平成17年6月発行のNHKブックスである。著者は、大谷大学からフランス国立科学研究センターに留学されて、サンスクリット原典を忠実に翻訳したチベット大蔵経の研究をされた今枝由郎氏である。今枝氏は、そのままフランス人となり未だにフランスで研究を続けている特異な方だ。
1981年から10年間チベット仏教系の国として唯一の独立国であるブータンの国立図書館の顧問として赴任された。そのときの研鑽とそれから暮らしているフランスの仏教を日本仏教と比較して様々な日本仏教の問題点を指摘している。
まずは、日本仏教には仏教を理解しようというもっとも初歩的な努力があまりにも欠如していると指摘する。お経の意味も解さず、唱えるだけでただ呪術的に受け入れているのが日本仏教ではないかという。確かに、前後に何の解説もなくお経を唱えるだけの法会法事の姿を捉えればその通りだと言わざるをえない。
また、仏教には様々な行の形があるのにその中のどれか一つだけをもっぱらに修行するのが日本仏教で、それだけに専念し他は顧みない態度が日本の宗派の特徴だとも指摘する。念仏宗の信者に座禅もしなさいと勧めたら宗派自体が成り立たないということになるのであろう。
その多くが時代背景によって出来た宗派であり、宗祖の選択した教えのみをありがたがって専修するのが日本仏教だと言うことなのだが、本来はその個人の特性や資質によって選択されるべきものであろうと私も思う。氏の言われるとおりである。
そして戒律を疎かにし、大乗仏教には大乗の戒があってしかるべしとして本来僧侶として護るべき中国でも韓国でもチベットでも護られている僧侶としての戒律を全くと言っていいほどに無視して成立しているのが日本仏教であると指摘する。特に妻帯し家庭をもって寺院を護るスタイルは他国にはない。
それは仏教本来の形態でないのは当然のことであって、だから仏法僧への帰依も、戒定慧の基本的な仏教の三学も成立し得ない、しかるに仏教本来というよりも宗教者のもつべきオーラを発する聖職者がおらず教え自体にもその力を失っているのであろう。
そして、戒も護られていない日本仏教で戒名だけある不思議、他の仏教国にない墓や回忌法要はしっかり行われている不具合、日本人は仏教国でありながら教えが学ばれていないために、輪廻を知らず、つまり仏教的な人生観を持つことなく、全く目先の短絡的な損得勘定で生きている、とも記されている。
ただ、この墓については、墓に類する遺骨を収容する施設はタイ仏教にも見られるし、韓国にも墓があるのではないか。それに回忌法要は、インド仏教でもきちんとされているからどのテーラワーダ仏教でもなされるであろう。特に近年亡くなった故人の命日には僧侶を招待して食事を供養してお経を上げてもらうことはよくなされている。
さらには、念仏に関して氏自らが真宗門徒として育ったために、あえて弥陀の本願によって救われるというのは仏教本来の因果応報の因果律に反することだと言う。すべて仏教は自己責任で行動する自立した個人宗教であり、これが仏教本来の姿勢であると明言する。だから日本仏教は本来の仏教とは本質的に違ったものであるとも言われる。
私が思うに、念仏も結構、その後のことをきちんと教えるべきではないか。氏が指摘するように仏教の基本的なフレームはもとより、極楽に行ったとしても終わりではない、念仏は、放下であり、思い計らいを捨てて、同時に積善に尽くすべきであると説くべきなのではないか。
もちろん他の宗派においても同様だろう。即身成仏すると言って終わりではなく、それはどのような意味として現代の私たちが受け取るべきかと説く必要があろう。安易に死後誰でも往生・成仏できると言ってしまうところに、教えの価値そのものを否定してしまっているということを思い知るべきであろう。
そして氏は氏の考える仏教の基本フレームを開示する。まず教えを自ら納得するように学ぶべきであること、そして三帰三学、四聖諦八正道、中道、業縁起と説き、特に強調されて、業・縁起・輪廻は仏教思想の中核をなす三本柱で、このうちどれか一つ欠けても仏教は成立しないと書かれている。
このことに関しては、私も深く賛意を表明したいところである。特に明治以降、何度もここで述べてきたように、輪廻ということが言われなくなって久しく、だからこそ仏教が仏教たり得ない陳腐な教えと化している日本仏教の現状は否めないと私も思う。
そして氏は、ブータンとフランスでの仏教の現状を記す。ブータンは、かつて日本がそうであったように、国王自体が熱心な仏教徒であり、国民総生産という経済指標ではなく、国民総幸福、ないし国民総充足という指標のもとに国造りに励んでいることを紹介している。
このことは単にブータン一国の問題としてではなく、先進各国の物質的には飽和状態の国民の幸福度を測る指標としての国民総生産は無意味となり、換わりに、継続経済的幸福指数という考え方が世界の動向となっており、海外の経済ジャーナリストらは、その意味でブータン国王の理念に注目する人々が現れているという。
フランスではフランス人のチベット仏教僧が現れて、ダライラマ十四世の講演録や哲学と仏教の関係を論じた多くの書籍が出版されている。ベトナム出身のティクナットハン師も有名であり、フランスに住して活躍し、また日本の弟子丸泰仙師が伝えた禅も根強く息づいているという。
最後に氏は、これからの日本人にとっても仏教は果たしうる役割があると確信する、その可能性を死蔵することなく、現代をより人間的に充足感を持って生きようと心がける者にとって多くのものを提供してくれる普遍的心の泉である、泉はいつでもとうとうと湧き出ている、その水で渇きを癒し将来への指針活力を見出しうるか否かは私たち次第である、と結ばれている。
多くの業種がグローバル化の波に呑まれ、旧態依然とした体制が転換されて久しい。唯一の例外が、伝統各宗派の日本仏教ではないか。国際化を図る意味で海外に目を転じ海外ボランティアに余念のない宗派もあるが、それがはたして本来の国際化であろうか。
今枝氏が指摘するように宗祖の仏教と化している日本仏教を本然から見直し、基本的な仏教のフレームの中で各派の仏教を捉え直す作業から取り組む必要があろう。明治の変革期に各宗派が侃々諤々の議論を展開した教理主義か戒律主義かの議論も真摯に取り組む必要が出てくるのではないか。
いずれにせよ、日本にあっても、様々な情報や見聞を通じて、また近年海外から来日して法を説かれているアジアの仏教僧からの教えによって、世界基準での仏教とはいかなるものかが知られつつある時代であることを、当事者である僧侶自らがまずもって認識すべきであろうと思う。
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1981年から10年間チベット仏教系の国として唯一の独立国であるブータンの国立図書館の顧問として赴任された。そのときの研鑽とそれから暮らしているフランスの仏教を日本仏教と比較して様々な日本仏教の問題点を指摘している。
まずは、日本仏教には仏教を理解しようというもっとも初歩的な努力があまりにも欠如していると指摘する。お経の意味も解さず、唱えるだけでただ呪術的に受け入れているのが日本仏教ではないかという。確かに、前後に何の解説もなくお経を唱えるだけの法会法事の姿を捉えればその通りだと言わざるをえない。
また、仏教には様々な行の形があるのにその中のどれか一つだけをもっぱらに修行するのが日本仏教で、それだけに専念し他は顧みない態度が日本の宗派の特徴だとも指摘する。念仏宗の信者に座禅もしなさいと勧めたら宗派自体が成り立たないということになるのであろう。
その多くが時代背景によって出来た宗派であり、宗祖の選択した教えのみをありがたがって専修するのが日本仏教だと言うことなのだが、本来はその個人の特性や資質によって選択されるべきものであろうと私も思う。氏の言われるとおりである。
そして戒律を疎かにし、大乗仏教には大乗の戒があってしかるべしとして本来僧侶として護るべき中国でも韓国でもチベットでも護られている僧侶としての戒律を全くと言っていいほどに無視して成立しているのが日本仏教であると指摘する。特に妻帯し家庭をもって寺院を護るスタイルは他国にはない。
それは仏教本来の形態でないのは当然のことであって、だから仏法僧への帰依も、戒定慧の基本的な仏教の三学も成立し得ない、しかるに仏教本来というよりも宗教者のもつべきオーラを発する聖職者がおらず教え自体にもその力を失っているのであろう。
そして、戒も護られていない日本仏教で戒名だけある不思議、他の仏教国にない墓や回忌法要はしっかり行われている不具合、日本人は仏教国でありながら教えが学ばれていないために、輪廻を知らず、つまり仏教的な人生観を持つことなく、全く目先の短絡的な損得勘定で生きている、とも記されている。
ただ、この墓については、墓に類する遺骨を収容する施設はタイ仏教にも見られるし、韓国にも墓があるのではないか。それに回忌法要は、インド仏教でもきちんとされているからどのテーラワーダ仏教でもなされるであろう。特に近年亡くなった故人の命日には僧侶を招待して食事を供養してお経を上げてもらうことはよくなされている。
さらには、念仏に関して氏自らが真宗門徒として育ったために、あえて弥陀の本願によって救われるというのは仏教本来の因果応報の因果律に反することだと言う。すべて仏教は自己責任で行動する自立した個人宗教であり、これが仏教本来の姿勢であると明言する。だから日本仏教は本来の仏教とは本質的に違ったものであるとも言われる。
私が思うに、念仏も結構、その後のことをきちんと教えるべきではないか。氏が指摘するように仏教の基本的なフレームはもとより、極楽に行ったとしても終わりではない、念仏は、放下であり、思い計らいを捨てて、同時に積善に尽くすべきであると説くべきなのではないか。
もちろん他の宗派においても同様だろう。即身成仏すると言って終わりではなく、それはどのような意味として現代の私たちが受け取るべきかと説く必要があろう。安易に死後誰でも往生・成仏できると言ってしまうところに、教えの価値そのものを否定してしまっているということを思い知るべきであろう。
そして氏は氏の考える仏教の基本フレームを開示する。まず教えを自ら納得するように学ぶべきであること、そして三帰三学、四聖諦八正道、中道、業縁起と説き、特に強調されて、業・縁起・輪廻は仏教思想の中核をなす三本柱で、このうちどれか一つ欠けても仏教は成立しないと書かれている。
このことに関しては、私も深く賛意を表明したいところである。特に明治以降、何度もここで述べてきたように、輪廻ということが言われなくなって久しく、だからこそ仏教が仏教たり得ない陳腐な教えと化している日本仏教の現状は否めないと私も思う。
そして氏は、ブータンとフランスでの仏教の現状を記す。ブータンは、かつて日本がそうであったように、国王自体が熱心な仏教徒であり、国民総生産という経済指標ではなく、国民総幸福、ないし国民総充足という指標のもとに国造りに励んでいることを紹介している。
このことは単にブータン一国の問題としてではなく、先進各国の物質的には飽和状態の国民の幸福度を測る指標としての国民総生産は無意味となり、換わりに、継続経済的幸福指数という考え方が世界の動向となっており、海外の経済ジャーナリストらは、その意味でブータン国王の理念に注目する人々が現れているという。
フランスではフランス人のチベット仏教僧が現れて、ダライラマ十四世の講演録や哲学と仏教の関係を論じた多くの書籍が出版されている。ベトナム出身のティクナットハン師も有名であり、フランスに住して活躍し、また日本の弟子丸泰仙師が伝えた禅も根強く息づいているという。
最後に氏は、これからの日本人にとっても仏教は果たしうる役割があると確信する、その可能性を死蔵することなく、現代をより人間的に充足感を持って生きようと心がける者にとって多くのものを提供してくれる普遍的心の泉である、泉はいつでもとうとうと湧き出ている、その水で渇きを癒し将来への指針活力を見出しうるか否かは私たち次第である、と結ばれている。
多くの業種がグローバル化の波に呑まれ、旧態依然とした体制が転換されて久しい。唯一の例外が、伝統各宗派の日本仏教ではないか。国際化を図る意味で海外に目を転じ海外ボランティアに余念のない宗派もあるが、それがはたして本来の国際化であろうか。
今枝氏が指摘するように宗祖の仏教と化している日本仏教を本然から見直し、基本的な仏教のフレームの中で各派の仏教を捉え直す作業から取り組む必要があろう。明治の変革期に各宗派が侃々諤々の議論を展開した教理主義か戒律主義かの議論も真摯に取り組む必要が出てくるのではないか。
いずれにせよ、日本にあっても、様々な情報や見聞を通じて、また近年海外から来日して法を説かれているアジアの仏教僧からの教えによって、世界基準での仏教とはいかなるものかが知られつつある時代であることを、当事者である僧侶自らがまずもって認識すべきであろうと思う。
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