歩の歩みで、前の人とぶつかりながら窮屈な思いをして、博物館職員の誘導で順次移動させられながらの拝観だったと聞く。なぜそこまでして阿修羅だったのか、何が人々の心をそこまで引きつけたのかが疑問だった。

そもそもこの阿修羅とは何か。様々な資料を拝見しても、それぞれでこれといった見方が分かれる存在でもある。時代によっても、引いてくる文献によっても変わってくるようである。修羅場、阿修羅の如く、などと言われるように、争い、怒り、戦いの象徴としての阿修羅という印象がある。六道に輪廻する中で、人界の下に置かれてもいる。

ここで、興福寺のホームページでの説明を見てみよう。

<転載>
阿修羅像(あしゅらぞう)【制作時代】 奈良時代 【安置場所】 国宝館
【文化財】 国宝 乾漆造 彩色 奈良時代 像高 153.4cm

 『梵語(ぼんご)(古代インド語)のアスラ(Asura)の音写で「生命(asu)を与える(ra)者」とされ、また「非(a)天(sura)」にも解釈され、まったく性格の異なる神になります。ペルシャなどでは大地にめぐみを与える太陽神として信仰されてきましたが、インドでは熱さを招き大地を干上がらせる太陽神として、常にインドラ(帝釈天)と戦う悪の戦闘神になります。仏教に取り入れられてからは、釈迦を守護する神と説かれるようになります。
 像は三面六臂(さんめんろっぴ)、上半身裸で条帛(じょうはく)と天衣(てんね)をかけ、胸飾りと臂釧(ひせん)や腕釧(わんせん)をつけ、裳(も)をまとい、板金剛(いたこんごう)をはいています。』

つまりインド世界では、西域から来たペルシャの太陽神・阿修羅はインドの神々に対抗する勢力であり、それらと対峙する者であった。だから悪の戦闘神だった。特に帝釈天と何度も戦い、帝釈天に負けても負けてもよみがえって戦闘を繰り返したところからも、戦さの神、争いを好む者という位置づけがなされたのであろう。

A・スマナサーラ長老の御著作『死後はどうなるの?』(国書刊行会)では、阿修羅は、神々の一種ではあるけれども、亜流、与党に対する野党のような存在だと記されている。

人間界の存在のように物質としての身体を持つことなく、霊的な存在ではあり、それは神と同等ではあるのだけれども、インドの主流をなす神々とは一線を画す存在。政界の中で同じ国会議員ではあるけれども、与党と野党が常に相争い抗争するのと同じような図式にあるという。

そう読み返してみたら、あることに気がついた。今年は、将来何十年か先には歴史に残る年として記憶されるべき年であったと。8月末の衆議院選挙において、正に、国民一人一人の一票によって、はじめて政権交代がなった。万年野党と言われていた戦後50年以上も野党であった人たちが選挙という民主主義の根本によって政権選択を果たした。与党と野党の戦いの中で今までの野党が世間の明るみに登場した。

正にその年に、春先から阿修羅が人々の関心を集め博物館に足を運ばせた。阿修羅は万年野党であった。お堂の隅でずっとこのときを待っていたのかもしれない。そして、仮金堂では中心に据えられた。同じように万年野党であった人たちが政界の中心に躍り出て、いま日本の国の改革を実行せんとしている。全く違う分野のことではあるけれども、そこにおもしろい符合があったのではないかとも思える。

官僚任せの政治を改め、予算も積み上げ方式を見直す。事業仕分けによって予算の無駄を排除する。もちろんいいことばかりではないだろう。様々な問題点がこれからも浮上するだろう。そして、多くの抵抗勢力からの邪魔もあるだろう。しかし、国民の選択によってなった政権としての重みを私たちはもっと認識しなければいけないのではないか。マスコミも司法検察もそのことを改めて考える必要もあるだろう。

人々の世の中を見る目が、物事を選択する尺度が少しずつ変わってきたのではないか。単なる個性化とも言えない、独自に考える、同じものを見ても自分はこう思う、引かれた路線上には乗らない、様々な情報が何を言わんとしているのか、どこへ誘導しようとしているのかというところまで考える人々が増えてきた証であろう。だから仏や菩薩ではない阿修羅だったのではないか。

仏教に対しても、厳しい見方をする人々が増えてきている。本来どのようなものか、自分たちには何が必要か、何をしてくれるのか、こうした観点からの淘汰がこれから行われていくだろう。仕分けされる時代が来るだろう。私たちにとっては、本来のもの、根本のもの、世界の人々との共感、これらの充電こそが問われる時代が到来するであろう。外国人の住職が現れだしたと言われる。時代はすぐそこまで迫っているのかもしれない。

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ある訪問者

2009年07月05日 15時28分23秒 | 様々な出来事について
先月の月例行事の前日、さあ準備を始めようと思ったら、ある人が訪ねてきた。訪ねてきたと言うよりは第一声は「写経用紙を下さい」だった。写経用紙を出してくると、玄関先に座り込んで話し出した。「いやもうまいりました。この二ヶ月生きた心地がしません」という出だしだったか、とにかく一気呵成に話し出した。

若い嫁さんを息子が貰ってきたと思ったら、子供が連れ子が一人おって、最初は仲がいいと思っていたら毎晩のように大げんかを始める。小さな子供がいるのにそっちのけで、刃物も飛び出す始末。かと思ったら、嫁さんの方が引きこもっていると思うと、手首を切っていたり。息子は仕事で何日も帰らない。そんなんだから、まったく家事もできやしない。

自分の妻も具合が悪く病院を出たり入ったり。その上寝たり起きたりのおばあさんまでいる。その間に入って自分は仕事にも出なくちゃいけないのに家庭がそんなんだから行ったり様子見に帰ってきたり。洗濯も炊事も自分がしたり息子がしたりで、落ち着かない毎日。休みの日には前には気晴らしに山に登ったりお寺に参ったりしていたがそんなことも夢の夢。昨日は小さな子を連れ出して公園で一日遊ばしてきた。

そんなこともしなくては若い夫婦の時間もあったもんじゃない。それでいてケンカばかりして、こっちは夜も満足に寝られやしない。そうかと思うと、その嫁さん、実家が何か霊が見える人がいるとかで、このうちの家の裏にある無縁墓の霊がたたっているだの、夜な夜な現れるだのと言い出した。近くのお寺さんに来てもらって、お祓いをしてもらったときはしばらくは何も言わなくなったが、そのうちまた昨日も来てたというようなことを言い出した。

何とかならないですかね。と言いながら、こちらの話は聞かずに、昔語りに、自分の母親の性格やら過去にあった四方山話を言いつのったかと思うと、突然写経の話になってみたり。またまた人は感謝の心を持たなくちゃいけない、人様に何かしてもらったら、礼を言うことくらいのことは必要だとか。・・・・。

とにかくそうして気がつくと小一時間話とおして、こちらから、まあ、そう言っても、新しい環境になれるまで時間も必要でしょうし、などというと「それじゃ、すいません、ありがとうございました」と言うなり、写経用紙を持って、さっと帰って行った。

こちらがそれでは、と思う間もなくお帰りになったのではあったが、何かこちらは消化不良。言うだけ言ってスッキリしたのか、何もお持ち帰りにならずに帰られたような気がして後味が悪かった。それにしても、いろいろな問題点が透けて見える。①リストカットとお嫁さんの実家での家庭環境のこと②霊のこととお墓③家族というものの理想と現実。

①については、以前にもここで書いたことがあった。身近な人に自分のことを気づいて欲しいという気持ちが自虐行為に駆り立てる。おそらく実家のお母さんお父さんとの関係の中に自分が見捨てられた必要な子ではないと思われていると決めつけているようなところがあるのではないか。そして本人がまだ自立できていないということが大きな問題であろう。さらには離婚や二度目の結婚についてもいろいろな紆余曲折があったであろう。そんなところの心の動揺がまだ落ち着いていないということなのであろう。

②については、ついつい霊能があるなどというとすべて分かっているという勘違いをされる人がいる。 霊能にも段階があって、ほとんどの人たちが亡くなった人の浮遊霊が見えるという程度なのではないか。見える人にはその人の心の次元にあった霊が寄ってくる。心が暗く恨みや嫉妬怒りの心があればそういう低次の霊が集まってくると言われる。その場所が問題なのではなく、その人が問題を抱えているがためにその周囲を巻き込むことが往々にしてある。無縁の墓はどこにでもあるし、亡くなった人がいない場所はない。冷静な対応が必要なのではないか。

③については、何事も新しい家族が増えれば、様々な軋轢を生むし、摩擦があって当然だろう。お互いに慣れるのに時間も必要だろうし、時間を掛けても解決されないことも多々ある。そういう場合は、距離を保って関係を改めることも必要だろう。あまり近づいたら大火傷をするが、距離があればどんなに熱いものでも耐えられる。みんな自分がかわいいし自分のことで頭がいっぱいだ。そもそも人はわかり合えないものだと思わないといけない。何ごともこうあるべきという理想ばかりではうまくいかない。理想と現実は違って当然だろう。そう思ってかからねばならないのではないか。

様々な人が様々な思いを抱えてやってくる。もちろん電話もよくかかってくる。何でもじっくり寄り添って聞いてあげるのが精神的な病い、心の傷を持つ人との対応の仕方であるというような言い方もなされる。しかしやはり聞くだけではいけないだろう。きちんとこちらの対応もなくては何のために話されるのか分からない。確かに答えを求めている人ばかりではない。しかしいざというときの答えは、やはり仏教の真理にてらした方針がなくてはならない。是非またお越しになることをお待ちしたいと思う。

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