前回ダラムサーラに行ったことを回想して、すこしチベット人の仏教について語った。道行く人が数珠を持ち、真言をくりながら歩く姿をよく目にした。僧服を着たお坊さんたちも何か小さな声で唱えながら歩く。とても信仰が日常に根付いていることを感じた。
しかし、彼らチベット人はとても頑固で商売が上手であることも後によくインド人から聞かされた。元々チベットの人たちが中国を追われてインドに来たとき、インド側は別の土地を用意していたのだという。それなのに、地形や季候がラサと似ているとのことでダラムサーラに居座ってしまったのだと聞いた。
後に住み込んだサールナートのお寺の隣はチベタン・インスティチュートというチベットの大学や研究所があり、僧服を着た学生たちも沢山学んでいた。彼らの学校は他のインドの学校に比べても立派でエアコンが完備されていて、発電機もあった。
多くのインド人が停電で困っているとき、私の住んでいたお寺もご多分に漏れず停電してロウソク生活をしていたのだが。インドからの助成でチベット人たちは明るいところで生活している不思議な光景を目にすることにもなった。
ベナレスの商店街などには沢山チベット商人が店を並べ、道行く外国人にチベットの文字の入ったTシャツやら小物、仏具を売っていた。チベット人は商売上手なのだとも聞いた。しかしダライ・ラマ法皇の講演や伝授会などには数千人規模で人が集まる。
宿泊施設や食堂などはそれによってかなり経済的な恩恵も受けている。インドにとって、チベット受け入れは、インドという国の懐の大きさ、寛大さ、人権への配慮など国際的な評価を高める意味からも意味があることだったのであろう。
ところで、カルカッタに着いた私は、後にそこで再出家してインドの坊さんになることなど予想すらせずに、その時はのんきに町に食事に出て買い物し、帰国に備えた。ただ、仏教がインドにも行われているのだということを知り、毎朝どこからともなく聞こえてくる読経に耳を澄ませていたのだった。
その時にはまだインドの仏教がどのようなもので、どれだけ意味のあるものかも知ろうともせず、リシケシで体験した現代ヒンドゥー教の様々な修行が確かに日本の真言宗の真言念誦と関係し、また阿字観という真言宗の瞑想と同じ構造のあるオームの瞑想法を教えられ修したことが強く印象に残った。リシケシには真言宗の密教の源流を見る思いがしたのだった。
カルカッタから、バンコクを経由し、バンコクからアユタヤに出て山田長政の日本町を拝見し、また前王朝の頃華やかであったろう古寺を拝観した。バンコクに戻るとそれだけ日本に近づいたという安堵と人間が穏やかでゆったりしていることに気づいた。
それだけインドという国はみんなが必死になって生きている。人口も8億を超え、気候も厳しくみんな生きることに懸命なのだ。勢い観光に来る外国人にはしんどい国なのだということをタイに来て精神的に楽になった分強く感じられるのだった。
日本に戻った私は、リシケシで出会った信玄師を訪ね、四国遍路へ出たり、禅寺に坐禅を重ねるようになる。そしてその後お寺の役僧を辞し、東京で、とげ抜き地蔵や柴又の帝釈天、浅草寺の門前や、銀座数寄屋橋などで托鉢をして生活をした。
そんな不安定な生活を続ける中で、果たして坊さんとは何か。僧侶としてどう生きるべきかなどと考えはじめたとき、再度インドへ行く機会を得た。友人の坊さんがインドに一緒に行かないかと誘われ、その気になり、その後その人が行けなくなって、また一人旅立つことになる。

日記@BlogRanking
しかし、彼らチベット人はとても頑固で商売が上手であることも後によくインド人から聞かされた。元々チベットの人たちが中国を追われてインドに来たとき、インド側は別の土地を用意していたのだという。それなのに、地形や季候がラサと似ているとのことでダラムサーラに居座ってしまったのだと聞いた。
後に住み込んだサールナートのお寺の隣はチベタン・インスティチュートというチベットの大学や研究所があり、僧服を着た学生たちも沢山学んでいた。彼らの学校は他のインドの学校に比べても立派でエアコンが完備されていて、発電機もあった。
多くのインド人が停電で困っているとき、私の住んでいたお寺もご多分に漏れず停電してロウソク生活をしていたのだが。インドからの助成でチベット人たちは明るいところで生活している不思議な光景を目にすることにもなった。
ベナレスの商店街などには沢山チベット商人が店を並べ、道行く外国人にチベットの文字の入ったTシャツやら小物、仏具を売っていた。チベット人は商売上手なのだとも聞いた。しかしダライ・ラマ法皇の講演や伝授会などには数千人規模で人が集まる。
宿泊施設や食堂などはそれによってかなり経済的な恩恵も受けている。インドにとって、チベット受け入れは、インドという国の懐の大きさ、寛大さ、人権への配慮など国際的な評価を高める意味からも意味があることだったのであろう。
ところで、カルカッタに着いた私は、後にそこで再出家してインドの坊さんになることなど予想すらせずに、その時はのんきに町に食事に出て買い物し、帰国に備えた。ただ、仏教がインドにも行われているのだということを知り、毎朝どこからともなく聞こえてくる読経に耳を澄ませていたのだった。
その時にはまだインドの仏教がどのようなもので、どれだけ意味のあるものかも知ろうともせず、リシケシで体験した現代ヒンドゥー教の様々な修行が確かに日本の真言宗の真言念誦と関係し、また阿字観という真言宗の瞑想と同じ構造のあるオームの瞑想法を教えられ修したことが強く印象に残った。リシケシには真言宗の密教の源流を見る思いがしたのだった。
カルカッタから、バンコクを経由し、バンコクからアユタヤに出て山田長政の日本町を拝見し、また前王朝の頃華やかであったろう古寺を拝観した。バンコクに戻るとそれだけ日本に近づいたという安堵と人間が穏やかでゆったりしていることに気づいた。
それだけインドという国はみんなが必死になって生きている。人口も8億を超え、気候も厳しくみんな生きることに懸命なのだ。勢い観光に来る外国人にはしんどい国なのだということをタイに来て精神的に楽になった分強く感じられるのだった。
日本に戻った私は、リシケシで出会った信玄師を訪ね、四国遍路へ出たり、禅寺に坐禅を重ねるようになる。そしてその後お寺の役僧を辞し、東京で、とげ抜き地蔵や柴又の帝釈天、浅草寺の門前や、銀座数寄屋橋などで托鉢をして生活をした。
そんな不安定な生活を続ける中で、果たして坊さんとは何か。僧侶としてどう生きるべきかなどと考えはじめたとき、再度インドへ行く機会を得た。友人の坊さんがインドに一緒に行かないかと誘われ、その気になり、その後その人が行けなくなって、また一人旅立つことになる。

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