住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

東京雑感

2009年06月28日 17時08分33秒 | 様々な出来事について
一昨日早朝6時に寺を出て、空港に向かった。小一時間走ると広島空港だ。朝一番のANAに乗ると9時には羽田に到着する。そして、予定どおり11時半には埼玉の東松山駅に着いた。この日は少し早いが盆参り。毎年こうして関東に四軒ある檀家さんをまわるようになって何年になるだろう。

今回はそれだけでなく、翌日には檀家さんの七回忌の法事もあったため、関東はひと月早いお盆とはいえ、それより二週間以上も早いこの時期の盆参りとなったのであった。「よく広島から来ましたね」と何人の方から言われたことであろうか。だが、私にとってはあまり距離は関係ない。身体が移動する時間さえあるなら何処にでも駆けつけようと思っている。今年の2月にはやはり埼玉の檀家さんが亡くなり、さすがに枕経は失礼したが通夜のお勤めはさせていただいた。

今回の法事も地元広島から東京にお出になられた檀家さんが亡くなり、急遽駆けつけて通夜葬儀を勤め、それ以来のお付き合いである。もちろん分家に当たるわけだから東京で知り合いのお寺を紹介することももちろんできたのではあったが、ご縁があり、できれば来て欲しいと言われるならばどこへでも駆けつけたいと常日頃思っている。

その盆参りと法事の合間に実は今回3件もの会合をもった。そのどれもが今の日本の仏教界に対する警鐘に触れ、さらにはそれが今の日本、いや世界の大勢の不具合とも連動した混沌とした様相に暗澹たる思いが語られるというものであった。仏教は無常を語り、それは苦であり、無我であるとする。なにごともあいつらなって連動している。みんなが影響を受けグシャグシャになっているかの世相もそう考えるとよく分かる。

これまで日本人の心の支えとして持ち合わせていた仏教がこんな状態だから、日本人がおかしくなり、子供たちもおかしいし、政治家も官界も財界もみんな列なって一つお金に動く社会となって、己の志に固く孤高を貫くといった哲学も持ち合わせることもなくなってしまったとも考えることもできよう。和魂洋才という、和魂もなくなってしまった。

いやいやそれは明治の時代に、あんなことになって強制的に人々から仏教を奪い取った国家の横暴が間違っていたとも言えるだろうし、加えてその頃から宗教などは婦人や子供のするものという誤った考えが流布されたためとも言えるだろう。または戦後占領下に、陛下のためならと命まで惜しまず特攻した日本人の一途な思いを分断せんとした特殊な宗教政策が効を奏して、キリスト教の行事を何の違和感もなく受け入れる、自らものを考えられない国民に洗脳し尽くされたことが原因なのかもしれない。

新聞、マスコミの言うことを真に受けるだけの国民。学校での教育もただ押しつけられる知識と考え方、解法をただ唯々諾々と身につけるだけ。大学受験でさえマークシート方式で選択すれば大学に入れる。一億総白痴化を推進している国家の愚かさ。自らそれが何か、どういう意味を持つものか、どうなるのかと考えることから開放されて、何の疑問も感じない国民に慣らされてきた。

だから仏事から例を取れば、お葬式って何?戒名とは何か?死んだらどうなるの?法事は何のためにするのか?そんなことを疑問に思ったり質問することもなく、死んだらみんな仏になると言われても、誰も、そんな馬鹿なことはないでしょう、とも言わずに済んできてしまったということにもなる。どんなに高等な理論を振りかざしてみても、それはやはり仏教である限り言ってはいけない。

なぜなら、お釈迦様はそんなことを言われてはいないし、なされてもいない。如来は法を語る者だと言われるばかりではないか、自ら歩むものだと。日本のお祖師でも誰でも、そんなことを言われた方はないだろう。そもそも覚ってもいない者が死者を本当に成仏させられるのだろうか。それこそどこかの新興宗教の言うようなことにはならないであろうか。

みんな輪廻転生するんだと、生前の行いそれによって導かれる死ぬ間際の心、それに従って来世がきちんとあるんだと、だからこう生きなきゃいけないだろうというのが仏教なんであって、だからこそその教えが重要なものになってくる。生きることと直結してくる。それが世界の仏教徒の常識だ。

いいよ、みんな死んだら仏さんだ、そんなこと言ったら、なんだ、じゃ教えも何も必要ないじゃないかということにもなるだろう。だから何も心に残るものがない、身につまされることがない、ただありがたいありがたいの日本仏教ということになる。

「ひとり来たりてひとり去る」という言葉がある。人はみんなたった一人で生まれ来て、一人死していくと。みんな違うしみんなバラバラに一人一人己の人生を生きるしかない。もちろん無我であり、空であり、相互に依存しているのだからそれぞれに影響を受け影響を与えつつ存在するのではあるけれども、自分は自分の責任で生き死んでいくしかない。

因果の中を生きている限り、何があっても、それからは逃れられない。なにごとも自業自得なのだ。他のせいにするから無責任な世の中にもなる。今の社会が悪いと思うなら、それをそうさせているその責任の一端は自らにもあるということなのだ。良いものにしていくには、そうさせるべき一歩が私たちに課せられているということになる。仏教も大きく変わる兆しが見えてきた。思いを共にする人たちとの連携の輪を拡げていくことが重要な時代といえよう。・・・・。

こんなことをあれこれ考えながら、揺れるANA最終便に身をまかせ帰着。盛りだくさんの出張を終えた。


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若々しくあるために

2009年05月10日 15時36分21秒 | 様々な出来事について
先日ある方から、若々しくあるためにはどうしたらいいですかと質問を受けた。その瞬間、これは初めての質問内容だなと思ったが、とっさに「まあ、身体は毎日というか、一瞬一瞬老化していっていますから、それはやむを得ないと思って下さい」と言った。私たちは生まれ落ちた瞬間から老病死を生きている。老いつつあり、病気になり、死していく。それはもうどうしようもないことわりだと言っていい。

しかし心の方は日々新たに生まれ変わり生まれ変わり新鮮な心を常に蓄えていることは可能だろう。その時次に上げる三つのことを申し上げた。深く考えて言ったことでもないので、不足のこともあろうし当たっているかは別としてここに述べてみよう。

まず第一に、今に生きるということ。私たちはどうしても過去にこだわり未来に希望や望みを託す。そして今がおろそかになる。「一夜賢者経」という経典にお釈迦様が教えられているように、過去は既に過ぎ去り、未来は未だ来たらず。ただいまなすべきことを正になせ。これである。

あれこれ過去のことを後悔したり、また過去の栄光に酔ってみたり。過去は過去であって、今のあなたではない。また、先のことを心配し、将来の絵空事に胸を沸き立たせるということもあるかもしれないが、それも今のあなたではない。

今にあなたがいないから今のあなたがもの足りない空虚感に苛まれている。あなたは今ここにしかいないということを知るべきであろう。今のあなたが充実して楽しく明るい心であったなら、日々若々しい心でいるということになるのではないか。

第二に、自分のこと、周りのこと、とにかく好奇心をもって様々な物事やその変化に気づくこと。漫然と時を過ごしていては、楽しいことはない。人の言うこと、周りの情勢に流され鵜呑みにしていては、自分自身にとって何の発展も成長もない。日々、何事かに気づき、疑問に感じ、自ら考える。気づくということ。好奇心旺盛であれば、常に心若々しく過ごせるであろう。

第三に、年を忘れるということ。年を意識することで閉鎖的な発想に陥る。年だから何とかというのが口癖になったりする。身体とは相談しなくてはいけないかも知れないが、そうでなければ年を意識せず何にでもチャレンジする元気が必要だろう。

また、年を忘れるというのは、誰をも平等な目で見られるということでもある。年による上も下もなく、みんなを分け隔てなく見ることが必要だろう。年で相手を見るということは自分の年を意識しているということだから、そこからは若々しい心は生まれない。

ところで、仕事別に長寿度を測定すると、やはり、僧侶や医者というのが最も長寿ということになるらしい。昔、「童心は道心なり」と言われ、インドで貧しい子供たちの成長を楽しみにボランティアを続けておられる長老がいる。

はたして、あの良寛さんもそう言われたかどうかは知らないが、良寛さんは、飄々と小さな庵に住まい、托鉢して暮らしていた。良寛さんも、近くの子供たちとは、まこと自分を忘れて、童心そのものになって遊んだと言われている。

自分を忘れるというと、「忘己利他」という言葉が思い出される。自分自分という思いが私たちの苦しみの根源にあり、それを忘れ他と共に生きることができれば幸いであろう。

自分という思いが過去の記憶だとするならば、やはり、過去ではなく今に生きることが大切だということにもなる。それは、年を忘れるということにもつながる。まずは目の前の現実を見つつ、様々なことに気づき、今に生きる。とっさに答えたことではあったが、結局は、仏教の瞑想をそのまま日常にいかすということが、もっとも、若々しい心で生きることができるということに結論づけられたようである。


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進化しているか

2008年12月24日 10時13分22秒 | 様々な出来事について
私たちは進化しているのだろうか。いや進歩しているのだろうか。十年前、百年前、一千年前の人と比べて私たちは賢くなっているのだろうか。科学技術の進歩。産業革命による大量生産、大量消費。運輸、通信技術の発展。医学の進歩と医療技術の進展。何をとっても過去のどの時代よりも今の私たちはそれらの恩恵に浴し、それらを駆使する進歩した立派な優れた現代人だと思ってはいないだろうか。本当だろうか。

昔はよかったというのはバカの言うことですよと言われたことがある。たしかに、私の子供の頃は、洗濯機は洗いをする回転板のついた水槽一つで、絞るのは、二つのロールの間に洗濯物を通し薄焼き煎餅のようにしてハンドルを回して絞ったものだ。

炊飯窯も、焚くだけで、保温は別の保温ジャーがあって移し換えた。テレビは白黒、それも小さな時にはラジオしかなかった。電話も小学生の頃だったかに家に取り付けられたが、大きな黒電話。勿論プッシュボタン式ではない、数字の所に開いた穴に指を入れてジャラジャラと金属の爪まで回していく、なつかしい旧式電話だ。

お風呂も今考えると贅沢な木製の風呂釜で煙突付きのガスの湯沸かし器がついていた。勿論トイレにシャワレットなど無かった。こう考えると昔はよかったというのは、たしかに馬鹿げているのかもしれない。今の方がよっぽど便利で快適な生活が送れるような品物がたくさん家にあり、私たちの暮らしを助けてくれている。

昔、インド・サールナートの田舎にいた頃、地元の小学校の先生がよく訪ねてきて、いろいろと日本のことを聞いてきたことがある。日本はいい国だすばらしい国だと言ってくれるのはありがたいが、その理由が、大きなビルがあるとか、街がきれいだとか、産業技術が優れている、いい物を作る、人々も裕福で羨ましいということだった。

あるときあんまり日本はお金持ちだと言うので、そんなことはないと逆にインドの皆さんの方が裕福じゃないかと言ったことがあった。日本人は金があると言ったって、小さな家を大きな借金をして、それを返すために夜遅くまで一生ヘイコラ働かなくちゃならない。何をするにもお金が必要で、お金のために生きているようなものだと。

それに比べれば、近代的なものではないけれども大きな家があり、時間にあまり制約されない仕事があり、親族も近くに暮らし、先祖代々の土地があり、牛も飼い山羊も飼っているあなたはゆったりとした自然の中で充実した人生を送れる、そのほうがよっぽど裕福なんじゃないかと思うと言った。はっきりした返事はなかったが、たしかにそうなのだ。勿論インドにはカーストが未だに厳然とあり貧富の差も激しいものがあるとはいえ、みんながみんな貧しいわけではない。

私たちは豊かになって、便利な快適な生活をしていると思ってはいるけれども、それと引き替えにとてつもなく大切なものを犠牲にしているのではないかとも思う。多くの知識を詰め込まれ、様々な技法技術を身につけ、どこへでも簡単に行ける。でもそれが本当にすぐれたものかと言われるとどうであろうか。昔の人たちと比べ幸せなんだろうか。悩みがなくなったのであろうか。苦しみがなくなったであろうか。争いがなくなったであろうか。

仏教の世界では、実は、私は、人は退化していると考えられるのではないかと思っている。多くの経典が文字で記され、印刷され、どこででも手に入る時代である。昔のように師から弟子に口述暗唱されずとも、簡便に教えを伝えられる時代である。どこにでも仏像があり、お寺も世界中にある。どこの国にも自由に飛行機で行き布教している。

しかし、お釈迦様の時代を頂点にして、最高の悟り(阿羅漢果)を得られる人は時代とともにその数を減らしているのが現実だろう。お釈迦様が入滅されて、最初の雨期にラージギールの七葉窟に仏典結集のために集まった阿羅漢は五百人と言われている。その他にも阿羅漢はおられたであろうから、千人ほどもおられたのであろうか。

当時に比べ人口が増え、教えが広まり、インドから西域、中国、チベットへと広まったとはいえ、本当に阿羅漢を悟られた人がその後何人おられたであろうか。今の時代はどうであろう。ミャンマーやスリランカの山奥に阿羅漢がおられる、そんな話を聞いたことはある。

誠に心許ない時代なのだと言えよう。どんなに精神世界が医学や心理学の進歩によって解明されたとしてもそれによって悟るということは出来まい。たくさんの世間的な知識は逆に邪魔にもなろう。そう考えると私たちは益々進化ではなく退化しているのかもしれないと思えるのである。

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11/21・22 『ベンガル仏教徒』きたる

2008年11月23日 18時57分21秒 | 様々な出来事について
11月21日、重なる時は重なるものだ、その日は朝8時から寺内の月例行事薬師護摩を焚き、11時から府中市の國分寺檀徒の葬儀を勤め、午後1時半、わざわざここ福山まで遠路はるばるお越し下さったバングラデシュのベンガル仏教徒を福山駅にお迎えした。

彼らは、西暦8世紀から12世紀にかけてインド中部地方から、アッサム、マニプール地方を旅してミャンマー国境近くの港町チッタゴン(現バングラデシュ)に移住し、イスラム教徒からの侵略に遭いながらも仏教を守り通してきたインドの伝統ある仏教徒である。私は今から15年ほど前、彼らベンガル仏教徒が、東ベンガルのコルカタに拠点を設けた仏教会、バウッダ・ダルマンクル・サバー(Bauddha Dharmankur Sabha)で比丘となり僧院生活を送らせていただいたことがある。

実はそのことをホームページにも記し、様々なところで語ってきたことをお知りになられた、 佐久総合病院地域医療部地域ケア科医師・色平哲郎氏よりご紹介を受け、この度お二人をお招きすることになった。お越し下さったのは、併設するアグラサーラ仏教孤児院(Agrasara Bauddha Anathalaya)の事務総長でスダルシャン・ヴィハール(Sudarshan Vihar)住職スミッタナンダ長老(Ven Sumittananda Thera)とその孤児院の経営委員会主席顧問であるボシュ・M・バルア博士(Basu M Barua,Ph.D.)のお二人である。

お二人はこのほど11月14日から17日まで東京の浅草ビューホテルで開催された世界仏教徒連盟(WFB)主催の『世界仏教徒会議』に招聘され、会議に出席後、西日本を巡錫の傍らお寄り下さったのである。駅の改札遙か向こうからお姿が見えると、もう、自然と手を振って昔からの知古のようにお互いに合掌し邂逅した。

國分寺にお連れする道すがら、ベンガル仏教徒との関係などを話すと多くの関係者が互いの知人であったことなどを知り、不思議な因縁を感じさせられた。バングラデシュの国情は、周知の通り、日本の三分の一ほどの国土はガンジス川下流域の水害の多い土地であり、そこに一億四千もの人々がひしめき、国民一人あたりの平均年収は20万円程度という。

1943年の大飢饉で多くの人が亡くなり、家を失い孤児となった子供たちのために設立されたのがチッタゴンから35キロの東グズラ村にあるアグラサーラ仏教孤児院である。この孤児院を創設されたのは、ボシュ博士の叔父にあたるヴィスッダナンダ大長老(Ven Vishuddhananda Mahathero)で、1994年に85歳で亡くなるまで、ベンガル仏教徒の最高指導者であったばかりか、世界の宗教者と共に様々な平和活動に参画された。自国からはもとより、モンゴル政府やノルウェーのガンジー平和財団などから平和賞を受けられている。

現在では、孤児院の他、小中学校、高校、女子短期大学、女子宿舎、募婦ホーム、職業訓練センターを含む複合教育・訓練施設として発展を遂げている。現在孤児院には約300人ほどの子供たちが生活をともにしているという。しかし昨年3月第3代院長スニッタナンダ長老を交通事故で失い、その経営は現在ひどく悪化しているのだという。そのため急遽兄であった米国アリゾナ州在住のボシュ博士が経営全般の指導に当たられているのであった。

いただいた資料には、月間で食費の経費予算は、603,743円と記されている。283人で計算されているので、一人あたり、月間2,133円であるから、一日あたり、71円ということになる。さすがに物価の安いバングラデシュでも、この金額では満足な食事がとれないのではないかと思われる。がしかし、実は、実際の収入が乏しいため、この数字で計算した見積もりに見合う食事さえも提供できていないのが現実なのだという。

バングラデシュ政府からは実際の収入の15.5%ほどしか補助が得られず、多くを海外からの援助に頼っているのは、どこの海外ボランティア施設とも共通しているが、それでもこのアグラサーラ仏教孤児院は思ったほどその比率が大きくない。外国からの寄附依存度は、58%ほどだ。手細工や農作物など自らの生産活動によって、17%もの収入を生み出し、卒業生や教授陣からも寄附があり、厳しい運営を続けている。

アグラサーラとは、インドの言葉で、「指導者、先駆者」との意で、「先んずる、他にぬきんずる、開始する」との意味もある。開設された当時誰も行っていなかった福祉事業としての正に先駆者として、他にぬきんでて開始された本事業の趣旨を理解の上、ヴィシュッダナンダ大長老の尊いお心のともしびを絶やすことのないよう、支援の輪が拡大することを切に念じたい。

國分寺ではこうした孤児院に関する話の他、コルカタのダルマンクル寺院にまつわる話題や私のインドでの体験談なども含め楽しく語らううちに瞬く間に数時間が過ぎていた。國分寺本堂で般若心経をお唱えし、また、スミッタナンダ長老からもパーリ語のお経を聞かせていただいた。コルカタの寺院発行で私が所持していた、B.M.バルア博士(アジアから初めて英国に留学されロンドン大学で博士号を授与された仏教学者)やラーフラ・サンクリトゥヤーヤン博士の記念誌などを特に興味深くご覧になっておられた。

またこの度の『世界仏教者会議』では、世界的に問題視されているグローバリズムについて言及し、それによって心の植民地化が起こっている、世界の多様な文化社会経済の大切さを理解し、地域別の自立を目指すローカリゼーションを推進すべきであるとの結論を得た。さらに世界的な問題として自殺者の多発に対する対応や終末期医療のあり方などに仏教が役割を担うべきことなどが確認されたという。

翌日は、福山の明王院に参詣していただき、また國分寺にお連れして昼食を南方仏教徒の作法に則りお取りいただいた後、広島に向けてお発ちになられるお二人に福山駅で別れを告げた。来年2月にはヴィスッダナンダ大長老の生誕百年祭が盛大に行われる。日本からも多くの関係者が招かれるという。私もボシュ博士より親しく参加を勧められたが、日程がとれるかどうか、時期的に困難が予想される。が、いずれにせよ、この度の願っても得られないであろう誠に貴重な御縁に感謝し、同じベンガル仏教徒からいただいた多くの恩恵に報いていきたい気持ちで一杯である。

http://www.agrasara-fund.jp/index.html

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お寺は先祖の供養のためなけれども1

2008年07月22日 14時07分46秒 | 様々な出来事について
お寺は、お墓を守るためにある。お寺は、亡くなった人の供養のためにある。そんなお寺の捉え方をしている人はけっこう多いらしい。今國分寺では、仏教懇話会と称して、仏教に関するお話し会や座禅会も月一回ではあるけれども行っている。また、月例の護摩供や理趣経の購読会、御詠歌講習会も行っている。しかし、こうした行事をまったく行っていないお寺も結構ある。

だから、ここ國分寺で、かつて元旦の護摩祈祷をしたいと言うと、そんな生きている者たちのことまで考えてくれるのか、という反応が総代さん方から出た。勿論祈祷ごとがお寺にとって本来のものと考えているわけでもない。加持祈祷は日本仏教ではよく見られるお寺の役割とはなっているが、お釈迦様の時代にお坊さん方が、信者の幸福のために火を焚いて祈るなどということをされていたはずもなく、大乗仏教になって、それも密教が流行した七、八世期以降になされるようになったものだろう。

しかし日本に仏教が伝わった際には、そのはじめから仏教の役割として鎮護国家、万民の幸福の祈祷、様々な仏教にまつわる総合文化の摂取というテーマの元に仏教は取り入れられた。國分寺自体の存立にも鎮護国家、人心の統一という大きなテーマが与えられていた。

だから、國分寺としては、当然のことながら、元旦に年を改めて世界の平和と現在お寺を支えて下さっている檀徒衆の幸福を祈願するのは当然と考え元旦護摩祈祷を始めたのであった。しかし、護摩というのは、祈祷だから祈るということなのではあるけれども、それをもう少し分かりやすく言うならば、私たちの心を整理するための仕掛けという意味合いがあるのではないか。

いろいろな私たちの心の中の思い、さまざまな願い、焦燥、不安、恐れなどをすべて吐き出し、護摩の火の中に投げ込んでしまう。一心に火を見つめ、合掌して経を唱え祈願するとき、その時の心には何のわだかまりも消え去っている。仏さんがたに様々な供養の品を煙とともに受けとっていただき、思いをすべて放下してしまうものではないかと思う。

そこに護摩祈祷の妙味があるのではないかと、私は思う。加えて、そうした善行の功徳によって、何かしらの因果によって事の好転がもたらされることを信じるということであろう。仏菩薩の願力、または行者の霊力などというものにすがる、祈りの力などというものを標榜するが故になされる行ではないことはもとよりであろう。

話がだいぶ脱線してしまったが、とにかく、お寺の役割というのはお墓を守ったり、亡くなった人のためにあるのではなく、もともと日本では、人々の幸福を願うものとしてあった。しかしさらに、本来のお寺の起こりということをお釈迦様の時代まで遡って考えてみると、インド・ラージギールの竹林精舎というビンビサーラ王の寄進によって初めてお寺が造られたときには、それは遊行して瞑想修行に励むお坊さんたちの一時宿泊所であったにすぎない。

だから、今日のように仏像が祀られていたわけでもなく、そこに書き記された経文があったわけでもない。ただ、長老のお坊さんたちによって、お釈迦様の言葉が伝えられ、瞑想修行について教えを受けて、多くのお坊さんたちが安心して一時期を過ごし、修行するための場であった。

生産活動を禁じられたお坊さんたちの生活は、近隣の信者たちによって賄われ、托鉢や招待によって出向き食や必要な品物の供養によって生活していた。当時は、それら信者たちの宗教としてインド古来のバラモン教があり、様々な人生の通過儀礼、結婚式や葬式はそれらバラモンによってなされていたであろう。だから仏教僧がそうした場に行き合わせることもなかったのであろうから経典に記されることもなかった。

15年ほど前にインド・カルカッタのベンガル仏教会本部僧院にいた頃、同じお寺におられたお坊さんに聞いた話ではあるが、今でも、ヒンドゥー教徒に招かれて食事に出かけるということだった。ベンガル地方でかつて仏教を保護したパーラ王朝の子孫たちは、今でもヒンドゥー教徒として暮らしてはいても、仏教を大事にしている。

それらパーラ王朝の子孫たちはわざわざカルカッタの仏教僧を招いて食事を供養し仏教のパリッタと言われる経文に耳を傾ける。だからといってすべてを仏教で取り仕切るわけでもない、その家族に何かあれば当然のことヒンドゥー教のバラモンに葬儀を委ねる。

また、サールナートの法輪精舎にいた頃、お寺にモウリヤ王朝の末裔の家族が頻繁に出入りし、様々お寺の雑用から行事の手伝い、またお坊さんたちに毎日昼に食事を届けてくれていたが、やはりそこでも、家族の結婚式や葬式と言えば、地元のバラモンにそのすべてを委ねていた。それがお釈迦様の時代にもあったであろうインド独特の修行者を敬う心を持ち合わせた包容力というものであろう。

しかし、今日、ほとんどの仏教国では、信者の葬儀には仏教僧が出向き、またはお寺に遺体がもちこまれて葬儀が行われている。法事も同様であろう。お釈迦様の時代に葬式法事をしていなかったのだから、仏教による葬式法事は仏教の役割ではないというのは、当時の社会背景、地域性を考えない人たちの言に過ぎない。だが勿論、それが仏教の中心であるわけでもない。

やはりその中心には、お坊さんたちの修養修行というものがあり、それを支え教えを学ぶ信者の姿があり、その信者の中でご不幸があれば、その寺の坊さんが親身に経を唱え親族に説法を施し、人の生き死にについて正しく仏教の教えを諭すということになるであろう。

葬式法事が悪いのではない。そればかりに取りかかり、大事なお寺の役割が忘れられて儀式執行だけになっている状態に問題があるのであろう。では、お釈迦様は、いまにも亡くなろうとする人にどのような態度で接しられたのであろうか。・・・・。つづく

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『行基菩薩立像』造立を発願いたしました

2008年06月01日 17時53分44秒 | 様々な出来事について
行基菩薩は、奈良時代の高僧で、東大寺大仏殿建立に際しては大勧進となって全国を行脚して寄付を集め、また全国國分寺の建設にも関わったと言われています。多くの橋を造り池を掘るなどの社会事業にも活躍し、身寄りのない人々のための施設を建設したり、畿内には多くの寺院を建立。我が国最初の大僧正に任ぜられました。大仏殿落慶の目前で亡くなりましたが、畏敬の念を込めて行基菩薩と今日なお敬われています。

國分寺本堂には行基菩薩座像が祀られています。國分寺の入口に、かつて國分寺創建に関わりのあった行基菩薩像を造立し、創建当時の國分寺の意義について改めて思いをいたす機縁となることを願っております。

なお、本事業は、広く檀信徒並びに有縁の皆様からの心経写経奉納により造立の浄財を勧募致したいと存じます。何卒ご理解ご賛同のほど宜しくお願い申し上げます。平成二十年四月吉日 唐尾山國分寺
                           
<概要>行基菩薩立像 石像 像高 約一二〇㎝ 
  造立場所 地蔵堂前 まんだら石 南 
  造像並びに諸経費概算 約七〇万円 
  般若心経写経奉納一巻 一千円 
  奉納写経は、造立時御像下部に納経いたします。
  写経用紙は、國分寺にて無料頒布いたします。
               
行基菩薩(668- 749)について(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より転載)

行基(ぎょうき)は日本の奈良時代の僧である。 父は百済系渡来人氏族の末裔西文氏(かわちのあやし)一族の高志才智とされる。母は河内国(のち和泉国)大鳥郡の蜂田首(現在の華林寺)の出。

<生涯>
河内国大鳥郡(現在の大阪府堺市)の生まれ。681年に出家、官大寺で法相宗などの教学を学び、集団を形成して関西地方を中心に貧民救済や治水、架橋などの社会事業に活動した。704年に生家を家原寺としてそこに居住した。

民衆を煽動する人物であり寺外の活動が「僧尼令」に違反するとし、養老元年4月23日詔をもって糾弾されて弾圧を受けた。だが、行基の指導による墾田開発や社会事業の進展や地方豪族や民衆らを中心とした教団の拡大を抑えきれなかったこと、行基の活動が政府が恐れていた「反政府」的な意図を有したものではないことから、731年(天平3年)禁圧を緩め、翌年河内の狭山下池の築造に行基の土木技術や農民動員の力量を利用した。

741年(天平13年)3月に聖武天皇が恭仁京郊外の泉橋院で行基と会見し、同15年東大寺の大仏造造営の勧進に起用されている。勧進の効果大きく745年(天平17年)に朝廷より日本最初の大僧正の位を贈られた。行基の活動と国家からの弾圧に関しては、奈良時代において具体的な僧尼令違反を理由に処分されたのは行基のみと言われている。

そのため、それぞれに対して、同時代の中国で席捲していた三階教教団の活動と唐朝の弾圧との関連や影響関係が指摘されている。三世一身法が施行されると灌漑事業などをはじめ、前述の東大寺大仏造立にも関わっている。大仏造営中の天平21年2月2日、菅原寺で81歳で入滅し、生駒市の竹林寺に墓所がある。また、朝廷より菩薩の称号が下され、行基菩薩と言われる。677年4月に生まれたという説もある。

行基に縁の有る土地としては、行基が畿内を中心とした各地で布教活動を行っていたことから、近畿地方を中心として各地に縁の地とされる土地が多く存在している。生家跡は知恵の文殊菩薩を本尊とすることから合格祈願で有名な家原寺となっている。

大阪府高石市高師浜3丁目付近で生まれたと言う説もあり、「行基生誕の地」の石碑が建てられている。その石碑には、「行基に連なる大工集団が千歯扱きを考案した、その大工集団は徳川末期まで京都御所の御用大工となった、高度な大工技術を駆使して高石地区の住宅建設を請け負っていた」と刻まれている。

なお、これらの功績により、この付近が「匠」と呼ばれており、行基生誕伝承のある地に建てられた自治会館が「匠会館(八区会館)」と呼ばれている。近鉄奈良駅の入口前には陶製(赤膚焼)の行基の像があり、奈良ではよく知られた待ち合わせ場所になっている。

大阪府岸和田市の祭礼だんじり祭りでは、行基が開山した龍臥山隆池院久米田寺に周辺地区のだんじりが集結する。これは、久米田寺の前に位置する久米田池を行基が掘削指導し、田畑の開墾や周辺住民の生活向上へ寄与し、その他の遺徳を顕彰する「行基参り」と呼ばれている。

兵庫県伊丹市の昆陽池公園の園内施設には行基の偉業や胸像が設置されている。昆陽池の南南東1キロほどの場所に行基の開基した昆陽寺がある。市内には行基町(ぎょうぎちょう)という地名がある。

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朝日新聞記事『脱お坊さんまかせ』について

2008年05月27日 15時15分14秒 | 様々な出来事について
朝日新聞5月24日朝刊に『家族だけでもできる・・・もっと手作りの法事を』という記事が載った。著名な社会学者橋爪大三郎氏の近刊『家庭で出来る法事法要』(径書房)を紹介したものだ。ようは坊さん抜きで法事をしようではないか、その方が仏教のなんたるかに近づくことが出来るという内容だ。

核家族化の進行、病院での死が常態となり、子供たちが死から遠ざかっている。だから葬儀は無理だけれども、法事なら自分たちだけで坊さん抜きでも出来るという。だが、それでどうして子供たちが死と向き合えるというのだろうか。よくわからない。

自分は仏教徒らしいが宗派も知らないという人たちのために、とは言うが、葬式の後の法事ということになれば、既にある宗旨の坊さんに頼んで葬儀をしたのだから、その宗旨でその後も法事を営むのが自然だと思えるが、そういうことには触れていない。

大乗仏教はお釈迦様の言説ではないものを含むから初期仏典を施主が読めばよい、それで法事になると言う。起立、黙祷、読経、献辞などと時間配分されたシナリオを提示してもいるという。こうした内容の、いかにも現代人が受け入れやすいといえるようなマニュアル本を社会学者が試行錯誤して書く時代になった。そのこと自体に現代日本の伝統仏教への痛烈な批判を感じるし、反省を促していると思えよう。

単なる反発でなしに、真摯なる何かしらの改善を志向する契機とせねばならないのであろう。この記事にもあるように、橋爪氏がこの本を書いた背景には、「檀家衆の精神生活とは無縁で、彼岸や○回忌など特定の日にだけ登場して経を読むプロの仏教者への批判と問題提起がある」としている。

プロの仏教者などという表現に、既にただの職業集団としての坊さんに過ぎないという批難が聞こえてこよう。そもそも三宝の一角としての僧宝を欠く近代以降の伝統仏教のあり方が問われている。

妻帯し戒律を守っていない僧団は出家にあらず。本来の仏教から考えればその通りなのである。けれども、現代日本仏教は、妻帯しつつも、伝統を継承する僧侶が専門僧堂での修行を通して、教えのなんたるかを学び実践する中で培ったものを布教宣布する集団として維持されているのが現実であろう。

だから、法事をして読経だけで済ますというのは、やはり批判を受けるにあまりあると言えよう。法事とは、本来的には、清貧なる修行生活の中にある出家者に対して、修行のために必要な食事や袈裟、日用品を施し、彼らの生活する場である寺院を維持発展させるために布施をする。そうした功徳をもって精霊や先祖へその功徳を廻らすことが法事であり、法要であろう。

本来からすればこうあるべきなのである。だから、橋爪氏が述べているように法事を通じて読経し、お釈迦様の教えの一端でも学ぶ機会として法事を捉えるのはよいが、そこに功徳を施す大切な意味が忘れられている。

やはり、そこに先導する者として坊さんがあり、経を唱え、共に教えを学び実践する場としての寺院を維持発展させていく功徳として布施を捉えるならば、法事の功徳もあるのではないか。よって私には、家族だけで経を唱え事たれりとするのはいかがなものかと思える。本来の意味からしても意味をなさない。ただの偲ぶ会と言わざるを得ない。

さらに橋爪氏は、この本の続編として戒名について述べた著作を構想中だという。橋爪氏は戒名を本人もしくは遺族が付けると言う。が、戒名も本来いかなるものなのかと考えねばならない。

戒名は坊さんの僧名に相当するものであり、それは師匠から授かるものである。戒を授かり仏教の世界に入門することを意味するのだから、単に名前を変えることなのではない。檀那寺の住職から戒を受けその際にいただくのが戒名であり、単に名前を付け替えるものと認識されてしまっているのであろうか。

もしもそうならば、それは、今の日本仏教がやはりただ読経だけにたより、そうした仏事の一つ一つの何たるかさえもまったく伝えてこなかった咎によるのだと言えよう。橋爪氏が期待するお釈迦様が説かれた「いかに生きるべきか」を説くまでもなく、その入り口も見えてこない現状に対する憤りが聞こえてくるようだ。

いずれにせよ、このような著作が世の中に出回るということは、本来の仏教を現代に模索するためによいことであろう。あの『千の風になって』が様々な議論の中で、人の死について考えるきっかけとなったように、この橋爪氏の著作が仏教について考える機会となってくれることを願いたい。

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つれづれなるままに

2008年04月23日 16時40分58秒 | 様々な出来事について
毎朝、5時に6回鐘を撞いている。5時を知らせる鐘ではあるけれども、最初の一回は捨て鐘で、次から5回で5時ということになる。こちらに来た当初は、同じ時間に13回も鐘を撞いていた。寒い時期にはそれこそ身体が冷え切ってしまったことを思い出すが、当時は鐘を撞きながらいろいろと考えながら鐘を撞いたものだった。

何でこんなに沢山鐘を撞くのだろうか、何で5時なのかとか。そもそも昔のように時計のない時代でもないのに鐘を撞く意味があるのかなどと思いを重ねていたものだった。それが今では何も考えずに鐘の音を聞き数を数え、撞き終わると戻って仏飯と茶湯を本堂に運び、勤行する。

先日『阿弥陀堂だより』という映画を見た。山間の小さな阿弥陀堂をお守りする96歳の老婆が「目の前のことばかりにとらわれてはいけない、周りのことにも配慮しなければと言われるけれども、自分は目の前のことだけに精一杯生きてきて、気がついたら96歳になっていた」と語る。この老婆とは逆に、周りのことばかりにとらわれ、なかなか目の前のことに集中できないのが私たちの常である。

特に今という時代は、目の前のことに集中することはとても難しい。なぜならテレビ新聞雑誌、インターネットに携帯電話。それはそれで便利ではあるけれども、沢山の情報が次から次に押し寄せる環境の中で、その情報に飲み込まれ、その中で感情が沸き立つこともなく、感動することもなく、強い意志を持つこともなく、興味を覚えることもなく、ただ眺めるということに甘んじるように慣らされてしまってはいまいか。

だから、世界中で何があっても、まったくの無関心。何も感じない。勿論今世界の話題の中心にあるチベット問題もその例外ではないだろう。様々な機関や団体が中国政府の自重を呼びかけてはいるが、どこまで彼らの今を感じ取った行動となっているであろうか。何かしなくては済まないから声明を発表するということもあるかもしれない。

この度のチベット問題ばかりが今現在の問題なのではない。もっとその陰で沢山の重大な事態が進行しているということもあろうし、そもそもチベットで衝突を起こす裏には様々な要素が蠢いているであろうとするのが世界の常識ではないか。だからそう簡単に中国政府を非難すればそれで済むということでもないだろう。深く今に至る因縁をおもいはかるばかりである。

それはともかくとして、私たちの日常は、そんな世界の危機と関係なく、だらだらとどうでもよいテレビやパソコンの画面を眺め時間が過ぎていく。またはあれもこれもいろいろなものに関心を払い、それぞれにエネルギーを分散している。そのどれもが中途半端な状態のまま満足なことがなかなか出来ずにただ空しく時が過ぎていく。

これが自分だと思えるもの、これだけすればよいというものを見つけることも難しい。たとえ、これだと思えるものが見つかったとしても、それがすぐに幅広く展開して、結局はその中心を外して、あのこともこのこともと手をのばすことになる。これだけでいいと思って、本当にそのことに時間を費やせる人は恵まれている。

おおかたの人があれもこれもと欲が出たり、家庭の事情、そこには突然に親の介護を引き受けざるを得ない事情を被ることもあるだろうし、また時代の移り変わりで多くの人との繋がりからそのことに集中できない事態に陥いることもあるだろう。

ふと気がつくと、自分は本当は何をすべきだったのかと思い至る人もあるかもしれない。気がつく人はまだいい、何も気づかないままに終焉を迎えるという人がほとんどなのではないか。まさに、自分とは何か、何者なのか、自分は何のために生きているのかが分からなくなりただ漫然と時間をやり過ごしている時代なのだと言えまいか。

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後藤惠照師特別講演会のご案内

2008年02月28日 19時05分10秒 | 様々な出来事について
インド仏教長老 プラッギャ・ラシュミ・マハーテーラ

『渡印30年 インドの子供とともに』
<インドの現状とインド仏教徒の日常について>

期日 平成20年3月7日(金)午後2時から4時
   場所   國分寺客殿 (参加費無料)

        広島県福山市神辺町下御領1454番地 電話084-966-2384


後藤師は、インドにインド比丘(僧)として移り住んで30年。仏教発祥の地であるサールナートに法輪精舎を建立。多くの貧しい子供たちに勉強を教え食を施し、地元では道を歩けば大勢の子供たちが駆け寄って合掌するほどに慕われています。またアショカ王の子孫であるモウリアの人々との交流と多くの日本人支援者のご喜捨により、師の長年の念願であった無料学校を開校されました。

15年前に中学校、そして高校、現在では文科系大学まで併設する一大学園に規模を拡大。その間に培われたインドの教育やボランティア活動について、また沢山のインドの人々との交流に関するお話を中心に、さらには現代インド仏教徒の日常についてなどもお話しいただける予定です。

師とは16年前に初めてお会いし、一年間法輪精舎で寝起きを共にして様々お教えいただいたいた、私にとりまして恩師でもあります。この度曹洞宗から海外での活動が評価され特別表彰されるにあたり来日され、親しく國分寺にも御巡錫されることとなりました。是非この機会に貴重なインドのお話を聞きにお参り下さい。
   
後藤惠照師プロフィール

昭和8年茨城県土浦市生まれ。18歳の時出家得度して、20歳で曹洞宗大本山総持寺にて修行。駒沢大学仏教学部仏教学科卒業後、時宗遊行寺塔頭小栗堂住職。小栗堂仏教研究会を創立し、若い研究者のためにパーリ語講習会を開く。45歳の時、渡印。

インドの伝統仏教教団ベンガル仏教会(カルカッタ)にて再出家して、上座仏教比丘となり、サールナートに法輪精舎建立。日曜学校を開き、日本人観光客からの喜捨を受け、平成5年(1993)寺内に無料中学開校。ベナレス・サンスクリット大学教授として日本語を教える。平成11年(1999)国際根本仏教大学を創立。平成13年(2001)インドに帰化する。


2007年2月5日掲載『インド思い出話』より、
「サールナートの後藤師と出会う」再掲載

第二回インド巡礼。前回同様カルカッタに降り立った私は、今回は迷うことなくボウ・バザールの裏手に位置するベンガル仏教会に飛び込んだ。このとき初めて、後に私の師匠となるダルマパル師と出会う。この時70歳くらいだったろうか。

とてもきさくに話をして下さり、ゲストハウスに案内してくれた。そして、「仏蹟巡礼ならサールナートに行け、そこに日本人の比丘が居るから」と地図を書き丁寧に場所まで教えてくれて、土産まで預かった。

数日後、予約した列車に乗るべくハウラー駅に夕方のラッシュ時にタクシーで向かう。そのあたりからどうも頭が熱かった。列車を待つ間にもロビーで物乞いが寄ってくる。終いにお腹に来てトイレに行くと、もういけなかった。高熱がでだした。予約したチケットを無駄にして、またタクシーでお寺に戻る。また同じ部屋に案内されて寝た。

その晩夢を見た。黄色い袈裟を纏ってインド人のお坊さんと暮らす自分がいた。次の朝には不思議と熱が下がり、数日後サールナートにたどり着く。サールナートのマアイア地区に後藤恵照さんという日本人比丘が開いたベンガル仏教会支部法輪精舎があった。

初めてお会いするのに、何の屈託もない。よく来ましたと茨城訛りの日本語で歓迎してくれた。既に在印14年、そのとき59歳ということだった。私が増谷文雄先生の本から、つまりパーリ仏教から出家に至ったというと大層喜ばれた。

そして、インドの仏教は、イスラム教徒が攻めてきて13世紀に無くなったと思われているけれども、そうではなくて、既にその前にマガダ地区から東に避難していた仏教徒たちがいて、彼らがインドと今のミャンマー国境地帯に住み着き、アラカンの仏教徒と関係する。

その後、彼らはベンガル湾に面する港町チッタゴンを本拠とする。けれどもその後イスラムがその地まで勢力を拡張してきて随分とお寺は破壊され、坊さんたちは袈裟も着れない時代となる。

しかし、その後、英国が植民地としてベンガルにやってきてから、その地元採用の軍隊に仏教徒たちが志願して社会的な地位を回復し、お寺を造り、坊さんの組織をアラカンの長老に来てもらって上座仏教として再生し、それからチッタゴンに協会を作った。その後カルカッタにも出来た教会がベンガル仏教会なのだと。そんな話を延々と聞かされた。

インドにはもう正統たる仏教はないのだと思っていた私には、青天の霹靂。何か身体に力が漲るようなうれしい思いにとらわれた。その日から、細々寄付を募って暮らす後藤師と一緒にサールナートの遺跡公園に出かけていき、日本人観光客らに話しかけ、寄付を募り、宿泊希望者はお寺に招きお世話をした。

この間に様々な団体がやってきた。まだバブル期だったせいか、日本のお寺の団体や旅行社の団体なども多く、中には、奈良の大安寺の貫首さんが連れてこられた団体もあった。その頃私は、日本から持参していった日本式の衣を脱いで、リシケシのシバナンダアシュラムの修行者のように白い布を二枚買い込み、一枚を腰に巻き、一枚を肩からショールのように纏って過ごした。

お寺では、日曜日には日曜学校が開かれ、朝から近在の子供たちが詰めかけ、英語を教え、終わるとビスケットを配布した。これらにはマウリア王朝の末裔モウリア族の少年たちが数人手伝いに来ていた。

サールナートに後藤師と出かけていくと、小さい子供たちが沢山集まってきて、後藤師に合掌して近づき、右手を後藤師の足に付けその手を自分の額に持って行き合掌する。そんな姿を見ていたら、無性にこんなありがたいお坊さんが今の時代にもいたのだと感激し涙が溢れてきた。

もっとこの方のお役に立てることをしたい。東京で、むざむざ無為に日を過ごしていたことが悔やまれてならなかった。こう思ったら早かった。私は、2、3日後には、もう一度インド僧として再出家して、このお寺に住み込み、これから作ろうと計画されていた無料中学校のために出来ることをさせていただこうと決めていた。

それにはこの地域の言葉であるヒンディ語が分からなくてはいけない。少し仏教の言葉パーリ語も勉強しなくてはいけないということになり、一度日本に戻り、学校で文法から学ぶのがよいということで、他の仏蹟に行くという、特別あてもなかった私の当初の計画はすべてキャンセルして、そのままカルカッタに戻り、ダルマパーラ・バンテーにその旨を述べ、賛同していただいた。

東京に戻った私は、拓殖大学語学研究所にヒンディ語を学び、夏には、後藤師とともに嘗てパーリ語研修会を開かれていた愛知県安城の慈光院の戸田先生を訪ね、一週間泊まりがけのパーリ語研修会に参加した。・・・。

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見返りを求める心

2008年02月20日 19時44分20秒 | 様々な出来事について
あるスーパーに買い物に行った。本堂のお供え物や花を買いに行ったのだ。するとチラチラとこちらを覗い見るような方があり、どこぞやでお会いした人かなと思いながらも果物や野菜などを買いレジに並んだ。そのあと花の売り場に行くと、またそのお婆さんが来られて何やらレジの人と話をしている。

「ああ、○○寺さん」などという声が聞こえたかと思うと、そのお婆さん、こちらに来ると丁寧に挨拶を始めた。なんとそのスーパーのオーナーの奥さんだった。何年か前にもこんな形で挨拶されて、その時にはマンゴーやらメロンやら高価な果物をごっそりお供えして下さいと言っていただいたのだった。

こちらは忘れてしまっていたが、身なりが身なりだからあちらには分かってしまったのであろうが、こちらも挨拶すると、「何かお供えさせてもらいます、これらのどれがよろしいか」などと言われ、蘭の鉢植えをふた鉢お供えに頂戴してしまった。おそれいる。

つい、「どうもありがとうございます」などと丁寧に礼を述べてしまったが、奥さんは平然として、「ええ、すいません。お持ちしませんで、・・・」などと慌ただしく挨拶を交わしてお別れした。

ついつい自分がいただいたものでもないのに礼を述べてしまった。きっと本尊様へということなのだから、「それはそれは仏さんがお喜びになります」または「それはよい功徳になりましょう」などと言うべきものなのかもしれないが、私にはそんなことは言えない。

本尊さんに代わって礼を述べるというのもおかしなものだ。つい先日ネットで文章を読んでいたら、ミャンマーでは、何かして「ありがとう」と言われるのを嫌うと書いてあった。せっかく何かひとさまにして功徳を積んだのに、そのことでわざわざ「ありがとう」などと言われるとその功徳が減ってしまうと思えるからだと書いてあった。

タイでも、托鉢のお坊さんに食べ物を施してもお坊さんたちは頭も下げなければ礼も言わない。それは食べ物を施してもらうことで、布施者に功徳を施しているからとずっと思っていたが、やはり、礼を言ったりしたら功徳が薄まるということだったのかもしれない。

それに、やはり上座仏教国として、何かよいことをして、礼を言われたい、見返りを求めるような心を認めていない。そんなことのためにするのではないという厳然たる精神がそこにあるからなのではないかと思われる。インドでも、ありがとうという言葉はあまり使われないと習った。「ダンニャワード」というそれを意味するヒンディ語は、まず聞いたことがない。

そう考えると、日本では、何かもらったりするとすぐお返しやら、礼を述べる電話をしたり、葉書を出したり、まったくうるさいくらいに、と言っていいほどにその辺の礼儀に神経質である。日本語の「ありがとう」、という言葉自体がとても言いやすいということもあろうが。

実は、蘭の鉢をもらったということをお寺に戻って話をすると、すぐに「お返しが大変だ」などと言う人がいた。せっかくその方は功徳を積んだのに、すぐお返ししたら、何のためにお供えされたのか分からなくなってしまう。功徳を積むことができた、本当によいことが出来たと思えれば、何もその相手や周りからお礼を言われたり、賞賛されずとも自分自身がうれしくなり、満足できるものだろう。

最初に何か見返りを期待していると、自分自身がよいことをしたというそのことだけのことに満足できなくなってしまうのであろう。何か自分自身もよいことをしたときに、つい礼やお返し、または誉められたいなどという気持ちがないかどうかということによくよく気をつけていたいものである。

だからこの蘭のお返しは、勿論のこと、しないことにしよう。

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