住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

[中外日報掲載]釋雲照② 正法律復興

2007年02月28日 08時34分11秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
 中外日報2月27日付『近代の肖像』危機を拓く第104回

釋雲照② 正法律復興

釋雲照律師は、生涯木綿の衣と袈裟を着し、非時食戒を守り午後は食事を摂らなかった。その生活姿勢の厳しさから滲み出る、崇高なる人格が人々を感服させ、いかなる人と言えども会見に際しては自己を三拝させたと言われる。

丹波敬三薬学博士は「言わずして人を感服せしめ、菩提心を起こさしむる御方である。決して律師は口の人でない、筆の人でない、研究の御方ではない、全身これ法門、五尺の身体そのままが四六時に活説法していられる」と雲照を評している。

雲照自身が戒律の尊いことを知るのは、十六歳で『沙弥十戒経』を読んだときだった。「沙弥の戒は尽形寿(一生涯)人物を残殺し傷害することを得ざれ」とはじまるこの経には、「沙弥の戒は尽形寿婦(嫁)を取り、継嗣を畜養することを得ざれ。女色を防ぎ遠ざけ、六情を禁閉し、美色を見ること莫れ」ともある。

本来、戒を持するがゆえに僧侶、仏弟子たり得る。正法は戒律を堅持する僧侶によって久住せしめられる。このように解した雲照は、当時の僧界の破戒堕落甚だしい状況を嘆いて、仏祖の示したこの経の如くに戒律を守り正法を興起して仏教界に生気を与えようと志したという。

そして、雲照は十九歳で県下一寺院に住職し、釈尊涅槃会の前日夕刻、本堂にて単座し本尊観音菩薩に祈願していると強い霊感にうたれた。そのとき、正法興隆のために今後一切女人と同座せず、飲酒せずと誓い、正法律そのままに生活することを誓ったという。

そして、二十九歳の時、常に敬仰し心の師と仰いでいた江戸時代の学徳高き清僧・慈雲尊者の墓に詣で、尊者五世の法孫で当時持戒第一と称されていた東大阪長栄寺端堂を戒師に沙弥戒、十善戒、雲伝神道などを受け、三十四歳の時には河内高貴寺奥の院にて具足戒(二五〇戒)を受けた。

このとき雲照は、慈雲尊者の教えを継承する者と自覚して、正法律の復興と正法興隆の念を益々厚くしたと言われる。

慈雲尊者は、僧坊の組織、僧徒の行儀、袈裟の縫い方やかけ方にいたるまで悉くを釈尊が説かれた如くに、千年経っても万年経っても行うべきであるとして、正法律を創唱した。

律藏に従い、大乗小乗の区別を付けることなく、自派他派、宗派の別を言うことなく、超宗派の立場から、日常の行為実践に基づき仏教の統一を起こそうと試みた。

そして、十善を人の人たる道と説いた慈雲尊者の平易な教えは、明治時代、雲照をはじめ、浄土宗の福田行誡、戒誉、曹洞宗の大内青巒、山岡鉄舟らが通仏教の立場から鼓吹している。

中でも、慈雲尊者の戒法を相承する雲照は、明治の僧界が混迷する中で、戒律の根本道場として如法の僧侶育成のために戒律学校を設立。目白僧園をはじめ、那須僧園(雲照寺)、連島僧園(備中寶島寺)の三僧園を開園した。

ところで、明治五年、肉食妻帯勝手たるべしとの勅令が出ると、高野山では女人禁制を解く旨が宣せられた。

政府勅使を迎えた山内僧侶が、みなこれを了承する中、雲照は一人憤然と立って、「女人禁制は歴代天皇の御詔勅、これを撤廃するはその叡旨に背くものなり、愚衲は歴代天皇の勅使として閣下の罪をたださん」と抗弁したと伝えられている。

釈尊は、国王に対しても師として教えを垂れた。仏祖の訓戒をそのままに生きようとした雲照は、仏教本然のあるべき姿を近代の世で体現した人であった。

雲照の位牌には「正法律復興雲照大和上不生位」と記された。

(↓よろしければ、一日一回クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)


にほんブログ村 哲学ブログ 仏教へ

日記@BlogRanking
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする