法華経信仰者の登場
平安後期に台頭した地方武士層を中心に、法華経を所持して読誦書写などを行い、それにより罪業を消滅し輪廻からの解放を求める信仰者がありました。法華経を信仰するそうした人々を背景として鎌倉中期に日蓮が登場してまいります。
日蓮(一二二二ー一二八二)は、安房清澄寺に入り密教や浄土教を学んだ後、比叡山など各地を遍歴して、一二五三年法華経への絶対帰依を表明し[法華(日蓮)宗]を開き、「南無妙法蓮華経」と題目を唱え始めます。
念仏者を非難して専修法華の立場から、鎌倉で布教。その頃鎌倉は飢饉や疫病に見舞われていました。そこで「立正安国論」を著して幕府に献じ、念仏、禅、密教を禁じて法華経を唯一の正法と認めない限り災害が続き、他国の侵入を受けるなどと予言して、伊豆に流罪となります。
日蓮は人の心の中には仏から地獄までのあらゆる性格が備わっており、法華経を中心とする本尊とその心との合一は、末法の凡夫にとって題目を唱えることによってのみかなえられる、題目にはすべての生き物の成仏を可能にする教理の真髄が込められてあり、その題目を唱えることで久遠の昔から成仏している仏の徳が与えられると説きました。
ことごとく他宗派を非難して弾圧され続けた日蓮ではありましたが、地方武士や女性に信者が多く、彼らには家族や主従の道徳を説き報恩を強調したと言われています。
真言宗の歩み
以上述べてきたように、この時代に新しい宗派を起こしたのは真言律宗を除き、すべて天台宗の本山・比叡山で修学した後遁世した僧たちでした。
一方真言宗では、平安時代後期には仏菩薩等諸尊の供養法など実践面の研究が進み様々な流派を生みましたが、この時代には教理面での学道が振興します。
頼朝が鎌倉に幕府を開くと、源家の氏神・鶴岡八幡宮の社僧別当職に就いたのをはじめ、僧坊が各地にでき、学僧衆も鎌倉に集まります。そうした影響から頼朝の一族及び北条氏は霊峰高野山を崇敬して、頼朝は勧学会を開き、北条時宗は勧学院を建立。密教経典の注釈書や空海の著作「声字実相義」「般若心経秘鍵」などを教材に教学の進歩を促しました。
覚鑁の系統を継ぐ高野山上の大伝法院では諸学研鑽した頼瑜が出て学頭となり、抗争耐えない金剛峯寺方との禍根を一掃し、密厳院、大伝法院の屋宇道具一切を根来に移して、一二八八年新義派を分立しました。
また、入宋して戒を修めた俊芿によって再興された京都泉涌寺は、承久の乱の後即位し崩御した四条天皇の葬儀を他の寺院が幕府の目をはばかり断ったとき敢えて引き受け、その後皇室の菩提所となりました。明治初年まで歴代天皇、皇族の葬儀を行い墓所が設けられ位牌が祀られています。
また諸国を巡り弘法大師信仰と高野山納骨をすすめた遊行者集団・高野聖は、この時代には高野山内に蓮華谷、萱堂、千手院の三集団が形成されます。蓮華谷の頭目明遍(一一四二-一二二四)は、少納言通憲の子で、諸国を回国して高野山に登り、後に法然にも受法。称名念仏と弥陀の供養法に専心した生涯を送りました。
政治経済に大きな変革のあったこの時代、仏教も時代に即応し平易な教えが興り、民衆に定着した反面、その影響から日本仏教が仏教の根本である実践的思想体系を損なう一過程となりました。
また、これまで国家行事に参加する義務のあった官僧が出来なかった葬儀に遁世僧たちは積極的に関わり、今日に見る僧侶が葬送に関与する習慣もこの時代にできたのでした。
平安後期に台頭した地方武士層を中心に、法華経を所持して読誦書写などを行い、それにより罪業を消滅し輪廻からの解放を求める信仰者がありました。法華経を信仰するそうした人々を背景として鎌倉中期に日蓮が登場してまいります。
日蓮(一二二二ー一二八二)は、安房清澄寺に入り密教や浄土教を学んだ後、比叡山など各地を遍歴して、一二五三年法華経への絶対帰依を表明し[法華(日蓮)宗]を開き、「南無妙法蓮華経」と題目を唱え始めます。
念仏者を非難して専修法華の立場から、鎌倉で布教。その頃鎌倉は飢饉や疫病に見舞われていました。そこで「立正安国論」を著して幕府に献じ、念仏、禅、密教を禁じて法華経を唯一の正法と認めない限り災害が続き、他国の侵入を受けるなどと予言して、伊豆に流罪となります。
日蓮は人の心の中には仏から地獄までのあらゆる性格が備わっており、法華経を中心とする本尊とその心との合一は、末法の凡夫にとって題目を唱えることによってのみかなえられる、題目にはすべての生き物の成仏を可能にする教理の真髄が込められてあり、その題目を唱えることで久遠の昔から成仏している仏の徳が与えられると説きました。
ことごとく他宗派を非難して弾圧され続けた日蓮ではありましたが、地方武士や女性に信者が多く、彼らには家族や主従の道徳を説き報恩を強調したと言われています。
真言宗の歩み
以上述べてきたように、この時代に新しい宗派を起こしたのは真言律宗を除き、すべて天台宗の本山・比叡山で修学した後遁世した僧たちでした。
一方真言宗では、平安時代後期には仏菩薩等諸尊の供養法など実践面の研究が進み様々な流派を生みましたが、この時代には教理面での学道が振興します。
頼朝が鎌倉に幕府を開くと、源家の氏神・鶴岡八幡宮の社僧別当職に就いたのをはじめ、僧坊が各地にでき、学僧衆も鎌倉に集まります。そうした影響から頼朝の一族及び北条氏は霊峰高野山を崇敬して、頼朝は勧学会を開き、北条時宗は勧学院を建立。密教経典の注釈書や空海の著作「声字実相義」「般若心経秘鍵」などを教材に教学の進歩を促しました。
覚鑁の系統を継ぐ高野山上の大伝法院では諸学研鑽した頼瑜が出て学頭となり、抗争耐えない金剛峯寺方との禍根を一掃し、密厳院、大伝法院の屋宇道具一切を根来に移して、一二八八年新義派を分立しました。
また、入宋して戒を修めた俊芿によって再興された京都泉涌寺は、承久の乱の後即位し崩御した四条天皇の葬儀を他の寺院が幕府の目をはばかり断ったとき敢えて引き受け、その後皇室の菩提所となりました。明治初年まで歴代天皇、皇族の葬儀を行い墓所が設けられ位牌が祀られています。
また諸国を巡り弘法大師信仰と高野山納骨をすすめた遊行者集団・高野聖は、この時代には高野山内に蓮華谷、萱堂、千手院の三集団が形成されます。蓮華谷の頭目明遍(一一四二-一二二四)は、少納言通憲の子で、諸国を回国して高野山に登り、後に法然にも受法。称名念仏と弥陀の供養法に専心した生涯を送りました。
政治経済に大きな変革のあったこの時代、仏教も時代に即応し平易な教えが興り、民衆に定着した反面、その影響から日本仏教が仏教の根本である実践的思想体系を損なう一過程となりました。
また、これまで国家行事に参加する義務のあった官僧が出来なかった葬儀に遁世僧たちは積極的に関わり、今日に見る僧侶が葬送に関与する習慣もこの時代にできたのでした。