住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

断食に学ぶ

2006年03月06日 15時08分16秒 | 様々な出来事について
先月、半ば頃、咳が出て喉が腫れ、風邪の兆候から喘息を引き起こし、数日一日中咳が止まらないほどのしんどい思いをした。これまでなら医者に行き薬をもらい栄養を補給して養生するところであったが、一昨年からのこの繰り返しに何かもどかしい思いがあった。

明日にはやはり医者に行かねばと思っていた晩、食膳を前になぜかこの食事も薬も摂らなければ良くなるのではないかという思いを抱いた。別にその食事の内容が悪いのではない。ただ断食することによって治るのでないかという漠然としたインスピレーションに過ぎなかった。

だが、実際次の朝には嘘のように喉が楽になっていた。その日も食べず、二日目の朝にはすっかり体も楽になって時折咳が出る程度まで回復した。熱っぽかった体も回復し喉の腫れも引いていた。

実は、かつて高野山で百日間の四度加行(しどけぎょう)中に、やはり最後の一週間を前に同じような症状に見舞われて、それでも以前から決めていた一週間の断食を行った。体力が持つかと心配されたものの、そこまでの段階でも朝昼の二食にしていたが、全く食べなくなってからの方が体が楽になり、喉の腫れや咳も収まり、結局難なく一週間を乗り切った。

その時、人間は食べなくては生きられないものの、この食事による食べ物の消化吸収に大変なエネルギーを消費してもいるのだということが分かった。断食中、横になって目を閉じていると周りで何が起こっているかということが知らず知らずのうちに分かり、人の足音にその人の顔が思い浮かぶということもあった。食べないでいると食べることに普段使われているエネルギーが精神面に向いて不思議なことがいろいろと起こるようだ。


勿論、そんなことを思い出してこの度断食したのではなかった。実は、昨年、ここ神辺の文化会館で、楽健法という足踏みマッサージ法の創始者で、またプロの役者として芝居をなさっている奈良東光寺のご住職山内宥厳先生の一人芝居「がらんどうはうたう」を拝見した。

その内容が私には正に聴衆の心の中にジリジリと迫り訴えかける説法そのものと思われた。公演後ご挨拶させてもらい、その後、ご自身も喘息を患われた経験から、食を細くするようになどといくつかのアドバイスを頂いていたのだった。

この度の経験は、病気というのは薬と栄養を摂って養生するものという思い込みや常識の逆を行うことではあったけれども、本来仏教とは世間の常識の逆を語るものであったということに改めて気づかされた。

私たちは誰もが健康で長生きをしたいのであって、その為に健康食品を食べたり、栄養のある食材を集めたり、大変な努力を払うわけだが、お釈迦様は、すべては無常だと言われる。みんな誰しも病気にもなるし、いずれ死が訪れるものだと。

また楽をして楽しく暮らしたいと思う私たちに向かって、人生は苦だと言う。楽しい思いをしている時間としんどい思い、辛い思い、退屈な思い、思い通りにならずに苦しんでいる時間を比較したら、やっぱり苦ばかりではないかと。

いい車に乗り、立派な家に暮らし、上等な服にアクセサリー、何もかにも欲しくなる私たちに向かって、本当は自分の物なんかないよと、みんないずれ失ってしまうのだし、自分と思っている自分自身だって思い通りにならないではないかと、だから執着しなさんなと言う。

勿論だからと言って簡単にお釈迦様のように悟れるものではない。しかし、困ったときは思い込みや常識だと思っていることと逆のことをしてみると意外とうまくいくこともあるのかもしれない。何でも鵜呑みにし、世間の物の見方や考えに流され、行いがちではあるけれども、すべての常識を疑ってかかる事も大切なことなのであろう。常識とは普通の人々の考えに過ぎないのだから。
コメント
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