ここ備後國分寺に来て、はやいもので、今年で8年になる。そして、こちらに来て初めてするようになったことに草取りがある。境内に生えてくる雑草。築地塀際の夏草。参道脇の背の高い草。さまざま取り方を変えている。来た頃には日に2時間は草取りをしていた。毎日。それしかすることがなかったのである。だが、今では週に2時間も草取りをしているだろうか、疑問である。
ところで、雑草はないがいいに決まっていると誰でも思う。が、無ければ無いで困るものでもある。それこそ草取りという神聖な仕事が無くなってしまう。それに、何よりも草が生えないということは、不毛の土地ということにもなるであろう。つまり作物も実らないということになる。
昔ある坊さんに聞いた話だが、砂漠に作物を実らせる仕事をしている人がいて、砂漠に何か作ろうとしたら、まず雑草のような植物を植えるのだそうだ。そうしてだんだんと大きなものを植えていき、それから草ものの作物、実の成るもの、根菜類、果物となるのだそうだ。だから、雑草が生えているということは、まず生物にとって命がある証拠になるということであろうか。
ところで話変わるが、仏教では、いやそうではなくて、大乗仏教、それも中国で主張されるようになった思想に「草木成仏」がある。草木も仏だというのである。全世界は衆生の心が造りだしたものだから衆生が成仏するなら、その対象である草木も成仏するのだとか、仏の絶対的な立場から見ると全世界は平等に真理そのものだから、衆生も草木も区別なく成仏するなどと言われる。
ここで、だから雑草も仏なのだから尊いのだ、などと言いたいのではない。その議論が日本に来て更に発展して、平安中期あたりから近世にかけて、盛んにこの私たちが目にする現象世界そのものが悟りの世界なのだとすべてを肯定する思想に変形していってしまうのだ。そうして「煩悩即菩提」などという言葉も一人歩きしていく。
勿論それは、悟りを得た者から発せられた言葉としてもともとはあったようではあるが、それが、日本仏教が思想として展開していく中で、戒定慧の実践のもとに煩悩を滅してはじめて菩提に至る道を仏道としていたものを、安易に、凡夫の身のままでこの世を肯定し、さらにすべての衆生に仏性ありとしてこの世は悟りの世界そのものであると飛躍していく。
だから、煩悩即菩提。この身の生身におこす煩悩がそのまま悟りに通じているとされていくのである。何故にそのようなことが言えるのか、現代に生きる私たちはそれを、どのような教えとして受け取ったらよいのか。実は、この言葉は私にとって、長い間疑問の一つであった。
ここで、冒頭に述べた雑草に登場していただこう。先日、本堂脇の雑草を取っていて、はたと気がついた。煩悩とは雑草なのではないかと。だから煩悩が無くてはいけない。雑草が無くては作物が実らないように煩悩が無くては悟りがない。煩悩がある心だからこそ、感情もあり、物事を考え、善いこと悪いことも考えられる。
煩悩をかかえているのは人間だけだろうか。煩悩をかかえているからこそ、人間なのであり、善い行い、功徳ある行いもできる。だからこそ悟りを目指して自らを律していける。六道に輪廻する衆生の中で唯一、自らの行いによって悟りを得て解脱できるのは人間だけである。
「煩悩即菩提」とは、つまり、自らの行いによって解脱できる人間としての位置を表現したものとも言えようか。しかし私たちはその雑草である煩悩に取り巻かれ、煩悩に夢中になっているのではないか。
それは、雑草ばかりを大切にして作物が実っていない状態とも言える。普通雑草には誰もが見向きもせず、きれいな花を咲かせたり、作物を大きく実らせることに熱心になる。そのように、私たちの心の中の雑草をどう取り去り、どのように代わりに作物を実らせたらいいのか。
お釈迦様は、耕田バラモン・バーラドヴァージャに次のように教えられた(スッタニパータ1.4)という。「私にとっては、信仰が種であり、苦行が雨であり、智慧がくびきと鋤とである。恥じることが鋤棒であり、心が縛る縄であり、気をつけていることが鋤先と突棒である。身をつつしみ、言葉つつしみ、食べ物を節して過食しない。真実をまもることを草刈りとしている。
柔和が牛のくびきを離すことである。努力が牛であり、安穏の境地に運んでくれる。退くことなく、そこに至れば憂えることがない。わが耕作はこのようになされ、甘露の実りをもたらす。この耕作を行ったならば、あらゆる苦悩から解き放たれる(ブッダのことば・岩波文庫中村元訳より)」とこのようにお釈迦さまは自らの耕作について語られている。
無為徒食の出家僧という批難に対して、出家者としての耕作とはこのようなことを言うのであると表明されたものだ。こうしてなされた耕作の末に得られるとした「安穏の境地」とは、ニルヴァーナという涅槃・悟りと同義であり、「甘露」とは、不死という意味もあり、それは輪廻からの解脱を意味する。
私たちにとって、雑草である煩悩に心奪われることなく、信仰や修行しようとする心を持ち、自らの行いや思いに心とどめ、慚愧の念をもって身をつつしみ言葉つつしみ、柔和な心をもって間違った生き方をしない努力によって、人生の作物や果実を手に入れられるということになろうか。
それが、唯一煩悩を持つが故に人間であり、人間であるからこそ解脱できる、つまり菩提を遂げられるということを表現した「煩悩即菩提」の意味するところではないだろうか。だから、「煩悩即菩提」は、煩悩が菩提だというのではなく、つまりそのままでいいということではなく、雑草としての煩悩に気づき、やはり取るべきは取って、そこに作物をいかに実らせるか、煩悩をそのまま菩提に転じていくことが大切なのだということを教えているのであろう。
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日記@BlogRanking
ところで、雑草はないがいいに決まっていると誰でも思う。が、無ければ無いで困るものでもある。それこそ草取りという神聖な仕事が無くなってしまう。それに、何よりも草が生えないということは、不毛の土地ということにもなるであろう。つまり作物も実らないということになる。
昔ある坊さんに聞いた話だが、砂漠に作物を実らせる仕事をしている人がいて、砂漠に何か作ろうとしたら、まず雑草のような植物を植えるのだそうだ。そうしてだんだんと大きなものを植えていき、それから草ものの作物、実の成るもの、根菜類、果物となるのだそうだ。だから、雑草が生えているということは、まず生物にとって命がある証拠になるということであろうか。
ところで話変わるが、仏教では、いやそうではなくて、大乗仏教、それも中国で主張されるようになった思想に「草木成仏」がある。草木も仏だというのである。全世界は衆生の心が造りだしたものだから衆生が成仏するなら、その対象である草木も成仏するのだとか、仏の絶対的な立場から見ると全世界は平等に真理そのものだから、衆生も草木も区別なく成仏するなどと言われる。
ここで、だから雑草も仏なのだから尊いのだ、などと言いたいのではない。その議論が日本に来て更に発展して、平安中期あたりから近世にかけて、盛んにこの私たちが目にする現象世界そのものが悟りの世界なのだとすべてを肯定する思想に変形していってしまうのだ。そうして「煩悩即菩提」などという言葉も一人歩きしていく。
勿論それは、悟りを得た者から発せられた言葉としてもともとはあったようではあるが、それが、日本仏教が思想として展開していく中で、戒定慧の実践のもとに煩悩を滅してはじめて菩提に至る道を仏道としていたものを、安易に、凡夫の身のままでこの世を肯定し、さらにすべての衆生に仏性ありとしてこの世は悟りの世界そのものであると飛躍していく。
だから、煩悩即菩提。この身の生身におこす煩悩がそのまま悟りに通じているとされていくのである。何故にそのようなことが言えるのか、現代に生きる私たちはそれを、どのような教えとして受け取ったらよいのか。実は、この言葉は私にとって、長い間疑問の一つであった。
ここで、冒頭に述べた雑草に登場していただこう。先日、本堂脇の雑草を取っていて、はたと気がついた。煩悩とは雑草なのではないかと。だから煩悩が無くてはいけない。雑草が無くては作物が実らないように煩悩が無くては悟りがない。煩悩がある心だからこそ、感情もあり、物事を考え、善いこと悪いことも考えられる。
煩悩をかかえているのは人間だけだろうか。煩悩をかかえているからこそ、人間なのであり、善い行い、功徳ある行いもできる。だからこそ悟りを目指して自らを律していける。六道に輪廻する衆生の中で唯一、自らの行いによって悟りを得て解脱できるのは人間だけである。
「煩悩即菩提」とは、つまり、自らの行いによって解脱できる人間としての位置を表現したものとも言えようか。しかし私たちはその雑草である煩悩に取り巻かれ、煩悩に夢中になっているのではないか。
それは、雑草ばかりを大切にして作物が実っていない状態とも言える。普通雑草には誰もが見向きもせず、きれいな花を咲かせたり、作物を大きく実らせることに熱心になる。そのように、私たちの心の中の雑草をどう取り去り、どのように代わりに作物を実らせたらいいのか。
お釈迦様は、耕田バラモン・バーラドヴァージャに次のように教えられた(スッタニパータ1.4)という。「私にとっては、信仰が種であり、苦行が雨であり、智慧がくびきと鋤とである。恥じることが鋤棒であり、心が縛る縄であり、気をつけていることが鋤先と突棒である。身をつつしみ、言葉つつしみ、食べ物を節して過食しない。真実をまもることを草刈りとしている。
柔和が牛のくびきを離すことである。努力が牛であり、安穏の境地に運んでくれる。退くことなく、そこに至れば憂えることがない。わが耕作はこのようになされ、甘露の実りをもたらす。この耕作を行ったならば、あらゆる苦悩から解き放たれる(ブッダのことば・岩波文庫中村元訳より)」とこのようにお釈迦さまは自らの耕作について語られている。
無為徒食の出家僧という批難に対して、出家者としての耕作とはこのようなことを言うのであると表明されたものだ。こうしてなされた耕作の末に得られるとした「安穏の境地」とは、ニルヴァーナという涅槃・悟りと同義であり、「甘露」とは、不死という意味もあり、それは輪廻からの解脱を意味する。
私たちにとって、雑草である煩悩に心奪われることなく、信仰や修行しようとする心を持ち、自らの行いや思いに心とどめ、慚愧の念をもって身をつつしみ言葉つつしみ、柔和な心をもって間違った生き方をしない努力によって、人生の作物や果実を手に入れられるということになろうか。
それが、唯一煩悩を持つが故に人間であり、人間であるからこそ解脱できる、つまり菩提を遂げられるということを表現した「煩悩即菩提」の意味するところではないだろうか。だから、「煩悩即菩提」は、煩悩が菩提だというのではなく、つまりそのままでいいということではなく、雑草としての煩悩に気づき、やはり取るべきは取って、そこに作物をいかに実らせるか、煩悩をそのまま菩提に転じていくことが大切なのだということを教えているのであろう。
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