住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
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日本仏教の歩み14

2006年02月17日 14時07分06秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
(以下に掲載する文章は、仏教雑誌大法輪平成17年12月号よりカルチャー講座にわかりやすい日本仏教史と題して連載するために書いた原稿の下書です。校正推敲前のもので読みにくい点もあるかもしれませんが、ご承知の上お読み下さい)


明治時代の仏教

今回は、明治時代という近代国家形成の過程において、仏教がどのように近代化を経験したのかを見てまいりましょう。

排仏論と出定後語

黄檗宗開祖隠元の弟子鉄眼道光は、一六八一年漢訳経典を総集した大蔵経六七七一巻を出版します。この鉄眼版大蔵経出版に関わった富永仲基(一七一五ー四六)は、「出定後語」を著して仏典成立に加上説を創唱。真にお釈迦様が説いたのは阿含経の数章に過ぎず、後は後人の付加であると主張。後に大乗非仏説論に発展しました。

江戸後期になると、古典文化の研究から国学が起こり排仏論を唱えます。国学者本居宣長や平田篤胤らは仏教伝来以前の古神道を理想とする復古神道の立場から仏教を排撃。平田篤胤は「出定後語」の理論を借用して「出定笑語」を書き、文章が平易通俗的であったこともあり多くの人に読まれ、明治維新にいたる王政復古運動、さらには廃仏毀釈の思想原理になるのでした。

神仏分離令と廃仏毀釈

一八六八年(九月より明治元年)三月、未だ江戸開城も済まぬ時に、神祇事務局より神仏分離令が発令されます。神社に別当あるいは社僧として仕える僧侶の復飾、神社でご神体としている仏像や梵鐘、仏具などの撤去を命じ、神社から仏教勢力の排除を通達します。

当時は神仏習合により、大きな神社であっても神職の上位に社僧など僧侶がいて神社を管轄し、神職はその指示に従っていました。しかし、仏教勢力からの独立を長年求めてきた神職らは、この神仏分離令が発令されると、幕藩体制下で寺院からの精神的支配に反発していた民衆を巻き込み、強引な破壊行為が各地で巻き起こっていきます。この、世に廃仏毀釈と言われる野蛮行為によって、仏像経巻など国宝にも比せられる多くのものが瞬く間に全国各地で灰燼に帰す事態となりました。

また一方では、奈良の興福寺のようにすべての僧侶が何のもめ事もなく復飾して神官となり春日社に仕え、伽藍仏具などは処分されるといった例もあり、石清水八幡宮、鶴岡八幡宮などでも同様でした。しかしその多くは、神社と寺院に境内を分離して別々の管理のもとに置かれ、今日に至っています。

こうした神仏分離令による混乱の最中、この危機的な状況を打開すべく、一八六八年(明治元)十二月各宗派合同の「諸宗同徳会盟」が京都興正寺にて発足し、僧風の粛正と仏神儒の三道による国民教化、キリスト教排撃のための護国護法を訴えました。これは仏教界全体に革新の気運を促すものとなり、二年後には諸宗連合学校として「総黌」を設立。近代的な宗門教育の形成を促すものとなりました。

明治新政府の宗教政策

かくして王政復古の旗印の下にうち立てた明治新政府は、その権威のために天皇陛下を神権者とする国家神道を国教化する政策を推進。

国家神道を「大教」と名づけ、天皇崇拝を中心として新たに作られた神道教義を全国民に浸透させ宗教を統一させることを目指しました。

そのため、寺院を勅願所とすることや勅修の仏教儀礼を廃止することとなり、それまで天皇皇族の菩提寺として葬祭の一切を執行していた京都泉涌寺との関係は、一八六八年(明治元)十二月には改められ、宮中の仏像仏具を泉涌寺に移し、皇室の葬礼は神式に改正されました。

そして翌年には、神祇官が太政官の上に置かれ、「祭典の執行、陵墓の管理、宣教」を司ることとなります。神々の頂点には神典に記された神々と皇霊をいただき、その下に諸国有名神社を配し、底辺には村毎の氏神と祖霊を置く神々の体系をもって、それ以外の宗教的なものをみな淫祠邪教の類として排し、神社や神職らによる国家管理を進めることとしました。

そして江戸時代民衆掌握の手段として寺院に作成させた宗旨人別帳に代わり、一八七一年(明治四)戸籍法並びに氏子調規則が制定され、それまでの寺院の役割を神社がそのまま取って代わることになりました。つづく
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