主催するホームページ・ナマステブッダの掲示板に今年1月5日に以下のような書き込みがありました。ひと月思いめぐらしまして、どのような返答をすべきか、考えておりましたところ、この一文に対して賛意を表する書き込みも有り、本日下記のような内容で返答しましたのでご覧下さい。まず投稿者からの一文を転載し、次に私全雄からの返答を掲載します。
<転載>
仏教家に告ぐ 投稿者:徳永日本学研究所 代表 徳永圀 投稿日: 1月 5日(木)08時39分52秒
仏教家に告ぐ・物を超越せよ
仏教とは、単純明快に言えば、この現実の世界は仮の姿であとして、来世を説く。そして、この世は「色即是空」であることを衆生に教えている。。「色」即ち「この世の形あるもの、そして形無き意識から眼界」まで「空」だとしている。
さすれば、仏教は、自らそれを実行し実践しなくてはなるまい。
それには、僧侶自ら、物を超越する、物質世界を超越すると言う実践の模範を示すことではないか。
金襴緞子の僧衣も不要であらう、庶民には苦々しいばかりで不要である、墨染めでいいだろう、道元禅師は常にそうされた。立派な伽藍もお堂もいらないではないか、僧自身が、物に超然としなくてはなるまい。さすれば信徒は増大し、黙っていても「お布施」が増えるのではないか。お布施とは本来そのような性質のもので、唆かすものではない。まして近年は請求すらすると小言を聞いた。関西地区の友人によると、仏教にはついて行けないから神道にする人が増加しているという。神道は諸般に慎ましいからであろう。
自ら、この世的な物質世界に超然としていることこそ僧侶に必要であるのに、多くの寺院や僧は逆のことををしている。
ビジネス的仏教になつているのではないかと多くの方々から聞く。勿論、カルトの類いのものは問題外であり私は宗教とは思わない。
我々は俗界にいる人間だから許されるとしても、僧籍にあるものは、物質を越えた存在であると俗人に範を示してこそ、尊敬され自発的に喜捨もしたく思うのである。これが多くの人の思いでもあろう。
神道や神社や皇室を見るがいい、天皇陛下を初め、宮司や神職を見るがいい、「言挙げしない」神道の原理を守り、実に素朴に質素にしておられる。賽銭など所望はされない。神道では、人間が死んだら平等で戒名の格差もない、ただ自分の名前の後に「命」即ち「みこと」をつけるだけである。私なら「徳永圀典命」となるのである。平等そのものである。日本は縄文時代からこのように平等思想があるのだ。これこそ、現今日本に最も必要な精神的要素である。
鎌倉時代の仏教の宗祖は素晴らしかった、自己研鑽は当然、命懸けの社会性を見習うがいい。寺に籠もりきりではないのだ。
現在は、末世そのものであろう、頽廃は著しい。僧侶たちは、何とも無いのか。
どうして、僧たちは街頭に裸足で進出し、乱れた青少年に、宗祖のように叫び、説法し、身を賭して戦わないのか、それでは衆生は救えない。それでは、なんら我々衆生の俗界の人間と変わらないではないか。お経を唱えるだけでは、救われない社会の現実に眼を向けるべきである。鎌倉の宗祖は命懸けで街頭に進出し衆生に説いたではないか。
僧侶たちは、神道の簡潔・素朴・質実さを見習うべきである。
http://www.ncn-t.net/kunistok/
<転載終わり>
<転載>
世の中の見方 投稿者:全雄 投稿日: 2月 5日(日)15時37分56秒
仏教家に告ぐとした一文が1月5日に書き込みされました。ひと月の間どのように応じるべきか考えていました。まだ明確に返答する方針が決まったわけでもないのですが、他の方からも賛意が寄せられたこともあり、以下のようにひとまずお答えしておきます。
お釈迦様は法句経の中で、批判ばかり受ける人もなければ、褒められるだけの人もないとおっしゃられています。お釈迦様は、情状酌量、悪いことをしでかしても何か同情すべき所があるという意味で言われているとは思えません。
何事かをなす、そのような状態になったのには、そこに至る様々な原因、そうなるべくしてなったという諸々の要因があるということではないかと思います。だから批難ばかり出来るものではないし、褒められることであったとしても、それにはその影でどれだけの他の者たちの支えがあったかということにも目を転じなければならないということでしょう。
今のお寺にまつわる事々の非難されるべき問題も多く、そのことに目をつむるべきだと言うつもりもありません。ものに対して超然としているべきとのご指摘もその通りだと思います。比較して神道家であるとか、祖師達の名前も挙がっていました。それはそれなりに素晴らしい人たちだと思います。しかし今の時代に生まれたとしたら、その方達が果たしてどれだけの働きが出来ましょうか。
贅を尽くした伽藍を求め、金襴の袈裟に執着し、沢山の布施を所望して、贅沢三昧の生活にうつつをぬかしている、それが今の僧侶達の姿である。そう皆さんは思っておられるのでしょうか。はたして、実際にそんな僧侶が日本の中に何人おりましょうか。
たとえ外観としてそのように見える場合であったとしても、それがすべて僧侶達の求めに応じて為されたものなのかどうかも考慮すべきでしょう。その多くがお寺の檀那の求め要望によるものなのではないかとも思えます。立派な伽藍、金襴の袈裟など何れも、覇権を争った過去の将軍家、領主、大名達の権勢欲の遺物ではないでしょうか。
しかしそこに私たち日本人は文化や芸術の才を競って作られた建物や調度類、様々な工芸品、書画などのものに対して最高の技術を注ぎ込み、伝統を育み継承してきたという別の側面もあるわけです。
そして、そうして造られたお寺や神社に詣ることで一般民衆も心の慰安を得てきているのです。もしも今の日本にお寺がなかったら、どれだけ殺風景で、寂しいものか少し考えたらお分かりになるでしょう。お寺があってそこに僧侶が居なければ、お寺は荒れ果ててしまうでしょう。鐘の音がして、読経する声が響き、香の匂いを嗅ぐという、そこに仏との縁を求めて多くの人々は生きてきているのです。
批難することは簡単なことです。ですが、世の中の成り立ちによって身動きできない状態にある中で、みんな何とか生きていると言った方がよいのかも知れません。それぞれに沢山の問題を抱え生きているのが私たち人間というものなのではないでしょうか。以上ご返答申し上げます。
とても真面目に様々な問題に対して独自の見解を発表されている徳永日本学研究所のさらなる発展を期待し念じたいと思います。ありがとうございました。
<転載終わり>
<転載>
仏教家に告ぐ 投稿者:徳永日本学研究所 代表 徳永圀 投稿日: 1月 5日(木)08時39分52秒
仏教家に告ぐ・物を超越せよ
仏教とは、単純明快に言えば、この現実の世界は仮の姿であとして、来世を説く。そして、この世は「色即是空」であることを衆生に教えている。。「色」即ち「この世の形あるもの、そして形無き意識から眼界」まで「空」だとしている。
さすれば、仏教は、自らそれを実行し実践しなくてはなるまい。
それには、僧侶自ら、物を超越する、物質世界を超越すると言う実践の模範を示すことではないか。
金襴緞子の僧衣も不要であらう、庶民には苦々しいばかりで不要である、墨染めでいいだろう、道元禅師は常にそうされた。立派な伽藍もお堂もいらないではないか、僧自身が、物に超然としなくてはなるまい。さすれば信徒は増大し、黙っていても「お布施」が増えるのではないか。お布施とは本来そのような性質のもので、唆かすものではない。まして近年は請求すらすると小言を聞いた。関西地区の友人によると、仏教にはついて行けないから神道にする人が増加しているという。神道は諸般に慎ましいからであろう。
自ら、この世的な物質世界に超然としていることこそ僧侶に必要であるのに、多くの寺院や僧は逆のことををしている。
ビジネス的仏教になつているのではないかと多くの方々から聞く。勿論、カルトの類いのものは問題外であり私は宗教とは思わない。
我々は俗界にいる人間だから許されるとしても、僧籍にあるものは、物質を越えた存在であると俗人に範を示してこそ、尊敬され自発的に喜捨もしたく思うのである。これが多くの人の思いでもあろう。
神道や神社や皇室を見るがいい、天皇陛下を初め、宮司や神職を見るがいい、「言挙げしない」神道の原理を守り、実に素朴に質素にしておられる。賽銭など所望はされない。神道では、人間が死んだら平等で戒名の格差もない、ただ自分の名前の後に「命」即ち「みこと」をつけるだけである。私なら「徳永圀典命」となるのである。平等そのものである。日本は縄文時代からこのように平等思想があるのだ。これこそ、現今日本に最も必要な精神的要素である。
鎌倉時代の仏教の宗祖は素晴らしかった、自己研鑽は当然、命懸けの社会性を見習うがいい。寺に籠もりきりではないのだ。
現在は、末世そのものであろう、頽廃は著しい。僧侶たちは、何とも無いのか。
どうして、僧たちは街頭に裸足で進出し、乱れた青少年に、宗祖のように叫び、説法し、身を賭して戦わないのか、それでは衆生は救えない。それでは、なんら我々衆生の俗界の人間と変わらないではないか。お経を唱えるだけでは、救われない社会の現実に眼を向けるべきである。鎌倉の宗祖は命懸けで街頭に進出し衆生に説いたではないか。
僧侶たちは、神道の簡潔・素朴・質実さを見習うべきである。
http://www.ncn-t.net/kunistok/
<転載終わり>
<転載>
世の中の見方 投稿者:全雄 投稿日: 2月 5日(日)15時37分56秒
仏教家に告ぐとした一文が1月5日に書き込みされました。ひと月の間どのように応じるべきか考えていました。まだ明確に返答する方針が決まったわけでもないのですが、他の方からも賛意が寄せられたこともあり、以下のようにひとまずお答えしておきます。
お釈迦様は法句経の中で、批判ばかり受ける人もなければ、褒められるだけの人もないとおっしゃられています。お釈迦様は、情状酌量、悪いことをしでかしても何か同情すべき所があるという意味で言われているとは思えません。
何事かをなす、そのような状態になったのには、そこに至る様々な原因、そうなるべくしてなったという諸々の要因があるということではないかと思います。だから批難ばかり出来るものではないし、褒められることであったとしても、それにはその影でどれだけの他の者たちの支えがあったかということにも目を転じなければならないということでしょう。
今のお寺にまつわる事々の非難されるべき問題も多く、そのことに目をつむるべきだと言うつもりもありません。ものに対して超然としているべきとのご指摘もその通りだと思います。比較して神道家であるとか、祖師達の名前も挙がっていました。それはそれなりに素晴らしい人たちだと思います。しかし今の時代に生まれたとしたら、その方達が果たしてどれだけの働きが出来ましょうか。
贅を尽くした伽藍を求め、金襴の袈裟に執着し、沢山の布施を所望して、贅沢三昧の生活にうつつをぬかしている、それが今の僧侶達の姿である。そう皆さんは思っておられるのでしょうか。はたして、実際にそんな僧侶が日本の中に何人おりましょうか。
たとえ外観としてそのように見える場合であったとしても、それがすべて僧侶達の求めに応じて為されたものなのかどうかも考慮すべきでしょう。その多くがお寺の檀那の求め要望によるものなのではないかとも思えます。立派な伽藍、金襴の袈裟など何れも、覇権を争った過去の将軍家、領主、大名達の権勢欲の遺物ではないでしょうか。
しかしそこに私たち日本人は文化や芸術の才を競って作られた建物や調度類、様々な工芸品、書画などのものに対して最高の技術を注ぎ込み、伝統を育み継承してきたという別の側面もあるわけです。
そして、そうして造られたお寺や神社に詣ることで一般民衆も心の慰安を得てきているのです。もしも今の日本にお寺がなかったら、どれだけ殺風景で、寂しいものか少し考えたらお分かりになるでしょう。お寺があってそこに僧侶が居なければ、お寺は荒れ果ててしまうでしょう。鐘の音がして、読経する声が響き、香の匂いを嗅ぐという、そこに仏との縁を求めて多くの人々は生きてきているのです。
批難することは簡単なことです。ですが、世の中の成り立ちによって身動きできない状態にある中で、みんな何とか生きていると言った方がよいのかも知れません。それぞれに沢山の問題を抱え生きているのが私たち人間というものなのではないでしょうか。以上ご返答申し上げます。
とても真面目に様々な問題に対して独自の見解を発表されている徳永日本学研究所のさらなる発展を期待し念じたいと思います。ありがとうございました。
<転載終わり>