<大法輪誌12月号、現在書店にある号です。特集ブッダの名句・名言に掲載された文章です。是非書店で手にとってご覧下さい。法句経やスッタニパータの偈文を解説したものです>
「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。(ダンマパダ 5)」
一九九二年十二月、インド北東部のイスラム教の聖地アヨッディアで、過激なヒンドゥー至上主義者たちがモスクに乱入し、建物を破壊する事件が起こりました。そもそもそのモスクは、一五二八年にラーマ生誕の地にあったヒンドゥー寺院を破壊しその上に建てたものだとヒンドゥー教徒は主張したのでした。
この事件が引き金となり、インド全土でヒンドゥー教徒とイスラム教徒との衝突が繰り返され、多くの犠牲者がでました。お互いが怨みをもって怨みに報いた結果でした。
世界中で宗教の名を借りたテロ事件が後を絶たない昨今、お釈迦様が示されたこの言葉を私たちは、宗教を超えた人類普遍の真理として受け入れたいものだと思います。
「われわれは怨みをもつ者たちの間にあって怨みを抱かず、よく心安らかに生きよう。われわれは怨みある者たちの間にあって、怨みを抱かずに生活しよう。(ダンマパダ 197)」
インドのコルカタにある仏教寺院に併設する小学校では、仏教徒やヒンドゥー教徒に混じってイスラム教徒の子供たちも沢山学んでいます。ヒンドゥー・イスラムの宗教対立が頻発する時勢であっても、寺院の中では、お釈迦様の仏像の前でヒンドゥー教の子供たちもイスラム教の子供たちもともに礼拝し、休憩時間には一緒に境内を駆け回り、笑い声が絶えることはありませんでした。
一人の人間として何の怨みつらみがなくとも、ひとたび何々教徒などと色分けすることで多くの過ちが繰り返されてしまいます。一人一人を同じ一つの生命として見ることができたなら、何の不快感も生ずることなく反発することもなく、穏やかに過ごすことができることでしょう。
「怒らないことによって、怒りにうちかて。善いことによって、悪いことにうちかて。与えることによって、物惜しみにうちかて。真実によって、虚言にうちかて。(ダンマパダ 223)」
人の言うこと、することに文句を重ね、自分こそよくあれと他に譲ることもない、つい自分かわいさのあまり嘘をつき悪事を重ねる。これら怒り、物惜しみ、悪事をなした後悔などは、私たちを不幸に陥れる強敵と言ってもいいものです。
ただ、怒らないようにしようと思っても、そう簡単なことではありません。そこで、怒る心の反対の心である優しい慈しみの心を育て、怒らない心をつくることで、怒りにうち勝つことを教えています。物惜しみする心には、人や他の生き物たちのために物を与えることでうち勝ち、善いことをして悪事に勝ち、真実を述べることで嘘偽りにうち勝つことを教えているのです。
「他人が怒ったのを知ったら、自分(の心)を静かにして(自分が怒ることがないようにするべきである)。そうすれば、自分も他人も大きな危険から身を守ることになる。(ウダーナヴァルガ 20・10)」
誰かから怒鳴られたり、憤然と何事かを言われたりしたとき、ついその怒りに反発して大きな声で言い返したり、激しく動揺したりしがちなものです。
それに対して、また言われた側も怒鳴り返す、怒りの応酬を繰り返すことになります。怒りの心をぶちまけることで、まずは、その人自身が大きな苦しみを味わい、それだけで終わらず、周りをも巻き込んでみんなを不快な不穏な気分に陥れます。
何を言われても、何をされても、それに反応した自らの怒りの心を素早く察知して、次の瞬間には冷静に他のことに心を移すよう心がけねばなりません。そうして、一瞬でも現れた怒りの心が無くなれば、相手の怒りも終息に向かい大きな危険から身を守ることになるのです。
「心が静まり、身がととのえられ、正しく生活し、正しく知って解脱している人に、どうして怒りがあろうか。はっきりと知っている人に、怒りは存在しない」
(ウダーナヴァルガ 20・17)」
気に入らないことに出くわしたとき、とっさに心静まらない中で、物事の前後関係さえわきまえずに思考し、妄想して、荒々しい言葉を発する怒り。顔は紅潮し、体はこわばり震えます。
怒りは、物事の因果道理を理解しないがために生じる心です。この世に現れたすべての物事には原因があり、それは様々な条件により結果します。その結果がまた原因となり、次の結果を生じさせていきます。すべてのものがこの因縁の世界の中で存在していることをはっきりと知るならば、怒りの心が現れることがないと、この偈文は教えています。
ちょっとしたことから怒りの心が生じないために、日頃から常に自らの心を観察する習慣を身につけ、物事の原因と結果をできるだけきちんと冷静に理解するよう心がけることが大切なのです。
「怒りを断てば安らかに寝ることができる。怒りを断てば悲しむことがない。
(相応部経典Ⅰ 8・1)」
怒りの正反対の心が慈しみの心です。好ましくないものを嫌い、拒絶する怒りに対して、慈しみの心は、他を受け入れ共感する心です。
特に怒りっぽい人のためには、この慈しみの心を育てる四無量心を修行するよう勧められています。
生きとし生けるものを友として観じ、それらが苦しんでいるときには救ってあげよう、喜んでいるときにはともに喜ぼう、誰に対してもわけへだてなく好き嫌いなく冷静に対しようとする心を育てることで、怒りの心を滅していくことができます。
そうして誰にも敵対する相手としてではなく、親しみが感じられるようになれば、何を見ても聞いても文句を言い怒りの心が生じていた人でも心穏やかになり、人が困っていれば物惜しみせずに手助けし、人の幸せに嫉妬することもなく、過去になされたことに後悔することもなくなることでしょう。
そうなれば、安らかに寝ることができ、悲しむこともないと、この偈文は教えています。
(↓よろしければ、一日一回クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

日記@BlogRanking
「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。(ダンマパダ 5)」
一九九二年十二月、インド北東部のイスラム教の聖地アヨッディアで、過激なヒンドゥー至上主義者たちがモスクに乱入し、建物を破壊する事件が起こりました。そもそもそのモスクは、一五二八年にラーマ生誕の地にあったヒンドゥー寺院を破壊しその上に建てたものだとヒンドゥー教徒は主張したのでした。
この事件が引き金となり、インド全土でヒンドゥー教徒とイスラム教徒との衝突が繰り返され、多くの犠牲者がでました。お互いが怨みをもって怨みに報いた結果でした。
世界中で宗教の名を借りたテロ事件が後を絶たない昨今、お釈迦様が示されたこの言葉を私たちは、宗教を超えた人類普遍の真理として受け入れたいものだと思います。
「われわれは怨みをもつ者たちの間にあって怨みを抱かず、よく心安らかに生きよう。われわれは怨みある者たちの間にあって、怨みを抱かずに生活しよう。(ダンマパダ 197)」
インドのコルカタにある仏教寺院に併設する小学校では、仏教徒やヒンドゥー教徒に混じってイスラム教徒の子供たちも沢山学んでいます。ヒンドゥー・イスラムの宗教対立が頻発する時勢であっても、寺院の中では、お釈迦様の仏像の前でヒンドゥー教の子供たちもイスラム教の子供たちもともに礼拝し、休憩時間には一緒に境内を駆け回り、笑い声が絶えることはありませんでした。
一人の人間として何の怨みつらみがなくとも、ひとたび何々教徒などと色分けすることで多くの過ちが繰り返されてしまいます。一人一人を同じ一つの生命として見ることができたなら、何の不快感も生ずることなく反発することもなく、穏やかに過ごすことができることでしょう。
「怒らないことによって、怒りにうちかて。善いことによって、悪いことにうちかて。与えることによって、物惜しみにうちかて。真実によって、虚言にうちかて。(ダンマパダ 223)」
人の言うこと、することに文句を重ね、自分こそよくあれと他に譲ることもない、つい自分かわいさのあまり嘘をつき悪事を重ねる。これら怒り、物惜しみ、悪事をなした後悔などは、私たちを不幸に陥れる強敵と言ってもいいものです。
ただ、怒らないようにしようと思っても、そう簡単なことではありません。そこで、怒る心の反対の心である優しい慈しみの心を育て、怒らない心をつくることで、怒りにうち勝つことを教えています。物惜しみする心には、人や他の生き物たちのために物を与えることでうち勝ち、善いことをして悪事に勝ち、真実を述べることで嘘偽りにうち勝つことを教えているのです。
「他人が怒ったのを知ったら、自分(の心)を静かにして(自分が怒ることがないようにするべきである)。そうすれば、自分も他人も大きな危険から身を守ることになる。(ウダーナヴァルガ 20・10)」
誰かから怒鳴られたり、憤然と何事かを言われたりしたとき、ついその怒りに反発して大きな声で言い返したり、激しく動揺したりしがちなものです。
それに対して、また言われた側も怒鳴り返す、怒りの応酬を繰り返すことになります。怒りの心をぶちまけることで、まずは、その人自身が大きな苦しみを味わい、それだけで終わらず、周りをも巻き込んでみんなを不快な不穏な気分に陥れます。
何を言われても、何をされても、それに反応した自らの怒りの心を素早く察知して、次の瞬間には冷静に他のことに心を移すよう心がけねばなりません。そうして、一瞬でも現れた怒りの心が無くなれば、相手の怒りも終息に向かい大きな危険から身を守ることになるのです。
「心が静まり、身がととのえられ、正しく生活し、正しく知って解脱している人に、どうして怒りがあろうか。はっきりと知っている人に、怒りは存在しない」
(ウダーナヴァルガ 20・17)」
気に入らないことに出くわしたとき、とっさに心静まらない中で、物事の前後関係さえわきまえずに思考し、妄想して、荒々しい言葉を発する怒り。顔は紅潮し、体はこわばり震えます。
怒りは、物事の因果道理を理解しないがために生じる心です。この世に現れたすべての物事には原因があり、それは様々な条件により結果します。その結果がまた原因となり、次の結果を生じさせていきます。すべてのものがこの因縁の世界の中で存在していることをはっきりと知るならば、怒りの心が現れることがないと、この偈文は教えています。
ちょっとしたことから怒りの心が生じないために、日頃から常に自らの心を観察する習慣を身につけ、物事の原因と結果をできるだけきちんと冷静に理解するよう心がけることが大切なのです。
「怒りを断てば安らかに寝ることができる。怒りを断てば悲しむことがない。
(相応部経典Ⅰ 8・1)」
怒りの正反対の心が慈しみの心です。好ましくないものを嫌い、拒絶する怒りに対して、慈しみの心は、他を受け入れ共感する心です。
特に怒りっぽい人のためには、この慈しみの心を育てる四無量心を修行するよう勧められています。
生きとし生けるものを友として観じ、それらが苦しんでいるときには救ってあげよう、喜んでいるときにはともに喜ぼう、誰に対してもわけへだてなく好き嫌いなく冷静に対しようとする心を育てることで、怒りの心を滅していくことができます。
そうして誰にも敵対する相手としてではなく、親しみが感じられるようになれば、何を見ても聞いても文句を言い怒りの心が生じていた人でも心穏やかになり、人が困っていれば物惜しみせずに手助けし、人の幸せに嫉妬することもなく、過去になされたことに後悔することもなくなることでしょう。
そうなれば、安らかに寝ることができ、悲しむこともないと、この偈文は教えています。
(↓よろしければ、一日一回クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

日記@BlogRanking