第二回インド巡礼。前回同様カルカッタに降り立った私は、今回は迷うことなくボウ・バザールの裏手に位置するベンガル仏教会に飛び込んだ。このとき初めて、後に私の師匠となるダルマパル師と出会う。この時70歳くらいだったろうか。
とてもきさくに話をして下さり、ゲストハウスに案内してくれた。そして、「仏蹟巡礼ならサールナートに行け、そこに日本人の比丘が居るから」と地図を書き丁寧に場所まで教えてくれて、土産まで預かった。
数日後、予約した列車に乗るべくハウラー駅に夕方のラッシュ時にタクシーで向かう。そのあたりからどうも頭が熱かった。列車を待つ間にもロビーで物乞いが寄ってくる。終いにお腹に来てトイレに行くと、もういけなかった。高熱がでだした。予約したチケットを無駄にして、またタクシーでお寺に戻る。また同じ部屋に案内されて寝た。
その晩夢を見た。黄色い袈裟を纏ってインド人のお坊さんと暮らす自分がいた。次の朝には不思議と熱が下がり、数日後サールナートにたどり着く。サールナートのマアイア地区に後藤恵照さんという日本人比丘が開いたベンガル仏教会支部法輪精舎があった。
初めてお会いするのに、何の屈託もない。よく来ましたと茨城訛りの日本語で歓迎してくれた。既に在印14年、そのとき59歳ということだった。私が増谷文雄先生の本から、つまりパーリ仏教から出家に至ったというと大層喜ばれた。
そして、インドの仏教は、イスラム教徒が攻めてきて13世紀に無くなったと思われているけれども、そうではなくて、既にその前にマガダ地区から東に避難していた仏教徒たちがいて、彼らがインドと今のミャンマー国境地帯に住み着き、アラカンの仏教徒と関係する。
その後、彼らはベンガル湾に面する港町チッタゴンを本拠とする。けれどもその後イスラムがその地まで勢力を拡張してきて随分とお寺は破壊され、坊さんたちは袈裟も着れない時代となる。
しかし、その後、英国が植民地としてベンガルにやってきてから、その地元採用の軍隊に仏教徒たちが志願して社会的な地位を回復し、お寺を造り、坊さんの組織をアラカンの長老に来てもらって上座仏教として再生し、それからチッタゴンに協会を作った。その後カルカッタにも出来た教会がベンガル仏教会なのだと。そんな話を延々と聞かされた。
インドにはもう正統たる仏教はないのだと思っていた私には、青天の霹靂。何か身体に力が漲るようなうれしい思いにとらわれた。その日から、細々寄付を募って暮らす後藤師と一緒にサールナートの遺跡公園に出かけていき、日本人観光客らに話しかけ、寄付を募り、宿泊希望者はお寺に招きお世話をした。
この間に様々な団体がやってきた。まだバブル期だったせいか、日本のお寺の団体や旅行社の団体なども多く、中には、奈良の大安寺の貫首さんが連れてこられた団体もあった。その頃私は、日本から持参していった日本式の衣を脱いで、リシケシのシバナンダアシュラムの修行者のように白い布を二枚買い込み、一枚を腰に巻き、一枚を肩からショールのように纏って過ごした。
お寺では、日曜日には日曜学校が開かれ、朝から近在の子供たちが詰めかけ、英語を教え、終わるとビスケットを配布した。これらにはマウリア王朝の末裔モウリア族の少年たちが数人手伝いに来ていた。
サールナートに後藤師と出かけていくと、小さい子供たちが沢山集まってきて、後藤師に合掌して近づき、右手を後藤師の足に付けその手を自分の額に持って行き合掌する。そんな姿を見ていたら、無性にこんなありがたいお坊さんが今の時代にもいたのだと感激し涙が溢れてきた。
もっとこの方のお役に立てることをしたい。東京で、むざむざ無為に日を過ごしていたことが悔やまれてならなかった。こう思ったら早かった。私は、2、3日後には、もう一度インド僧として再出家して、このお寺に住み込み、これから作ろうと計画されていた無料中学校のために出来ることをさせていただこうと決めていた。
それにはこの地域の言葉であるヒンディ語が分からなくてはいけない。少し仏教の言葉パーリ語も勉強しなくてはいけないということになり、一度日本に戻り、学校で文法から学ぶのがよいということで、他の仏蹟に行くという、特別あてもなかった私の当初の計画はすべてキャンセルして、そのままカルカッタに戻り、ダルマパーラ・バンテーにその旨を述べ、賛同していただいた。
東京に戻った私は、拓殖大学語学研究所にヒンディ語を学び、夏には、後藤師とともに嘗てパーリ語研修会を開かれていた愛知県安城の慈光院の戸田先生を訪ね、一週間泊まりがけのパーリ語研修会に参加した。
新しい自分の方向が決定されると、自然と様々な関係の知人友人の輪がワッと広がり、途端に大勢の方々と知り合うこととなった。その一年間は、私にとって、ヒンディ語という新しいアジアの言語を学びつつ、南方仏教の知識をさらに深めるべく勉強三昧の年であった。
そんな中で、後藤師から教えられ連絡を取った上座仏教修道会の竹田代表の紹介で、スリランカから来られていたスマナサーラ長老を二、三の友人僧侶とともに方南町のマンションに訪ねる機会も得た。そして、それから数度にわたって、様々お話をうかがえたことは誠に貴重なことであった。
(↓よろしければ、二カ所クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)
日記@BlogRanking
とてもきさくに話をして下さり、ゲストハウスに案内してくれた。そして、「仏蹟巡礼ならサールナートに行け、そこに日本人の比丘が居るから」と地図を書き丁寧に場所まで教えてくれて、土産まで預かった。
数日後、予約した列車に乗るべくハウラー駅に夕方のラッシュ時にタクシーで向かう。そのあたりからどうも頭が熱かった。列車を待つ間にもロビーで物乞いが寄ってくる。終いにお腹に来てトイレに行くと、もういけなかった。高熱がでだした。予約したチケットを無駄にして、またタクシーでお寺に戻る。また同じ部屋に案内されて寝た。
その晩夢を見た。黄色い袈裟を纏ってインド人のお坊さんと暮らす自分がいた。次の朝には不思議と熱が下がり、数日後サールナートにたどり着く。サールナートのマアイア地区に後藤恵照さんという日本人比丘が開いたベンガル仏教会支部法輪精舎があった。
初めてお会いするのに、何の屈託もない。よく来ましたと茨城訛りの日本語で歓迎してくれた。既に在印14年、そのとき59歳ということだった。私が増谷文雄先生の本から、つまりパーリ仏教から出家に至ったというと大層喜ばれた。
そして、インドの仏教は、イスラム教徒が攻めてきて13世紀に無くなったと思われているけれども、そうではなくて、既にその前にマガダ地区から東に避難していた仏教徒たちがいて、彼らがインドと今のミャンマー国境地帯に住み着き、アラカンの仏教徒と関係する。
その後、彼らはベンガル湾に面する港町チッタゴンを本拠とする。けれどもその後イスラムがその地まで勢力を拡張してきて随分とお寺は破壊され、坊さんたちは袈裟も着れない時代となる。
しかし、その後、英国が植民地としてベンガルにやってきてから、その地元採用の軍隊に仏教徒たちが志願して社会的な地位を回復し、お寺を造り、坊さんの組織をアラカンの長老に来てもらって上座仏教として再生し、それからチッタゴンに協会を作った。その後カルカッタにも出来た教会がベンガル仏教会なのだと。そんな話を延々と聞かされた。
インドにはもう正統たる仏教はないのだと思っていた私には、青天の霹靂。何か身体に力が漲るようなうれしい思いにとらわれた。その日から、細々寄付を募って暮らす後藤師と一緒にサールナートの遺跡公園に出かけていき、日本人観光客らに話しかけ、寄付を募り、宿泊希望者はお寺に招きお世話をした。
この間に様々な団体がやってきた。まだバブル期だったせいか、日本のお寺の団体や旅行社の団体なども多く、中には、奈良の大安寺の貫首さんが連れてこられた団体もあった。その頃私は、日本から持参していった日本式の衣を脱いで、リシケシのシバナンダアシュラムの修行者のように白い布を二枚買い込み、一枚を腰に巻き、一枚を肩からショールのように纏って過ごした。
お寺では、日曜日には日曜学校が開かれ、朝から近在の子供たちが詰めかけ、英語を教え、終わるとビスケットを配布した。これらにはマウリア王朝の末裔モウリア族の少年たちが数人手伝いに来ていた。
サールナートに後藤師と出かけていくと、小さい子供たちが沢山集まってきて、後藤師に合掌して近づき、右手を後藤師の足に付けその手を自分の額に持って行き合掌する。そんな姿を見ていたら、無性にこんなありがたいお坊さんが今の時代にもいたのだと感激し涙が溢れてきた。
もっとこの方のお役に立てることをしたい。東京で、むざむざ無為に日を過ごしていたことが悔やまれてならなかった。こう思ったら早かった。私は、2、3日後には、もう一度インド僧として再出家して、このお寺に住み込み、これから作ろうと計画されていた無料中学校のために出来ることをさせていただこうと決めていた。
それにはこの地域の言葉であるヒンディ語が分からなくてはいけない。少し仏教の言葉パーリ語も勉強しなくてはいけないということになり、一度日本に戻り、学校で文法から学ぶのがよいということで、他の仏蹟に行くという、特別あてもなかった私の当初の計画はすべてキャンセルして、そのままカルカッタに戻り、ダルマパーラ・バンテーにその旨を述べ、賛同していただいた。
東京に戻った私は、拓殖大学語学研究所にヒンディ語を学び、夏には、後藤師とともに嘗てパーリ語研修会を開かれていた愛知県安城の慈光院の戸田先生を訪ね、一週間泊まりがけのパーリ語研修会に参加した。
新しい自分の方向が決定されると、自然と様々な関係の知人友人の輪がワッと広がり、途端に大勢の方々と知り合うこととなった。その一年間は、私にとって、ヒンディ語という新しいアジアの言語を学びつつ、南方仏教の知識をさらに深めるべく勉強三昧の年であった。
そんな中で、後藤師から教えられ連絡を取った上座仏教修道会の竹田代表の紹介で、スリランカから来られていたスマナサーラ長老を二、三の友人僧侶とともに方南町のマンションに訪ねる機会も得た。そして、それから数度にわたって、様々お話をうかがえたことは誠に貴重なことであった。
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