一昨日早朝6時に寺を出て、空港に向かった。小一時間走ると広島空港だ。朝一番のANAに乗ると9時には羽田に到着する。そして、予定どおり11時半には埼玉の東松山駅に着いた。この日は少し早いが盆参り。毎年こうして関東に四軒ある檀家さんをまわるようになって何年になるだろう。
今回はそれだけでなく、翌日には檀家さんの七回忌の法事もあったため、関東はひと月早いお盆とはいえ、それより二週間以上も早いこの時期の盆参りとなったのであった。「よく広島から来ましたね」と何人の方から言われたことであろうか。だが、私にとってはあまり距離は関係ない。身体が移動する時間さえあるなら何処にでも駆けつけようと思っている。今年の2月にはやはり埼玉の檀家さんが亡くなり、さすがに枕経は失礼したが通夜のお勤めはさせていただいた。
今回の法事も地元広島から東京にお出になられた檀家さんが亡くなり、急遽駆けつけて通夜葬儀を勤め、それ以来のお付き合いである。もちろん分家に当たるわけだから東京で知り合いのお寺を紹介することももちろんできたのではあったが、ご縁があり、できれば来て欲しいと言われるならばどこへでも駆けつけたいと常日頃思っている。
その盆参りと法事の合間に実は今回3件もの会合をもった。そのどれもが今の日本の仏教界に対する警鐘に触れ、さらにはそれが今の日本、いや世界の大勢の不具合とも連動した混沌とした様相に暗澹たる思いが語られるというものであった。仏教は無常を語り、それは苦であり、無我であるとする。なにごともあいつらなって連動している。みんなが影響を受けグシャグシャになっているかの世相もそう考えるとよく分かる。
これまで日本人の心の支えとして持ち合わせていた仏教がこんな状態だから、日本人がおかしくなり、子供たちもおかしいし、政治家も官界も財界もみんな列なって一つお金に動く社会となって、己の志に固く孤高を貫くといった哲学も持ち合わせることもなくなってしまったとも考えることもできよう。和魂洋才という、和魂もなくなってしまった。
いやいやそれは明治の時代に、あんなことになって強制的に人々から仏教を奪い取った国家の横暴が間違っていたとも言えるだろうし、加えてその頃から宗教などは婦人や子供のするものという誤った考えが流布されたためとも言えるだろう。または戦後占領下に、陛下のためならと命まで惜しまず特攻した日本人の一途な思いを分断せんとした特殊な宗教政策が効を奏して、キリスト教の行事を何の違和感もなく受け入れる、自らものを考えられない国民に洗脳し尽くされたことが原因なのかもしれない。
新聞、マスコミの言うことを真に受けるだけの国民。学校での教育もただ押しつけられる知識と考え方、解法をただ唯々諾々と身につけるだけ。大学受験でさえマークシート方式で選択すれば大学に入れる。一億総白痴化を推進している国家の愚かさ。自らそれが何か、どういう意味を持つものか、どうなるのかと考えることから開放されて、何の疑問も感じない国民に慣らされてきた。
だから仏事から例を取れば、お葬式って何?戒名とは何か?死んだらどうなるの?法事は何のためにするのか?そんなことを疑問に思ったり質問することもなく、死んだらみんな仏になると言われても、誰も、そんな馬鹿なことはないでしょう、とも言わずに済んできてしまったということにもなる。どんなに高等な理論を振りかざしてみても、それはやはり仏教である限り言ってはいけない。
なぜなら、お釈迦様はそんなことを言われてはいないし、なされてもいない。如来は法を語る者だと言われるばかりではないか、自ら歩むものだと。日本のお祖師でも誰でも、そんなことを言われた方はないだろう。そもそも覚ってもいない者が死者を本当に成仏させられるのだろうか。それこそどこかの新興宗教の言うようなことにはならないであろうか。
みんな輪廻転生するんだと、生前の行いそれによって導かれる死ぬ間際の心、それに従って来世がきちんとあるんだと、だからこう生きなきゃいけないだろうというのが仏教なんであって、だからこそその教えが重要なものになってくる。生きることと直結してくる。それが世界の仏教徒の常識だ。
いいよ、みんな死んだら仏さんだ、そんなこと言ったら、なんだ、じゃ教えも何も必要ないじゃないかということにもなるだろう。だから何も心に残るものがない、身につまされることがない、ただありがたいありがたいの日本仏教ということになる。
「ひとり来たりてひとり去る」という言葉がある。人はみんなたった一人で生まれ来て、一人死していくと。みんな違うしみんなバラバラに一人一人己の人生を生きるしかない。もちろん無我であり、空であり、相互に依存しているのだからそれぞれに影響を受け影響を与えつつ存在するのではあるけれども、自分は自分の責任で生き死んでいくしかない。
因果の中を生きている限り、何があっても、それからは逃れられない。なにごとも自業自得なのだ。他のせいにするから無責任な世の中にもなる。今の社会が悪いと思うなら、それをそうさせているその責任の一端は自らにもあるということなのだ。良いものにしていくには、そうさせるべき一歩が私たちに課せられているということになる。仏教も大きく変わる兆しが見えてきた。思いを共にする人たちとの連携の輪を拡げていくことが重要な時代といえよう。・・・・。
こんなことをあれこれ考えながら、揺れるANA最終便に身をまかせ帰着。盛りだくさんの出張を終えた。
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今回はそれだけでなく、翌日には檀家さんの七回忌の法事もあったため、関東はひと月早いお盆とはいえ、それより二週間以上も早いこの時期の盆参りとなったのであった。「よく広島から来ましたね」と何人の方から言われたことであろうか。だが、私にとってはあまり距離は関係ない。身体が移動する時間さえあるなら何処にでも駆けつけようと思っている。今年の2月にはやはり埼玉の檀家さんが亡くなり、さすがに枕経は失礼したが通夜のお勤めはさせていただいた。
今回の法事も地元広島から東京にお出になられた檀家さんが亡くなり、急遽駆けつけて通夜葬儀を勤め、それ以来のお付き合いである。もちろん分家に当たるわけだから東京で知り合いのお寺を紹介することももちろんできたのではあったが、ご縁があり、できれば来て欲しいと言われるならばどこへでも駆けつけたいと常日頃思っている。
その盆参りと法事の合間に実は今回3件もの会合をもった。そのどれもが今の日本の仏教界に対する警鐘に触れ、さらにはそれが今の日本、いや世界の大勢の不具合とも連動した混沌とした様相に暗澹たる思いが語られるというものであった。仏教は無常を語り、それは苦であり、無我であるとする。なにごともあいつらなって連動している。みんなが影響を受けグシャグシャになっているかの世相もそう考えるとよく分かる。
これまで日本人の心の支えとして持ち合わせていた仏教がこんな状態だから、日本人がおかしくなり、子供たちもおかしいし、政治家も官界も財界もみんな列なって一つお金に動く社会となって、己の志に固く孤高を貫くといった哲学も持ち合わせることもなくなってしまったとも考えることもできよう。和魂洋才という、和魂もなくなってしまった。
いやいやそれは明治の時代に、あんなことになって強制的に人々から仏教を奪い取った国家の横暴が間違っていたとも言えるだろうし、加えてその頃から宗教などは婦人や子供のするものという誤った考えが流布されたためとも言えるだろう。または戦後占領下に、陛下のためならと命まで惜しまず特攻した日本人の一途な思いを分断せんとした特殊な宗教政策が効を奏して、キリスト教の行事を何の違和感もなく受け入れる、自らものを考えられない国民に洗脳し尽くされたことが原因なのかもしれない。
新聞、マスコミの言うことを真に受けるだけの国民。学校での教育もただ押しつけられる知識と考え方、解法をただ唯々諾々と身につけるだけ。大学受験でさえマークシート方式で選択すれば大学に入れる。一億総白痴化を推進している国家の愚かさ。自らそれが何か、どういう意味を持つものか、どうなるのかと考えることから開放されて、何の疑問も感じない国民に慣らされてきた。
だから仏事から例を取れば、お葬式って何?戒名とは何か?死んだらどうなるの?法事は何のためにするのか?そんなことを疑問に思ったり質問することもなく、死んだらみんな仏になると言われても、誰も、そんな馬鹿なことはないでしょう、とも言わずに済んできてしまったということにもなる。どんなに高等な理論を振りかざしてみても、それはやはり仏教である限り言ってはいけない。
なぜなら、お釈迦様はそんなことを言われてはいないし、なされてもいない。如来は法を語る者だと言われるばかりではないか、自ら歩むものだと。日本のお祖師でも誰でも、そんなことを言われた方はないだろう。そもそも覚ってもいない者が死者を本当に成仏させられるのだろうか。それこそどこかの新興宗教の言うようなことにはならないであろうか。
みんな輪廻転生するんだと、生前の行いそれによって導かれる死ぬ間際の心、それに従って来世がきちんとあるんだと、だからこう生きなきゃいけないだろうというのが仏教なんであって、だからこそその教えが重要なものになってくる。生きることと直結してくる。それが世界の仏教徒の常識だ。
いいよ、みんな死んだら仏さんだ、そんなこと言ったら、なんだ、じゃ教えも何も必要ないじゃないかということにもなるだろう。だから何も心に残るものがない、身につまされることがない、ただありがたいありがたいの日本仏教ということになる。
「ひとり来たりてひとり去る」という言葉がある。人はみんなたった一人で生まれ来て、一人死していくと。みんな違うしみんなバラバラに一人一人己の人生を生きるしかない。もちろん無我であり、空であり、相互に依存しているのだからそれぞれに影響を受け影響を与えつつ存在するのではあるけれども、自分は自分の責任で生き死んでいくしかない。
因果の中を生きている限り、何があっても、それからは逃れられない。なにごとも自業自得なのだ。他のせいにするから無責任な世の中にもなる。今の社会が悪いと思うなら、それをそうさせているその責任の一端は自らにもあるということなのだ。良いものにしていくには、そうさせるべき一歩が私たちに課せられているということになる。仏教も大きく変わる兆しが見えてきた。思いを共にする人たちとの連携の輪を拡げていくことが重要な時代といえよう。・・・・。
こんなことをあれこれ考えながら、揺れるANA最終便に身をまかせ帰着。盛りだくさんの出張を終えた。
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