8月1日、毎年のことではあるが、朝5時半にお寺を出て、京阪神地区に盆参りに出た。そして、福山から乗ったこだま号で、心温まる光景に出会った。何のことはない。ただ、乗る新幹線を間違えた人と行き先違いの同じ号車の同じ座席に座った人とのやりとりである。
岡山で人の入れ替えがあり、私の斜め前に紺のスーツを着たやや長髪の50代のサラリーマンが座った。IT企業のやり手の仕事士然とした感じ。少し前に世間を賑わしたグッドウィルの折口会長に似た雰囲気の人だった。
そして少しして、その人よりも少し年長のグレーのジャケットを着た中小企業の役員風の方が、そのサラリーマン氏に向かって、切符を片手に「席を間違えてないですか」と問われた。
その一言で、ことを了解したそのサラリーマン氏は「東京行きはこの後ですよ、すぐに降りた方がいい、ドアが閉まりますよ」と言われた。「あぁ、すいません」そそくさと出口に向かい役員氏が列車を降りるとドアが閉まった。私もそのやりとりを見ていて、ああ、よかったな、と思った。
こだま号がゆるゆると走り出すと、役員氏も、降りたところで振り返り、すぐに降りた方がいいと言ってくれたサラリーマン氏に向かって苦笑いして軽く会釈した。そして、サラリーマン氏も笑って軽く頭を下げた。その微笑ましい光景を見ていた私も幸せな気分に包まれた。
たまたま指定した同じ番号の座席にサラリーマン氏が座っていたから成立したやりとりであった。指定した座席が空いていて座ってしまっていたら、役員氏は間違えた列車に乗ったまま、途中で間違いに気づき乗り換えたにしても予定した時刻より遅れて目的地に向かうことになったであろう。
サラリーマン氏がもしも、つっけんどんに、「自由席のはずだがな」とでも言っていたら、やりとりが長引いてすぐに降車できず、こだま号は発車してしまっていたであろう。すぐに機転を利かして降りた方がいいとアドバイスしてもらえなかったら、もたもた切符を見たりしながら、乗り過ごすことになったであろう。
そして、何より、無事降車できて列車が走り出したときに、窓ガラス越しに二人がにこやかに会釈し合ったことが、私の心をも暖かく幸せな気分にしてくれた。こんなことはどこにでも、いつも転がっている程度の話なのかもしれない。
しかしこのときのサラリーマン氏の行動は、まさに自然になされた慈悲の実践と言えるものであり、それを素直に役員氏が受け入れることで成立した。だからこそ端で見ていた私の心をも潤してくれることになった。慈悲の心はその周りの者をも心安らかに優しい心にさせてくれる。
この二人が、もしも自分さえよければいい、周りのことなんか関わっていられるかといったものの考え方をする人たちであったら、こうはならなかったであろう。サラリーマン氏が、相手の立場、置かれた状況をおもんぱかり、適切な対応ができる人であり、役員氏も、素直に人の言うことを受け入れ、ことの状況を判断できる人であったから成立したことだ。
しかし、今の世の中、この逆のことばかりが目につくのではないか。相手の立場を考える余裕もなく、そんなことをしていたら損をする、逆に自己主張を声高にせねば損をするという時代ではないか。
他の利益を確保するよりも自己保身に走る輩ばかりがのさばる時代である。そんな時代だからこそ、その光景が誠に光り輝いて、今も二人が笑い会釈された微笑ましい光景が私の目に焼き付いているのかもしれない。
今年の阪神地区の盆参りも、この朝の心温まる二人のやりとりを目撃することができたお陰で、一日誠に心地良く、順調にお参りを済ませることができた。大阪の街も、例年より活気がみなぎり、人々の顔も明るく感じられた。体の疲れに反して、心は意気軒昂に満ち足りた高揚のままに帰還できた。
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岡山で人の入れ替えがあり、私の斜め前に紺のスーツを着たやや長髪の50代のサラリーマンが座った。IT企業のやり手の仕事士然とした感じ。少し前に世間を賑わしたグッドウィルの折口会長に似た雰囲気の人だった。
そして少しして、その人よりも少し年長のグレーのジャケットを着た中小企業の役員風の方が、そのサラリーマン氏に向かって、切符を片手に「席を間違えてないですか」と問われた。
その一言で、ことを了解したそのサラリーマン氏は「東京行きはこの後ですよ、すぐに降りた方がいい、ドアが閉まりますよ」と言われた。「あぁ、すいません」そそくさと出口に向かい役員氏が列車を降りるとドアが閉まった。私もそのやりとりを見ていて、ああ、よかったな、と思った。
こだま号がゆるゆると走り出すと、役員氏も、降りたところで振り返り、すぐに降りた方がいいと言ってくれたサラリーマン氏に向かって苦笑いして軽く会釈した。そして、サラリーマン氏も笑って軽く頭を下げた。その微笑ましい光景を見ていた私も幸せな気分に包まれた。
たまたま指定した同じ番号の座席にサラリーマン氏が座っていたから成立したやりとりであった。指定した座席が空いていて座ってしまっていたら、役員氏は間違えた列車に乗ったまま、途中で間違いに気づき乗り換えたにしても予定した時刻より遅れて目的地に向かうことになったであろう。
サラリーマン氏がもしも、つっけんどんに、「自由席のはずだがな」とでも言っていたら、やりとりが長引いてすぐに降車できず、こだま号は発車してしまっていたであろう。すぐに機転を利かして降りた方がいいとアドバイスしてもらえなかったら、もたもた切符を見たりしながら、乗り過ごすことになったであろう。
そして、何より、無事降車できて列車が走り出したときに、窓ガラス越しに二人がにこやかに会釈し合ったことが、私の心をも暖かく幸せな気分にしてくれた。こんなことはどこにでも、いつも転がっている程度の話なのかもしれない。
しかしこのときのサラリーマン氏の行動は、まさに自然になされた慈悲の実践と言えるものであり、それを素直に役員氏が受け入れることで成立した。だからこそ端で見ていた私の心をも潤してくれることになった。慈悲の心はその周りの者をも心安らかに優しい心にさせてくれる。
この二人が、もしも自分さえよければいい、周りのことなんか関わっていられるかといったものの考え方をする人たちであったら、こうはならなかったであろう。サラリーマン氏が、相手の立場、置かれた状況をおもんぱかり、適切な対応ができる人であり、役員氏も、素直に人の言うことを受け入れ、ことの状況を判断できる人であったから成立したことだ。
しかし、今の世の中、この逆のことばかりが目につくのではないか。相手の立場を考える余裕もなく、そんなことをしていたら損をする、逆に自己主張を声高にせねば損をするという時代ではないか。
他の利益を確保するよりも自己保身に走る輩ばかりがのさばる時代である。そんな時代だからこそ、その光景が誠に光り輝いて、今も二人が笑い会釈された微笑ましい光景が私の目に焼き付いているのかもしれない。
今年の阪神地区の盆参りも、この朝の心温まる二人のやりとりを目撃することができたお陰で、一日誠に心地良く、順調にお参りを済ませることができた。大阪の街も、例年より活気がみなぎり、人々の顔も明るく感じられた。体の疲れに反して、心は意気軒昂に満ち足りた高揚のままに帰還できた。
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