住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

大覚寺の研究3

2007年10月19日 07時59分00秒 | 様々な出来事について
それでは次に、大覚寺の建物と文化財について触れておこう。現在大覚寺の境内は、18万㎡約5万5千坪あり、先に述べたように南北の講和会議が行われた正寝殿(重文)、後水尾天皇の紫宸殿を移築したと言われる宸殿(重文)が境内中心部に位置している。

それぞれには、狩野山楽など狩野派の画家によって描かれた桃山時代の障壁画、金地に極彩色で、あるいは墨絵で描かれ、また、尾形光琳や渡辺始興らの名筆になる建具などすべて重文に指定されている。

正寝殿御冠の間の桐竹の蒔絵、宸殿の牡丹図、紅白梅図など。また宸殿前には、ミカン科の常緑小高木の橘と、紅梅の老木がある。庭も苔も美しく、各宮家のお手植えの松などが多く珍しい樹木もあり、嵯峨野の御所らしい風情を醸し出している。

また、大正期の勅封心経殿、その前には心経前殿。大正天皇即位式の響宴殿を賜ったもので、御影堂とも言われ、中央は心経殿を拝するため開けられ、右に弘法大師の秘鍵大師、嵯峨天皇、左に後宇多法皇、恒寂法親王の御影を祀っている。またその左には歴代門跡の位牌と右には皇室関係者の位牌が並ぶ。

そして、国民の幸福と平和を祈り嵯峨天皇が弘法大師に造らせたと言われる五大明王を祀る五大堂。安井門跡蓮華光院の御影堂を明治4年に移設し、後水尾天皇の等身大の木像を祀る安井堂(徳川中期)、庭湖館と呼ばれる客殿(徳川中期)奥の間には慈雲尊者の「六大無碍常瑜伽」の掛け軸があり六大の間と言われ、私が晋山したときに親授式後のお斎に参上した場所であった。

また大覚寺に功労のあった人々の過去帳位牌を祀る霊明殿は、昭和33年関東から移設したもので、お堂の右には、草薙全宜門跡の御像が祀られている。また大きな庫裏は、明智光秀の亀山城の陣屋を移したもの。

そして各建物を結ぶ回廊は村雨の廊下と言われ、縦の柱を雨、直角に折れ曲がるのを稲光と見る。天井は刀槍を振り上げられないように低く造ってある。床は鴬張り。

池の北側には新しい朱塗りの心経宝塔がある。元々心経殿があった場所に、昭和42年、嵯峨天皇の心経写経1150年記念に建立された。如意宝珠を納めた真珠の小塔を安置して、秘鍵大師を安置する。また、大沢野池畔には裏千家による茶室望雲亭がある

ところで、大覚寺の本堂は五大堂で、そこには、現在、昭和の大仏師、松久朋琳宗琳による五大明王が祀られている。現在の大覚寺本尊である。しかし、これと別に二組の五大明王像がある。

一つは、平安後期を代表する仏師、定朝を祖とする三派のうち円派の、当時の造仏界をリードした明円作は五体が完備し、重文。伝統に裏付けされた中に、生命感と品格を感じさせる。定朝とは、藤原道長の晩年の時代の大仏師で、平等院鳳凰堂の阿弥陀仏が確証ある代表作という。

もう一組は、鎌倉時代の作と室町時代の作の混成のものがあり、室町時代のものは2メートルを超える巨大像。元々弘仁2年(811)嵯峨天皇が弘法大師に、五大明王像を造らせ五覚院を建立して安置したと言われ、以来大覚寺では五大明王を本尊としてきた。

五大明王とは、別々に成立した明王を不動明王を中心に、金剛界五仏にならい配したもので、中央大日に当たるのが不動明王、東方阿閦如来に降三世、南方宝生如来に軍荼利、西方無量寿如来に大威徳、北方不空成就如来に金剛夜叉。

降三世明王は、三世界の主として、三毒を忿怒の形相で踏みつけて降伏させる。軍荼利明王は、もとは蛇の姿をしたシャクティという性力崇拝のシンボルで、諸々のものを授け、障害を除く。大威徳明王は、閻魔を摧殺して衆生の懸縛を除く。金剛夜叉明王は、一切の悪、三世の悪い汚れ濁りある欲心を呑み込み除く。

因みに、五大堂には、本尊の右に弘法大師、左に最後の宮門跡であった慈性法親王を祀り、さらに弘法大師の隣には釈雲照和上の合掌する御像を祀っている。

また大覚寺には、このほかに、鎌倉末の愛染明王像、鎌倉後半の毘沙門天像が収蔵されている。仏画では鎌倉時代作の理趣経曼荼羅、五大虚空蔵画、金剛界曼荼羅降三世会などを収蔵する。

さらに、大沢池畔に並ぶ石仏は、彫像の様式から平安後期を下るものではないと言われ、大振りな五体は胎蔵界の五仏。他に、阿弥陀如来、聖観音など、沢山の石仏が並ぶ。

多くの仏を祀り、本尊もおられるわけではあるが、しかし、なんと言っても大覚寺の一番の中心は、宸翰般若心経であり、中でも嵯峨天皇の宸翰を真の本尊とするのが大覚寺である。

ここ備後國分寺の創建時には丈六の釈迦如来が金堂の本尊として祀られてはいたが、当時の國分寺の中心は七重塔に祀られた、今日国宝に指定されている金光明最勝王経であったと言われるのと同じ事である。

そして、「大覚寺は仏像を中心とする寺院ではない。朝原山山頂にある嵯峨山上陵を守護する伽藍である。帝王が天地神明。仏天菩薩に対して責任を感じ、我が身を慎むことによって、神明仏陀の絶大なる慈悲に浴し、神仏の慈悲で天下泰平、万民快楽ならんとする嵯峨天皇の御意を体し、その御意を宇内に拡げようとするための聖舎である」

と、歴史家中村直勝氏が「大覚寺の歴史」で唱えるように、大覚寺とは、宸翰勅封心経を嵯峨天皇がお書きになられた御心に報じ、我が国の安泰と人々の幸福を祈願するための我が国の中心にして神聖なる道場なのであるといえよう。だからこそ、皇室などから中心となる建物がいくつも下賜されたり、最高の文物がそれぞれに設えられ、また歴史的にも時代の潮流に度々巻き込まれ翻弄されてきたのである。

最後に、大覚寺は「いけばな嵯峨御流」でも有名であるが、これは嵯峨天皇が大沢池の菊島から菊を手折られて花瓶に挿し眺められ、菊の気品ある姿と香りを好まれたことが華道の始まりとされ、華道発祥の地でもある。嵯峨天皇そして後宇多法皇によって代表される御所の伝統精神が大覚寺の格式ある文化の源ともなっているのである。

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大覚寺の研究2

2007年10月18日 08時52分46秒 | 様々な出来事について
その後両統迭立の和談が調い、後宇多帝の第二皇子後醍醐天皇が即位すると、天皇親政の理想を掲げ、討幕運動を起こし、足利尊氏、新田義貞が参戦して、1333年に幕府を滅ぼし、天皇親政の建武の新政を実現する。

治世の権を息子に譲り、後宇多法皇は大覚寺の再興に尽力され、元享元年(1321)ごろから「大覚寺伽藍古図」に見るような、現在地を南端として、北は山裾に至る広大な地に、金堂、御影堂、心経堂、講堂、さらに沢山の子院が取り囲む大伽藍を造営された。

後宇多法皇は、8歳で皇位につき、二度の蒙古来襲に遭遇し、父亀山上皇と敵国降伏の祈願を行ったと言われ、幼くして霊感強く仏教に帰依されていた。誠に信仰深く、特に真言密教の奥義を究めたと言われる。

仁和寺の禅助から伝授された密教の教えに関する聖教類など密教史上きわめて貴重な多数の書き物、加えて法皇自らが筆を執って書写されたものが多く残されている。法皇撰による宸翰「弘法大師伝」、「御手印遺告」など国宝も収蔵されている。

こうした伽藍の造営とその大覚寺と真言密教に寄せる並々ならぬ信仰から後宇多法皇は大覚寺中興としてたたえられている。しかし、誠に残念ながら、後宇多法皇逝去後12年にして、延元元年(建武3年・1336)足利尊氏によって火を放たれほとんどの堂舎を失ってしまう。

建武の新政は、武士かたの論功行賞などに対する不満から反乱が起こり、3年で崩壊。後醍醐天皇は吉野に行宮を営み、足利尊氏は持明院統の光明天皇を仰いで室町幕府を開いた。60年あまり南朝北朝に皇統が別れていたが、元中9年(明徳3年・1392)には大覚寺の「剣爾の間」で南北講和が行なわれた。

南朝の後亀山天皇は、北朝の後小松天皇に三種の神器を譲って大覚寺に入った。しかし、和議の条件が果たされなかったため、応栄17年(1410)、後亀山上皇の吉野出奔以後、南朝の再興運動が起こり、大覚寺もこの運動に深く関わっていく。

大覚寺はその後、後宇多帝、亀山帝など天皇を父に持つ門跡が続いた後、足利義満の子であった義昭が住職の時、兄将軍義教に対する謀反を起こしたとされる大覚寺門主義昭の乱があり、南朝再興と将軍職継承問題も絡めた政争の中に翻弄された。

そして、このころ14世紀半ばから、疫病が蔓延したりすると、嵯峨天皇宸筆紺紙金字の宸翰般若心経が大覚寺から借り出されて、人々がこの般若心経を飲んだと言われる。宸筆心経の欠損が甚だしいのはそのためと言われ、15世紀後半からは拝見だけされるようになったという。

戦国時代に入り、応仁2年(1468)9月、応仁の乱によりほとんどの堂宇を焼失。その後摂関家からの門主が続き、天正17年(1589)、皇族から空性を門跡に迎えて、衰退した大覚寺の再建にとりかかり、寛永年間(1624~44)には、ほぼ寺観が整えられた。

空性の後、後水尾上皇の弟尊性の頃から、茶の湯、文芸など華やかな文化サロンとして高貴な人々の交流の場となっていたことが、当時の皇族公家の書状が保存されていることから伺われる。

そして、その後四代近衛家から門主が出て、江戸末期、天保8年(1837)に、有栖川宮家の慈性法親王が20歳で門主になると、その四年後に嵯峨天皇一千年忌を催し、その翌年には、東大寺別当を兼務、さらには、江戸寛永寺に住まい日光にある輪王寺の門主となって天台宗の座主をも兼ねることになり、大覚寺を輪王寺が兼務することになる。

慈性門主は大覚寺最後の宮門跡として、心経殿の再興を願っていた。江戸へ下向する日、勅使門・唐門から出た慈性は名残惜しそうに何度も振り返っと言われ、「おなごりの門」と別名される。

結局、隠居願いが聞き届けられ、輪王寺から帰る準備中に上野の森でなくなった。幕府は、尊皇反幕運動の中心人物になるのではないとか恐れられるほどのカリスマ性のあるお方であったことが災いをもたらしたと言えようか。

その後、明治の激動の末、一時無住となり、明治6年に、中御門神海を門主に迎え、皇室から二百石をうけて復旧した。そして、大正13年(1924)、第48代龍池密雄門跡が心経殿を再建。また大正天皇即位式の饗宴殿を移築し、御影堂(心経前殿)とした。

一方、大正11年(1922)、大沢池附名古曽滝跡が国指定名勝、昭和13年(1938)には大覚寺御所として境内全域が国指定史跡に指定された。また平成4年には、心経殿が、指定文化財になっている。つづく


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大覚寺の研究1

2007年10月16日 08時40分01秒 | 様々な出来事について
大覚寺は今年、中興後宇多法皇の入山700年を迎え、10月24から26日にかけて大法会が行われる。24日に38名の檀信徒とともに参詣する。この機会に、ここ國分寺の本山でもある大覚寺とはいかなるお寺なのか、ここにまとめておきたいと思う。

大覚寺はいうまでもなく、旧嵯峨御所嵯峨山大覚寺・真言宗大覚寺派の大本山である。大同4年(809)に即位した嵯峨天皇は、都より離れた北野の地をこよなく愛され、壇林皇后との成婚の新室である嵯峨院を建立、これが大覚寺の前身・嵯峨離宮である。

嵯峨野は、その昔から野の花が咲き競う大宮人の行楽地であり、月を愛で、花を賞し、皇族貴族の遊猟を楽しむ場所であった。嵯峨の地名は、唐(中国)の文化を憧憬していた嵯峨天皇が、唐の都・長安の北方にある景勝の地、嵯峨山になぞられたものである。

その後弘法大師とのやり取りを見ても、嵯峨天皇は、漢詩文にすぐれ、それらは勅撰漢詩集「凌雲集」などに採用され、書道の三筆にも列せられる、平安前期を代表する文化人として高い素養を備えた方であって、また当時としての国際性を併せ持っておられた。

嵯峨天皇は、平安建都の完成者とも、今日にいたる皇室という伝統を築いたとも言われている。前時代の律令体制を修正し補足した格式を中心に政治を執られ、中国の新しい文化を伝えた入唐求法の僧侶たちにも深く帰依された。特に弘法大師空海は恩を賜り、弘仁7年に高野山開創の勅許を与え、同14年には東寺を下賜された。

弘法大師が、留学僧として20年間の滞在期間をあえて2年ほどで帰国した禁を犯したがために九州で足止めされて京の都に入れなかったのを許したのも嵯峨天皇であり、またその請来した経典類を評価し、真言宗という新しい教えを一宗として認めたのも嵯峨天皇であった。そのことを思うとき、この嵯峨天皇というお方は、真言宗にとって、誠に大きなご恩を感じる。

弘仁9年(818)春の大飢餓に際しては、天皇は、「朕の不徳、百姓何ぞつみあらん」と言われ、嵯峨天皇、壇林皇后とも衣服、常膳を省減し、人民への賑給を尽くすとともに、弘法大師の導きで一字三礼されて般若心経を書写された。その間皇后は、薬師三尊像を金泥で浄写され、弘法大師は、持仏堂五覚院で五大明王像の宝前で祈願したという。そのときの宸筆・般若心経は、現在も勅封として大覚寺心経殿に伝えられている。

この精神は後々までも引き継がれ、天変地異のあった天皇は自ら般若心経を書写して大覚寺に奉納することが恒例となって、後光厳、後花園、後奈良天皇などの宸翰が残されている。

嵯峨天皇は、皇位を淳和天皇に譲位されてのち、嵯峨野に20年間住まい、寝殿などの増築や中国の洞庭湖に模して東西200メートルもある大沢池をつくり、池泉舟遊式庭園が造園された。その北側には、藤原公任(きんとう)の歌で有名な名古曽の滝が造られている。百済からの渡来人が造ったと言われており、水落石の石組みが今に残る。

離宮嵯峨院が嵯峨天皇崩御の30年後の貞観18年(876)、嵯峨天皇の長女で、淳和帝の皇后であった正子は、政争によって廃太子となっていた第二皇子の恒貞親王を初代の住職恒寂法親王として、嵯峨帝と淳和帝の威徳をしのび、寺院に改められ、初めての門跡寺院・大覚寺として再出発することになった。

当時、田地が36町あったと記録されている。因みに恒寂は、丈六の阿弥陀像を造ったと言われるが、当時から、大覚寺の中心は、嵯峨天皇の宸筆般若心経であった。

恒貞歿後、仁和寺を開く宇多法皇がたびたび参詣し、詩宴を開いた。その弟子であった寛空が大覚寺第二世となり、その後、三世定昭が興福寺一条院の出であったが為に、290年ばかり一条院が大覚寺を兼務することになり、藤原姓の住職が続く。

鎌倉時代、文永5年(1268)後嵯峨天皇が落飾して素覚と名乗り大覚寺に住職されて、後嵯峨天皇の子亀山帝がその後に続き、門跡寺院として復活。そして、さらにその子である後宇多上皇が徳治2年(1307)に寵愛していた妃・遊義門院を亡くされた哀しみから仁和寺で出家。金剛性と号して、大覚寺に遷られ法皇となって、大覚寺で、4年間にわたって仙洞御所として院政を執られたので、大覚寺が「嵯峨御所」と呼ばれるようになった。

この頃、承久3年(1221)承久の乱と言われる後鳥羽上皇を中心とする公家勢力が幕府打倒の兵を挙げるという事件があり、皇室の結束を弱めるために幕府が干渉して、皇位が皇統や所領の継承を2分する調停を行い、亀山・後宇多の皇統は、後嵯峨、亀山、後宇多の三人の天皇が大覚寺に門跡として住したことにより大覚寺統(南朝)と称され、以後、後嵯峨天皇第二皇子の後深草帝の持明院統(北朝)と争うこととなる。

持明院とは、京都上京区にある藤原道長の曾孫、基頼が建てた邸内の持仏堂のこと。後深草天皇が、譲位後御所としたことから後深草天皇の系統を持明院統という。つづく

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ちょっといい話

2007年08月03日 20時05分35秒 | 様々な出来事について
8月1日、毎年のことではあるが、朝5時半にお寺を出て、京阪神地区に盆参りに出た。そして、福山から乗ったこだま号で、心温まる光景に出会った。何のことはない。ただ、乗る新幹線を間違えた人と行き先違いの同じ号車の同じ座席に座った人とのやりとりである。

岡山で人の入れ替えがあり、私の斜め前に紺のスーツを着たやや長髪の50代のサラリーマンが座った。IT企業のやり手の仕事士然とした感じ。少し前に世間を賑わしたグッドウィルの折口会長に似た雰囲気の人だった。

そして少しして、その人よりも少し年長のグレーのジャケットを着た中小企業の役員風の方が、そのサラリーマン氏に向かって、切符を片手に「席を間違えてないですか」と問われた。

その一言で、ことを了解したそのサラリーマン氏は「東京行きはこの後ですよ、すぐに降りた方がいい、ドアが閉まりますよ」と言われた。「あぁ、すいません」そそくさと出口に向かい役員氏が列車を降りるとドアが閉まった。私もそのやりとりを見ていて、ああ、よかったな、と思った。

こだま号がゆるゆると走り出すと、役員氏も、降りたところで振り返り、すぐに降りた方がいいと言ってくれたサラリーマン氏に向かって苦笑いして軽く会釈した。そして、サラリーマン氏も笑って軽く頭を下げた。その微笑ましい光景を見ていた私も幸せな気分に包まれた。

たまたま指定した同じ番号の座席にサラリーマン氏が座っていたから成立したやりとりであった。指定した座席が空いていて座ってしまっていたら、役員氏は間違えた列車に乗ったまま、途中で間違いに気づき乗り換えたにしても予定した時刻より遅れて目的地に向かうことになったであろう。

サラリーマン氏がもしも、つっけんどんに、「自由席のはずだがな」とでも言っていたら、やりとりが長引いてすぐに降車できず、こだま号は発車してしまっていたであろう。すぐに機転を利かして降りた方がいいとアドバイスしてもらえなかったら、もたもた切符を見たりしながら、乗り過ごすことになったであろう。

そして、何より、無事降車できて列車が走り出したときに、窓ガラス越しに二人がにこやかに会釈し合ったことが、私の心をも暖かく幸せな気分にしてくれた。こんなことはどこにでも、いつも転がっている程度の話なのかもしれない。

しかしこのときのサラリーマン氏の行動は、まさに自然になされた慈悲の実践と言えるものであり、それを素直に役員氏が受け入れることで成立した。だからこそ端で見ていた私の心をも潤してくれることになった。慈悲の心はその周りの者をも心安らかに優しい心にさせてくれる。

この二人が、もしも自分さえよければいい、周りのことなんか関わっていられるかといったものの考え方をする人たちであったら、こうはならなかったであろう。サラリーマン氏が、相手の立場、置かれた状況をおもんぱかり、適切な対応ができる人であり、役員氏も、素直に人の言うことを受け入れ、ことの状況を判断できる人であったから成立したことだ。

しかし、今の世の中、この逆のことばかりが目につくのではないか。相手の立場を考える余裕もなく、そんなことをしていたら損をする、逆に自己主張を声高にせねば損をするという時代ではないか。

他の利益を確保するよりも自己保身に走る輩ばかりがのさばる時代である。そんな時代だからこそ、その光景が誠に光り輝いて、今も二人が笑い会釈された微笑ましい光景が私の目に焼き付いているのかもしれない。

今年の阪神地区の盆参りも、この朝の心温まる二人のやりとりを目撃することができたお陰で、一日誠に心地良く、順調にお参りを済ませることができた。大阪の街も、例年より活気がみなぎり、人々の顔も明るく感じられた。体の疲れに反して、心は意気軒昂に満ち足りた高揚のままに帰還できた。

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『千の風になって』再考

2007年06月25日 09時32分18秒 | 様々な出来事について
朝日新聞6月20日朝刊に、「千の風なぜヒット」と題する記事が掲載された。テノール歌手秋川雅史さんが歌うCD『千の風になって』が売れ続け100万枚に達する勢いだという。亡くなった人が残してきた遺族に向かって語りかける内容の歌詞が、身近な親族を亡くした人々を癒す曲として、また40から60代の人々にとっては身近なテーマが歌われた曲として関心が注がれている。

このブログでも既に触れた内容ではあるが、今一度、その後の展開について一言しておきたい。まず、亡くなった人が風になったり、光や雪、鳥や星に形をかえて遺族のそばにいると語る歌詞に万物に精霊が宿るというアニミズムを想起させ、あたかも、この曲を支持する人々がそうした宗教観を併せ持ち、または求めていると考える人もあるという。

しかし、この曲はそこまでの信仰を説くものであろうか。私は、そこまでの宗教観を要するものとしてではなく、急に死に至った故人を悼む遺族に、亡くなった人になり代わって、すぐそばにいると思って早く元気を取り戻して欲しい、自分がいなくなっても変わらずにいて欲しいという願いを素直に表現したものと受け取ったらいいのではないかと思う。だからこそお墓で泣かないで欲しい、泣いて欲しくないと告げる。

そして、死者がお墓にはいない、眠っていない、死んでいないとも歌詞にある。このあたりのことを朝日新聞でも取り上げ、「日本人が共有してきた仏教的な死生観とは異なると違和感を表明する仏教者もいる」と記す。はたして日本人が共有してきた仏教的死生観とはいかなるものなのだろうか。

日蓮宗現代宗教研究所主任伊藤立教師の言葉として「成仏や浄土があることで安心して臨終を迎えられ、残された人も葬儀や回向という儀礼を通じて死者と向き合えるのが仏教だ」としている。本当だろうか。成仏とは何か。浄土とは何か。と、突き詰めて考えるならば、それはそんなに簡単なことではないことが知られよう。

つまり、死んだら成仏できる。死んだら浄土に行けると簡単に安易に人の生死を語り済ませてきた日本仏教に対する信頼が今の現代人にはないということを、この曲に対する多くの人々の支持は意味しているのではないか。戒定慧の三学に基づく実践を僧侶もないがしろにしている日本仏教を信じていないということなのではないか。

そんなに簡単に成仏できるのなら、なぜお釈迦様ほどの機根のある方が6年間もの苦行を行わねばならなかったのか。死んで即身成仏できるなら、どうして弘法大師は何度も求聞持法をなされたのか。念仏したら死後浄土にいけるのであれば、なぜあれほどまでに浄土教のお祖師方は自己内省を繰り返したのであろうか。

成仏する、浄土に行くのはそんなに簡単なことではない。日本で死して「成仏しました」と言うのはただ「亡くなった」ということを意味するにすぎない。仏教の教えも学ぶことなく実践もせずに、「亡くなれば引導を渡します、そうすれば仏の世界に行けます」と言ってしまう、誠に安易な日本仏教の法の説き方を支持しないということではないか。

また、浄土教では浄土に往生したその後については触れることがない。たとえ仏国土に往生したとしても、それで終わりではないということをきちんと説くべきではないのか。元々の仏教という教えとの整合性を付ける意味でも日本仏教のあり方が問われねばならない。日本仏教だけ特別ではあり得ない。世界の仏教徒の常識を受け入れないあり方、そのものが問われているのではないか。

「亡くなっても生きていて欲しいという千の風に表れる気持ちは、未練がどこまでも残ってしまうように感じる」ともある。『千の風になって』が、あたかも死者にすがる気持ちをいつまでも起こさせるとの心配をされているようだ。しかし、この曲で癒される人々は、ある程度の期間を経て、今をしっかり生きようという心の転換を果たしていかれているようだ。何時までも死者に未練が残るのではない。

打ちひしがれ、精神的に大きな痛手を負った人たちを励まし、勇気づける元気づける曲としてこの『千の風になって』を受け取ったらいいのではないか。しかし、だからといって、その歌詞にある内容は、決して仏教的に不具合のあるものではない。

死者の心がお墓にないのは当然のことであって、死後寿命を終えた身体を脱ぎ捨て49日間は私たちと同じこの三次元の空間におられるのだから、風になったり、雪になったり、光になったと思って身近に死者の心を感じる期間を経て、輪廻転生して再生を果たせば、死んでなんかいませんという歌詞に繋がっていくのである。

だから私は、この『千の風になって』は、誠に良い内容の曲であり、寂しさを感じるものでもないし、現代の私たちに意味あるメッセージを伝える曲であると思っている。

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「千の風になって」の誤解

2007年05月16日 10時38分10秒 | 様々な出来事について
『千の風になって』
   
 私のお墓の前で 
 泣かないでください
 そこに私はいません 
 眠ってなんかいません

 千の風に
 千の風になって
 あの大きな空を
 吹き渡っています
 秋には光になって 
 畑にふりそそぐ
 冬にはダイヤのように 
 きらめく雪になる
 朝は鳥になって 
 あなたを目覚めさせる
 夜は星になって 
 あなたを見守る

 私のお墓の前で 
 泣かないで下さい
 そこに私はいません 
 死んでなんかいません

 千の風に
 千の風になって
 あの大きな空を
 吹き渡っています

 千の風に
 千の風になって
 あの大きな空を
 吹き渡っています

 あの大きな空を
 吹き渡っています

アメリカで話題となった『Do not stand at my grave and weep』に、小説家の新井満氏が訳詩を手がけ、自ら作曲して話題となった。原詩の作者は不明だそうで、アメリカ女性Mary Fryeが友人のMargaret Schwarzkopfのために書いた詩がもとになっているともいわれている。

また、この歌はナチスドイツから逃げてきた亡命者がナチスドイツに残してきた母の訃報を知り悲しむ親友のために慰める為に作ったという説もあるようだ。9.11同時多発テロの犠牲者追悼式でも唱えられ、またJR福知山線事故など様々な犠牲者の遺族を慰める曲として社会現象にもなった。

そして、今、この曲が一人歩きして宗教界、特に仏教界に一つの波紋を投げかけている。実は、私のところにも、年初からこの曲の歌詞には亡くなった人が「私はお墓にいません」とありますが、と問われる人があった。

中外日報5月8日付社説「千の風の曲が宗教界に響く時」には、「死者は墓にいないで風になっているというのだから、葬儀の脱宗教化と、どう結びつくであろうか」とある。

また、ある宗派の研究機関の問題提起として「仏教が弘まっているはずの日本で『千の風になって』が注目されているのは仏教の教えが理解されていない、支持されていないということでしょうか」とも記されている。

短いコメントなので、その真意が計りかねるのだが、日本仏教として、お墓と亡くなった人とがどうあると考えるのかがはっきり示されていないように感じる。もしくは、はっきりと言えないのだろうか、または理論と認識が相違しているのであろうかとも思える。

それぞれに宗派によっても考え方が違い、それぞれ僧侶も考え、思いが違うのではないか。そこには、宗派の教えばかりを重んじ、本来しっかり学ぶべき仏教教理の根本が理解されていない今の日本仏教の現状を露呈しているようにも感じる。

丁度、先週開かれた國分寺仏教懇話会でこの話題が話し合われた。石仏の取り扱いに触れたときに、この「『千の風になって』の歌詞にあるように、亡くなった人はお墓にはいないのですから」と言うと、一人の方から「お墓に亡くなった人は居ないんですか」と問われた。

これまでにも懇話会では、お墓の話をしてきているので、皆さん理解されているだろうと思っていたが、ことはそう簡単ではないとこの時了解した。小さいときから、亡くなった人に会いに行こうとか、お墓に参って静かにお眠り下さいと思ってきた思いはそう簡単には払拭されないということだろう。

また昨日、近くの知人が来てこんなことを言われた。「これまでお墓参りして馬鹿を見たわ、『千の風になって』で、お墓に私はいませんって歌っているのに」と。川柳でもこの手の笑い話があるそうだ。お墓に亡くなった人がいないのだから、墓参りをしないいい口実ができたというものらしい。

はたして、このような理解でよいのであろうか。千の風に歌われているから、お墓に亡くなった人がいないのだから、お墓にも参る必要もない。実に現代的な割り切り方とも言えようか。まず、歌にうたわれているから、何事も正しいと思ってしまうことは、余りにも短絡的過ぎよう。

また、お墓に亡くなった人がいないとして、だから墓参りは必要ないというのも、いかがなものか。それでは、ここで、はっきりと仏教的にどのように解釈すべきかを述べてみよう。まず、亡くなった人はお墓にいるとはどのようなことか。

お墓に亡くなった人の心がおられるということは、仏教では生きとし生けるものは死後六道に輪廻転生するとしているのに、転生できずにこの世に未練を残したままとどまっていることだと言えよう。亡くなった人は、49日後に来世に行かれているのだから、お墓にはいない。

私たちは、この身体が自分だと思いこんでいる。だから、亡くなった人もその遺骨がその人だと思ってしまう。私たちはこの身体をもらって、生きているだけで、身体は寿命を終えたら、脱ぎ捨てて、来世に行かねばならない。

どこへ行くかはその人の一生の行いによってもたらされる亡くなった瞬間の心に応じたところと言われている。だからこそ、私たちは仏教の教えを学び間違いのない生き方をしなくてはいけない。

では、お墓にいるからお参りが必要で、いないなら墓参りは必要ないのであろうか。お墓とは、亡くなった人に仏塔建立の功徳をささげ、その功徳を回向するために建立するのである。

だから、亡くなった人がいなくても、足繁く墓に参り灯明線香花を供えて荘厳し、その功徳を来世に赴いた故人に、前世の家族として回向してあげることは大事なことであろう。

また、亡くなった人が、風になったり、雪になったりする歌詞に反響があったことで、あたかもアミニズム(自然精霊崇拝)が支持されたごとくに解する人もあるようだ。

しかし、あくまでその部分は、突然家族を亡くし心傷ついた人が、亡くなった家族は身近にいてくれるのだと思うことで、心を癒すための設定程度に理解したらよろしいのではないか。

この曲に心癒され、身近な人の死から、人が生きるということ、死ぬということをしっかりと捉え、豊かに生きていくための一つのステップだととらえればよいのではないか。

歌詞の一つ一つにこだわり、そこから現代に生きる私たちの宗教観を問うこともなかろう。それよりも、この話題から、きちんと人の生き死にについて、それがどのようなことか、ではいかに生きるべきかと語ることが先決なのではないか。

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寺院とはテーマパークか?

2007年05月10日 19時31分07秒 | 様々な出来事について
お寺とは何だろう。何度となく、ここでも書いてきたように思う。先だって京都の三千院に参詣し、往生極楽院にお参りした。そのときおられた天台宗のお坊さんが一席の法話の中で、誠に軽妙に面白可笑しくお話しされた。

「このお堂は、平安時代に造られたテーマパークで、阿弥陀浄土を体験していただく、つまり、いま流行のバーチャル・リアリティを実感してもらうための空間なんです」と。

なるほど、おもしろいことを言うと感心した。確かに、日本の仏教は、と言うか、大乗仏教においては、寺院とは、仏菩薩の近くにはべり、その境地の法悦を味わう場であったであろう。だからこそ、沢山の仏たち、如来や菩薩、明王という尊格がおびただしく創られていった。

沢山の仏塔が建立され、そこに正にお釈迦様がおられるかのように思ってお参りした。そして、沢山の仏像が造られ、さらに曼荼羅という仏の世界を表現したビジュアルによって瞑想を強化する装置も発展していった。さらに声明などの音楽によって、仏の世界の音も体験できるようになる。寺院はそれらがすべて揃った空間の中で、仏と対面し、仏の世界に誘い、仏の世界を体験させる場であったのであろう。

また、街の喧噪からひとたびお寺に入ると、外の音は聞こえてきても、心安らぐ癒しを与えてくれるところがお寺、ないし教会とは言えまいか。昔、インドにはじめて行ったとき、カルカッタの喧噪の中で、ひと人ひと、車やリキシャの群れ、汚れた空気と騒音に疲れたとき飛び込んだキリスト教の教会の静寂のありがたさを思い出す。重い荷物を置いて、手を合わせるわけでもなかったが、静かに椅子に腰掛けるだけで、心安らいだものだった。

ところで、昔友人に、音楽で飯を食っていこうと志した人がいた。ある先生に弟子入りしたところ、素人で歌を習っているときにはとても親切で優しい先生だったのに、本格的にプロになるためにひとたび弟子入りしたら、途端に態度から教え方まで豹変して、まったく人が変わったようにスパルタで厳しくなってしまったという。それでとうとう音を上げて止めてしまったという話を聞いたことがある。

素人の世界とプロの世界とは、そうしたものだろう。どんな業種でも同じことが言えるのではないか。それはお寺であっても同じことではないだろうか。だから、冒頭に述べたように「お寺とはテーマパークで、バーチャルリアリティを体験する場」というのも結構だが、それはあくまでも、素人の世界の話であろう。

プロの世界ではどうかといえば、やはり、昔平安時代にそのお堂を造り修行された真如房尼の、50日間もひたむきに念仏を唱え横にならず歩き通し念仏する常行三昧行を修した姿勢こそが本当のものだろう。若くして亡くなった主人の菩提を願って、ひたすら念仏を行じた厳しさこそ、プロの世界ではないか。

お寺とは、一時の安穏、静寂、癒しの場であると同時に、やはり、一人一人のさとりを求めた修行の場としての厳しさが求められているのではないかと思う。以前チベットのあるリンポチェが高野山に参詣され、山内で二カ所だけ神聖な場があると言われたという。その二カ所とは、弘法大師の御廟前と専修学院という僧侶養成所である。

奥の院と言われる大師の御廟は、ひたすらに何事かを願い参詣する人が後を絶たない場である。また専修学院は、新しく僧侶になる人たちが真剣に修行を重ねる場である。だからこそ神聖なのではあるまいか。

お寺に参詣する人は、仏に帰依してひとときの安らぎを感じて帰るときもあれば、ときに、厳しく己を振り返り、これでよいのかという懺悔の心を、そして、これからどうあるべきかという葛藤の末に、こうあるべきとの誓願を起こし、仏教を実践する場として寺院を捉えて欲しいと思う。

加えて、僧侶は、一分一秒に抱く心の持ちようも業になり、輪廻の業因となることを考えれば、寸時を惜しんで自らの心に気づいていることが求められているのであろう。修行は本堂の本尊様がされていますでは話にならない。

余計なことに心遊ばせ、悪業を重ねることなく、それこそプロとしての姿勢を常に保つことが、誠に難しいことではあるが、それが寺に住まう者としての本来のマナーなのかも知れない。

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お墓という難問

2007年05月06日 09時08分37秒 | 様々な出来事について
人は人に言われたことで、心乱し思い悩み、右往左往してしまう。言われた内容によっては安心し自分の思い違いに気づき、行いを正してもいける。しかし人は思いの外、評判や周りの人の口車に乗りやすく、一度思いこむとなかなか素直に忠告を受け入れることは出来ないものである。

昨日ある方が見えて、二つある墓を一つにしたいと言ってこられた。事情を伺うと、お墓とは何かも、そのお墓のこともよくご存知でないと思われたのでお話した。

伺っていると、どうやらある人から亡くなった人が寂しがっていると言われたという。まるで50年も前に亡くなった人が二つに分かれて、墓所にない方の戒名を刻んだだけの分骨もしていない石が意思を持っているように思われているようだった。

言った人は無責任なもので、言われた人がどれほど思い悩み苦しんでいるかも分からずに勝手なことを言う。それでお金まで取っている人もあるなら、それは生活のために人を不安がらせ不幸にして、自分の生活の資にしているのであるから、大変な悪業を重ねていることになろう。

ともかく、お墓に亡くなった人がいるのであろうか。「千の風になって」ではないが、お墓に私は居ませんという歌詞は正しいのではないか。もしもお墓にその亡くなった人の心が残っているなら、それは地縛霊とでも言うのであろうか、来世にも行けず今生に執着し不成仏霊となっていることを意味していよう。

もちろんこの場合の成仏とは、お釈迦様のような悟り、阿羅漢果を成就したという意味ではなく、来世に行ったという意味であることにご注意いただきたい。日本で人が亡くなって成仏されましたという場合の成仏は、仏教要語としての成仏ではないことを私たちははっきりと区別すべきであろう。

話を戻すと、つまり亡くなった人が普通に亡くなり、きちんと葬送の儀礼をなして、亡くなった人の心が身体の束縛を離れてもなおその場に留まっているとは考えにくい。もしもそうならばもっとはっきりした形で、まだ居ることの意思表示をして来るであろう。

昔、高野山にいたとき、多くの修行僧の中には、霊がみえる人が何人かいた。それらの霊は修行中に亡くなってその場にとどまり、来世に行けずにいる霊たちだったようだ。時折、晩に寝ている私たちを見に来ていたとのことで、そういう晩には、夜中寝苦しく、その部屋で寝ていた者全員が起きてしまったりしたものであった。

ではお墓とは何かと言えば、それは、仏塔という仏教のシンボルを建立して、その功徳を亡くなった人に手向けるためにある。そこに日本では戒名を刻み、下に遺骨を埋葬する。戒名を刻むから、またそこに何かあるようにも思えてしまう。

遺骨が埋葬されていないなら、なおのこと、何も刻まずに、五輪であるとか、地蔵尊を刻んでいたら、そう亡くなった人の思いを残すこともないのかもしれない。今回の場合、戒名だけが真ん中に刻まれていたがために余計にそう思えたのであろう。

昔は地方によって違いはあろうが、埋葬墓と供養墓が別々の場所にあった。土葬でもあったためか、なるべく埋葬墓は遠くに造り、供養墓はよく参れるように近くに造られた。

その当時はお墓が二つあるのは当たり前のことで、今でも、何カ所にもお墓がある人もあり、また各宗派の本山に分骨する人も多い。だが、そうした人たちも、亡くなった人が別の所で寂しがっているとは思っていないであろう。

仏塔であるお墓は、きちんと仏教のシンボルとしてそこに存在していることが功徳になるのであるから、清掃し荘厳されているのが良いことで、仏塔に線香灯明を供え手を合わせるのは供養としてなされる。善行であることに間違いはない。

だからお墓に参るのであって、そこに亡くなった人がいるから参るのではない。だからといって、勿論、私は千の風になっていると思っているわけではない。その仏塔の功徳を再確認して回向し、来世での安穏を祈るために参るのである。

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インドという国

2007年03月16日 17時56分50秒 | 様々な出来事について
今インドは、IT産業花盛りで、経済発展ばかりが取り沙汰されているが、私の滞在していた10年前のインドの印象について語ってみよう。

①インドは暑い国と思っているかも知れないが、冬もあり凍死する人も出る。路上生活者もいるからだ。気候が暑いだけでなく、インドは人の心も篤いし、熱しやすい。バスや電車でも気軽に話しかけてくる。

それに、好奇心旺盛。そして議論好き。電車の中で隣り合わせた者同士で、口角泡を飛ばして悪政を論じたりする。そんなインド人の気質も幸いして、経典なども膨大な量が残されたのであろう。

②伝統を重んじる。衣服、音楽。インド伝統の服、丈が腰まであり丸首でボタンの付いたクルター、一枚の布で腰に巻くルンギー、長い布を左右の足に巻き垂らすドーティ。女性ならご存知サリー、上下服のパンジャビーなど。日本にも勿論和服はあるが、正月など特別なときに限られる。

しかしインドでは特に歳を取るとみんな普通に伝統服を着る。政治家はみんなインドの国の誇りを象徴するが如くにインド服。女性は若い人もインド服が多いし、歳を取ってふくよかになると洋服はまず着ない。歳を取られても色鮮やかなサリーがよく似合う。

そして、音楽も踊りも伝統的なものが今もって第一に演じられる。弦楽器シタール、ヴィーナー、小ぶりの太鼓のタブラ。またマハーバーラタ、ラーマーヤナなどの古い物語が未だにドラマにされたりして熱狂する。

③国家を重んじる。英国から大きな民族運動を起こし独立した国だけに、国旗、国歌に対する思い入れが強い。伝統あるインド国民であるという誇り高い国民性をもっている。

④食も保守的、伝統食が第一。ほぼすべてがカレー味。サブジ(野菜)、チキン、マトンのカリーなど、他にダールという豆のスープ、かまどで焼くタンドーリ、インドパンのナン、チャパティ、プーリなど。手で食べるのが普通。右手を使い、左手は補助程度。中華をたまに食べに来る家族もあるが、ほとんど外国の食を食べない人が多い。

⑤包容力ある国。多民族国家だけに、何でも受け入れる。懐が深い。マニプールなど異民族も特別地区として保護しているし、チベット人も受け入れ援助している。ラジブガンディの妻ソニアを国民会議派の党首にしている。首相になる可能性のある選挙時にインド人に問うと、イタリア出身でも何も問題ないと言っていた。

⑥貧困層に優しい国。カーストの問題は残るものの、金持ちは貧しい者に施して当然との観念がある。最低の生活する者でも生きられるように食品や綿ものの衣類などの物価は誠に安い。近年職業カーストの解体が起こっている。

長年カーストに甘んじ職替えできずにいたような人の仕事がトラックや通信その他多くの近代化によって奪われ、相対的に職業の固定化が難しくなった。またカーストよりも学歴、コネ、英語が話せるかどうか、今ではパソコンが扱えるかどうかなどが職業選択採用に幅をきかせているであろう。

⑦産業豊か。アジアですべての生活物資を国産できる国は、日本とインドだけ。農業も盛んで豊かな国土。それに、鉄道王国、6万キロを超える営業鉄道があり、世界第2位。昔駅で切符を買うのは一日仕事だった。それだけで疲れ果てもう何も出来ない。しかし今では遠距離はすべてコンピューター発券できる。

また、昔インドから日本に小包を送ると殆どの品物が中身を開けられ、ぐちゃぐちゃになって何ヶ月もかかって到着した。しかし郵便も、外国へ送る小包はコンピューター管理で安心で誠に素早く手続きをしてくれる。これは近年のIT王国の名に恥じない発展を国内でも示している。

そして、インドは映画王国でもある。年間制作本数800本以上。世界一。日本にもいくつもインド映画か紹介され、人気を博した。

まあ、こんなところだろうか。とてもいい国だ、是非一度行かれることをお勧めする。立派なプール付きのホテルも沢山ある。そんな贅沢なホテルに今でも日本のビジネスホテル感覚で泊まれるであろう。そんなところに泊まれば何も問題ない。

是非、ご夫婦でリゾートにインドへ行かれては如何であろうか。勿論仏蹟の一つもご参詣いただければ、また格別の旅になるであろう。

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亥年をむかえて

2007年01月02日 13時51分15秒 | 様々な出来事について
今年は丁亥(ひのとい)年。12年前の亥年、1995年の正月には、私はインドの黄色い袈裟を纏って東京の放生寺に居候していた。その前々年93年4月にインドのサールナートで沙弥出家して、6月にはカルカッタのフーグリー河船上にてベンガル仏教会の長老方に見守られウパサンパダー(上座仏教の具足戒式)を受けた。

サールナート法輪精舎に住まいして、お寺のボランティアを手伝いつつベナレス・サンスクリット大学でパーリ語のディプロマコースに学んだ。そして翌94年4月に黄衣のまま一時帰国してから暫く学生向けの下宿に住み、その半年後から放生寺に移っていた。本当はその頃にはインドに戻っていなければいけなかったのに、インドで異常にコレラが流行して渡印を延期していた。

その年94年は、4月に新生党公明党社会党の反自民党連合が政権を取ったのもつかの間僅か2ヶ月で崩壊し、6月末には自民党と社会党が連立を組み、初の革新系党首村山氏が首班指名を受けた。

その時、私は茨城県大洋村の浄心庵というところにいて、スリランカの長老とともにその様子をテレビで見ていた。異様な政治の人間模様。世の中がグラリと、何でもありの異常な世界に入り込んだ一瞬だったのではないか。権力欲のためには思想信条も投げ捨てるという姿勢を時の為政者が示し、まさに退廃の世に国民を投げ入れた。

そして明くる95年1月17日、阪神淡路大震災が起こり、テレビで見た自衛隊のヘリコプターが炎上する神戸の町を飛んでいる光景が強く印象に残った。自分でも何かしなければと思い救援物資を送った矢先に芦屋の知り合いから心のケアーのために避難所に来ないかとのお誘いがあった。二つ返事で了解し、震災後2週間目に東灘区の本山南中学の避難所に入った。

そのときには2週間ばかり滞在して心のケアーをはじめ様々なボランティアに励み、その後も3が月ほど1週間から10日間毎月本山南中学に通い、被災者のその後の生活復興を拝見した。その間に地下鉄サリン事件が起こり、オウム真理教一斉摘発へと続く。

またこの年は様々な金融機関の不祥事が続き、金融合併の先鞭を付ける年でもあった。4月には円が史上最高値1ドル79円75銭をつけた。この頃まではまだバブルの余韻があったが、次第に長期の不況感が漂い、人々にあきらめの色が濃くなっていく。どこへ行っても不況だからという言葉が聞かれるようになる。

いまもって一般庶民のこの雰囲気はそう変わらない。いいのは大企業と大銀行ばかりだ。また、昨年は、安倍政権となり、初の戦後生まれの首相が誕生した。国民の生活を無視し続けた小泉政治を継承すると言い、早々に教育基本法を変えた。これは国民主権から国のために国民ありとする日本国の根本を転換せんとするものであろう。

前の亥年1995年のように何か大きな事件が起こらねばよいがと祈っている。我が願いに天随うと言われたのは弘法大師だったか。しかし、逆に見ればこれは天も下界を見ているということでもあろう。だから人の願いに天が気づいてくださる。ついては、天に見限られないような私たち人間の行いをしなければいけないということでもある。

人の道に外れたようなことをしていて良いことはない、人の上に立つ人々はなおさらである。それぞれの立場に応じて明恵上人の説かれた「あるべきようは」を自らに問いつつ、日々過ごす必要があるのであろう。今年は、はたして何が起こるのであろうか。

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