(1995.10.11~10.26)
十月十九日、この日もカティナ・チーバラ・ダーン(功徳衣の供養会)に出かけた。昨日はカトマンドゥーの町中での供養だったが、今日は、パタンというカトマンドゥーからバスに乗って南に出た町。三世紀ごろから続く仏教徒の町で、仏像制作など工芸の町としても知られている。
アーナンダ・クティ・ビハールの数人の比丘たちとともに小一時間ほどバスに揺られた。パタン中心部に着き、そこから歩いてスマンガラ・ビハールというお寺に入った。もう既に三十人ほどの比丘たちが屋外のステージを囲むように作られた座席に腰掛けていた。私たちもその列に入り込む。長老方は正面のステージに用意された座席に向かわれた。在家の信者さんたちもぞろぞろと集まり、ステージ前に敷かれた敷物にじかに座っていく。
十時頃からここでもやはり長々と法話があった。有名なヴィシュワシャンティ・ビハールのニャーナプニカ長老の法話であった。気がつくと近くの席にスガタムニ師の姿もある。法話が終わって、カティナ衣の儀礼が済むと、食堂に案内され、スガタムニ師の隣で食事をいただいた。スガタムニ師はここでも七年ほど暮らしていたことがあると言っていた。この日は、昨日のように何人もの信者さん方から直接お布施をいただくのではなく、会場の関係からか、食事の後に小さな封筒に入れて一人一人に手渡された。
その後、アーナンダ・クティの比丘たちといったんお寺に戻り、午後休息をとってから、明日にはベナレスに飛ばねばならないため、カルカッタや日本の人たち向けにお土産を買うためバザールに向かった。
スワヤンブナートからアサンに向かう。何度も歩いて通った道なので、随分昔から居るような錯覚さえ憶える。バザールには、白い外国人に混じってアジアからの旅行者も多かった。二階建て程度の間口の狭い店が建ち並び、日本で言えば上野のアメ横商店街のような雰囲気。毛の敷物と綿のバック、それにろうけつ染めの仏陀像、お茶、それと現地のタバコなどを買い込む。
翌十月二十日、朝の軽食の後それぞれの比丘と別れを告げる。六日ばかりしか居なかったのに、みんな私との別れを惜しんで、紙に自分の名前と住所、大学名などをデーヴァナーガリー文字で書いてくれた。最後に住職のマハーナーマ大長老のところで三百ルピーのドネーション(寄附)をさせていただき、先代アニルッダ大長老にも挨拶に行った。ネパール語の自著とヒンディ語の仏教書を頂戴した。「また来なさい」と皆さんに言われ、「はい」と調子よく答えたものの、結局これまでに手紙一つ出しただけである。
十時にお寺を出る。スワヤンブナートから、乗り合いタクシーで町の中心部まで出て、そこからリキシャで空港へ向かう。やはりカトマンドゥ空港の記憶が欠落しているのだが、とにかく十一時五十五分発ベナレス行きインディアン・エアラインズに乗りこんだ。
小一時間でベナレスへ。インドへ戻ったという安堵の気持ちと何にも変わらないという気抜けした感覚を覚えた。それだけインドとネパールというのは文化的に同化しているとも言えるのかもしれない。
鉄道の駅よりもこぢんまりした、全体を黄色く塗られた空港からバスで街に向かう。裁判所が近くにあり、裁判という意味のムカドマと言われている地区まで出て、そこからオートリキシャでサールナートに向かった。
サールナートのチベット研究所隣の法輪精舎前でリキシャを降りる。正式名は、ベンガル仏教会サールナート支部法輪精舎。ここの住職をつとめる後藤恵照師は、テラスで椅子に座り日本茶をすすっていた。
後藤師との出会いは、この時より三年前にさかのぼる。二度目のインド巡礼の折に立ち寄った際、十三世紀に仏教が消滅したとされていたインドに細々とその後も仏教徒が生き続けていたことを教えてくださった。その話は、現代インドには見るべき仏教はないと思っていた私には衝撃的だった。それは、私にとってのインドに対する思いが沸騰した瞬間でもあった。この後藤師との出会いがなかったなら、私はインドで坊さんにはなっていなかっただろうし、留学もしていなかった。
このときも後藤師は、相変わらず昼間はサールナートで寄附の勧募と無料中学校の運営、それに夕方からはサンスクリット大学の日本語教官として孤軍奮闘していた。バブルの崩壊からインド仏蹟巡拝ツアーの熱も冷め、日本人旅行者が激減し、寄附が滞っていることを懸念されていた。しかしその分とまではいかないものの台湾や韓国の仏教徒から定期的に寄附をいただくようになったり、日本のそれまで一つだった支援者の集まりが何カ所か増えて、ありがたいことだと言われていた。
そしてこの頃やっと新たに購入した土地に、校舎を建設するべく起工式を計画するまでこぎつけていた。この時既に在印十五年、一度も日本に帰らずインド国籍を申請していた。私がいた頃から申請していたのだが、その都度、間に入った人たちにリベートを騙し取られたと嘆いていた。この地で学校を作り骨を埋めるつもりでいる。
一年前まで一年あまり過ごした同じ部屋に、私は宿泊した。私が来ていることを聞きつけたアショカ王の子孫・モウリア族の若者たちが毎日のように顔をのぞかせる。細い高校生だった子供たちがみんな私よりも遙かに背も高く体格も立派になって口の上には髭まで蓄えている。
通りで店を経営していたサンジャイはここの学校の理事長として町の若者たちのとりまとめ役になっていた。バラナシサリーの絹糸を製造し、日本語を勉強に来ていたクリシュナさんは、ホンダのバイクでやってきて、私を自宅まで連れて行き夕食をご馳走してくれた。育ちの良い本当に優しいモウリアの人たちだ。
またお寺ではこの頃、モウリアの人たちがチューションスクールといわれる予備校を開校し境内を仮校舎として使用していたり、学校の生徒の制服を作っていたテイラーが門番兼寺男として常駐していたり、丸一年ぶりで来たので、お寺の様子もそれぞれに変化しているようだった。
後藤師は、私が行くと、自分の後のことをよく口にされた。何もかもこの寺につぎ込んできて学校まで作ったものの、そのあとが続かなくなっては元も子もない。本来お寺の檀那であるべき、ベナレスに住むベンガル仏教徒数家族たちとは余り良い関係にはなかった。私がいる頃も何度かたまにお詣りに来ていたが、お詣りするというよりは様子をうかがいに来たという感じで、少し話をして帰って行った。
その代わりに、実際毎日後藤師の昼食にと、金属製の段重ねになった弁当箱を持ってくるのはモウリアの子供たちだった。だから思いの違う人たちに乗っ取られ建学の趣旨を変えられてしまうよりは、自分が育てた子供たちモウリアの人たちに後を引き継ぎたい。出来ればお寺も仏教大学併設ということで学校に寄附してしまうか、もしくは、学校は他の大学の姉妹校ということにしておけば、何とかそのまま残るだろうか、などと思案されていた。
それから十年。音信不通の間に後藤師は在印二十五年ほどにしてやっとの事インド国籍を取得し、今年三月来日された。昭和八年生まれだから七十二才になる。が、真っ黒に日焼けした健康そうなお姿からその年齢をうかがい知ることはできなかった。今では中学高校の上に、念願かなって文科系大学を併設するまでになった。
サールナートには、この時結局一週間お世話になった。サールナートのシンボル、ダメーク・ストゥーパ(塔)前の木陰でゆっくり瞑想したり、野生司香雪画伯の壁画で有名なムルガンダクティ・ビハールへお詣りした。また、昔を思い出して遺跡公園で旅行者に声を掛けたりして日が過ぎていった。
カルカッタへ戻る日が近づいてきて、一日ゆっくりベナレスの町まで出掛け、街の中心部ラフラビルから旧市街チョーク地区を歩く。飲食店があったり、病院があったりする中に書店が何店舗かある。目指すはモティラル・バナーラシダースという出版社。
そこで、ロンドンのパーリ・テキスト・ソサエティが一九二〇年代に出版した仏教語パーリ語の今でも最も権威のあるパ英辞典を買った。もっともその再版である。一九九三年にこのインドの出版社が再版権を取得し四百五十ルピーで販売している。A4版で七八三ページもあって重い。
ここで、ロンドンで仏教語辞書の出版?と思われる方もあるかもしれない。しかし実は日本の近代における仏教研究はヨーロッパから入ってきた。明治の学僧がロンドンやパリに行って学び持ち帰ったものだ。
それに先立つ西洋人による仏教研究は、インド、セイロンなどへ十七世紀以降交易から入植し植民地経営をする中で官吏や宣教師が現地の宗教、風俗、習慣、法律を知るために史書などを研究翻訳することから始まった。英国人、フランス人らによってパーリ語の史書や仏典が研究され、辞書などが出版されていったのだった。
サールナートを去る前日、サンジャイの店で、線香やカレー料理に欠かせないマサラ(調合された香辛料)を沢山買い込んで数冊の本や辞書などと共に、ベナレスの郵便局から日本に発送した。 つづく
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十月十九日、この日もカティナ・チーバラ・ダーン(功徳衣の供養会)に出かけた。昨日はカトマンドゥーの町中での供養だったが、今日は、パタンというカトマンドゥーからバスに乗って南に出た町。三世紀ごろから続く仏教徒の町で、仏像制作など工芸の町としても知られている。
アーナンダ・クティ・ビハールの数人の比丘たちとともに小一時間ほどバスに揺られた。パタン中心部に着き、そこから歩いてスマンガラ・ビハールというお寺に入った。もう既に三十人ほどの比丘たちが屋外のステージを囲むように作られた座席に腰掛けていた。私たちもその列に入り込む。長老方は正面のステージに用意された座席に向かわれた。在家の信者さんたちもぞろぞろと集まり、ステージ前に敷かれた敷物にじかに座っていく。
十時頃からここでもやはり長々と法話があった。有名なヴィシュワシャンティ・ビハールのニャーナプニカ長老の法話であった。気がつくと近くの席にスガタムニ師の姿もある。法話が終わって、カティナ衣の儀礼が済むと、食堂に案内され、スガタムニ師の隣で食事をいただいた。スガタムニ師はここでも七年ほど暮らしていたことがあると言っていた。この日は、昨日のように何人もの信者さん方から直接お布施をいただくのではなく、会場の関係からか、食事の後に小さな封筒に入れて一人一人に手渡された。
その後、アーナンダ・クティの比丘たちといったんお寺に戻り、午後休息をとってから、明日にはベナレスに飛ばねばならないため、カルカッタや日本の人たち向けにお土産を買うためバザールに向かった。
スワヤンブナートからアサンに向かう。何度も歩いて通った道なので、随分昔から居るような錯覚さえ憶える。バザールには、白い外国人に混じってアジアからの旅行者も多かった。二階建て程度の間口の狭い店が建ち並び、日本で言えば上野のアメ横商店街のような雰囲気。毛の敷物と綿のバック、それにろうけつ染めの仏陀像、お茶、それと現地のタバコなどを買い込む。
翌十月二十日、朝の軽食の後それぞれの比丘と別れを告げる。六日ばかりしか居なかったのに、みんな私との別れを惜しんで、紙に自分の名前と住所、大学名などをデーヴァナーガリー文字で書いてくれた。最後に住職のマハーナーマ大長老のところで三百ルピーのドネーション(寄附)をさせていただき、先代アニルッダ大長老にも挨拶に行った。ネパール語の自著とヒンディ語の仏教書を頂戴した。「また来なさい」と皆さんに言われ、「はい」と調子よく答えたものの、結局これまでに手紙一つ出しただけである。
十時にお寺を出る。スワヤンブナートから、乗り合いタクシーで町の中心部まで出て、そこからリキシャで空港へ向かう。やはりカトマンドゥ空港の記憶が欠落しているのだが、とにかく十一時五十五分発ベナレス行きインディアン・エアラインズに乗りこんだ。
小一時間でベナレスへ。インドへ戻ったという安堵の気持ちと何にも変わらないという気抜けした感覚を覚えた。それだけインドとネパールというのは文化的に同化しているとも言えるのかもしれない。
鉄道の駅よりもこぢんまりした、全体を黄色く塗られた空港からバスで街に向かう。裁判所が近くにあり、裁判という意味のムカドマと言われている地区まで出て、そこからオートリキシャでサールナートに向かった。
サールナートのチベット研究所隣の法輪精舎前でリキシャを降りる。正式名は、ベンガル仏教会サールナート支部法輪精舎。ここの住職をつとめる後藤恵照師は、テラスで椅子に座り日本茶をすすっていた。
後藤師との出会いは、この時より三年前にさかのぼる。二度目のインド巡礼の折に立ち寄った際、十三世紀に仏教が消滅したとされていたインドに細々とその後も仏教徒が生き続けていたことを教えてくださった。その話は、現代インドには見るべき仏教はないと思っていた私には衝撃的だった。それは、私にとってのインドに対する思いが沸騰した瞬間でもあった。この後藤師との出会いがなかったなら、私はインドで坊さんにはなっていなかっただろうし、留学もしていなかった。
このときも後藤師は、相変わらず昼間はサールナートで寄附の勧募と無料中学校の運営、それに夕方からはサンスクリット大学の日本語教官として孤軍奮闘していた。バブルの崩壊からインド仏蹟巡拝ツアーの熱も冷め、日本人旅行者が激減し、寄附が滞っていることを懸念されていた。しかしその分とまではいかないものの台湾や韓国の仏教徒から定期的に寄附をいただくようになったり、日本のそれまで一つだった支援者の集まりが何カ所か増えて、ありがたいことだと言われていた。
そしてこの頃やっと新たに購入した土地に、校舎を建設するべく起工式を計画するまでこぎつけていた。この時既に在印十五年、一度も日本に帰らずインド国籍を申請していた。私がいた頃から申請していたのだが、その都度、間に入った人たちにリベートを騙し取られたと嘆いていた。この地で学校を作り骨を埋めるつもりでいる。
一年前まで一年あまり過ごした同じ部屋に、私は宿泊した。私が来ていることを聞きつけたアショカ王の子孫・モウリア族の若者たちが毎日のように顔をのぞかせる。細い高校生だった子供たちがみんな私よりも遙かに背も高く体格も立派になって口の上には髭まで蓄えている。
通りで店を経営していたサンジャイはここの学校の理事長として町の若者たちのとりまとめ役になっていた。バラナシサリーの絹糸を製造し、日本語を勉強に来ていたクリシュナさんは、ホンダのバイクでやってきて、私を自宅まで連れて行き夕食をご馳走してくれた。育ちの良い本当に優しいモウリアの人たちだ。
またお寺ではこの頃、モウリアの人たちがチューションスクールといわれる予備校を開校し境内を仮校舎として使用していたり、学校の生徒の制服を作っていたテイラーが門番兼寺男として常駐していたり、丸一年ぶりで来たので、お寺の様子もそれぞれに変化しているようだった。
後藤師は、私が行くと、自分の後のことをよく口にされた。何もかもこの寺につぎ込んできて学校まで作ったものの、そのあとが続かなくなっては元も子もない。本来お寺の檀那であるべき、ベナレスに住むベンガル仏教徒数家族たちとは余り良い関係にはなかった。私がいる頃も何度かたまにお詣りに来ていたが、お詣りするというよりは様子をうかがいに来たという感じで、少し話をして帰って行った。
その代わりに、実際毎日後藤師の昼食にと、金属製の段重ねになった弁当箱を持ってくるのはモウリアの子供たちだった。だから思いの違う人たちに乗っ取られ建学の趣旨を変えられてしまうよりは、自分が育てた子供たちモウリアの人たちに後を引き継ぎたい。出来ればお寺も仏教大学併設ということで学校に寄附してしまうか、もしくは、学校は他の大学の姉妹校ということにしておけば、何とかそのまま残るだろうか、などと思案されていた。
それから十年。音信不通の間に後藤師は在印二十五年ほどにしてやっとの事インド国籍を取得し、今年三月来日された。昭和八年生まれだから七十二才になる。が、真っ黒に日焼けした健康そうなお姿からその年齢をうかがい知ることはできなかった。今では中学高校の上に、念願かなって文科系大学を併設するまでになった。
サールナートには、この時結局一週間お世話になった。サールナートのシンボル、ダメーク・ストゥーパ(塔)前の木陰でゆっくり瞑想したり、野生司香雪画伯の壁画で有名なムルガンダクティ・ビハールへお詣りした。また、昔を思い出して遺跡公園で旅行者に声を掛けたりして日が過ぎていった。
カルカッタへ戻る日が近づいてきて、一日ゆっくりベナレスの町まで出掛け、街の中心部ラフラビルから旧市街チョーク地区を歩く。飲食店があったり、病院があったりする中に書店が何店舗かある。目指すはモティラル・バナーラシダースという出版社。
そこで、ロンドンのパーリ・テキスト・ソサエティが一九二〇年代に出版した仏教語パーリ語の今でも最も権威のあるパ英辞典を買った。もっともその再版である。一九九三年にこのインドの出版社が再版権を取得し四百五十ルピーで販売している。A4版で七八三ページもあって重い。
ここで、ロンドンで仏教語辞書の出版?と思われる方もあるかもしれない。しかし実は日本の近代における仏教研究はヨーロッパから入ってきた。明治の学僧がロンドンやパリに行って学び持ち帰ったものだ。
それに先立つ西洋人による仏教研究は、インド、セイロンなどへ十七世紀以降交易から入植し植民地経営をする中で官吏や宣教師が現地の宗教、風俗、習慣、法律を知るために史書などを研究翻訳することから始まった。英国人、フランス人らによってパーリ語の史書や仏典が研究され、辞書などが出版されていったのだった。
サールナートを去る前日、サンジャイの店で、線香やカレー料理に欠かせないマサラ(調合された香辛料)を沢山買い込んで数冊の本や辞書などと共に、ベナレスの郵便局から日本に発送した。 つづく
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