六、有情の種類について
ここまで述べてきた業論からすると、無限の業の種類に応じて有情の種類もまた無限なのだと言い得る。有情とは生命ある者との意で、衆生とも訳されるけれども、後に感覚ある者として有情とされたのであって、その場合には人間と畜生を指している。ただここでは衆生として生死輪廻の世界に生息する者を指している。お釈迦様は、世に無限の衆生ありて、しかも一つとして同じならからざるは皆その業の異なるがためであるとお考えであった。しかし当時の習慣に従い、神話的なる存在も一種と見なされて、おおよそ衆生世界を大きく五種ないし六種に分けた。
いわゆる死後趣くところということで、五趣、六趣と言い、五趣とは地獄、畜生、餓鬼、人、天上であり、これに第四として阿修羅を加えたものを六趣と言う。中国や日本で六道輪廻というのはこの六趣説によったものである。これらについての詳細は、漢パ両伝に伝わる増一部や漢訳長阿含第四分(世記経)などにある。人間と畜生を除いて他は神話的な存在ではあるけれども、当時の一般的信仰からすればすべて生きた存在であったので、お釈迦様もこれを容認して輪廻界の一現象と見なされたものと考えられよう。
これら五道ないし六道の衆生をその生まれ方から分類するならば、四種となる。四生といい、いわゆる胎生、卵生、湿生、化生である。胎生というのは普通の人畜のように母体から生ずるを言い、卵生とは鳥のように卵から生ずるを言い、湿生とは蚊のように湿地より生ずるを言い、化生とは天界または地獄、餓鬼のごとくに他の三生以外に自然に化生するを言う。これはすでにウパニシャッドにおいて提出された胎生、卵生、湿生、種生のうち、種生については植物を輪廻界に入れないために外し、かわりに地獄等のために化生を入れたのである。
また、これら五道四生を界に配するならば、お釈迦様は欲界、色界、無色界の三界とされた。欲界とは欲の盛んなるところで、地獄から天の一部までを含み、四生の何れもこの中にある。色界と無色界は純然たる天部で、かつ、化生であり、両方ともに禅定力の勝れたところであるけれども、色界には未だに物質的活動があり無色界にはその活動のないところからそれぞれの名前がつけられている。
附論 業説の価値について
業説は生物学的な観点からは、生まれながらの気質や傾向を前代の経験に求めることなど、その前代を祖先に求めるか自己に求めるかの違いはあるけれども、遺伝説に近似したところがある。さらにはそれをより長い歴史的な時間で計るならば、業説の結果として無始からの輪廻を考えるのであるから、自ずから進化論に適うところもあるであろう。またこれを心理学的見地から紐解くならば、業をもって経験の集積としてなされる意志により無意識的な性格を形成することなど、今日の心理学でもまた認めるところである。
またこれを教育に応用するならば、教育のあらゆる目的は仏教で言う善業を積むところにあるとも言いうるのであって、それは、道徳的にも技術的にもよき訓練を無意識的性格になるまで養成するところにあるからである。内面的修養が教育にあってはとても大切な意味を持つということも、この業論の教育的効果でもあるのである。しかしこの業説の最も重い意義について述べるならばそれは倫理、善悪の行為が禍福を招くという理論の論理的妥当性についてであろう。
正義を行うところに幸福が、不正を行うところに禍が来たればよいのに往々にしてそうならず、正義は虐げられ不正が栄えるのが古往今来の絶えざることである。この問題に対する従来の説としては以下のようなものがあげられよう。つまり、一つには社会は本来その不調和を解決すべき機関ではあるけれども不完全なために、その要求を満たすことが出来ないとする説。二つには自己の良心に照らしてみれば、正義を行う者はたとえ不幸に沈んでいても心には満足を得ている、不正を行う者はたとえ外見的には成功しても良心の呵責があるのであり、良心においては善悪禍福は一致しているとする説。また三つには自己においてその要求が実現されなくても子孫において実現されるとする説。さらに四つには人の善悪業は、大小にかかわらず長く社会に残存してその果を実現するので、業力不滅を主張し、同時にその妥当性を社会に求める説など。
しかしこれらは、一理ありとしながらも、それらがいつ実現されるのか、誰にでも当てはまるものか、普遍的確実性があるのかという観点から言って妥当性に欠けるのではないか。そこで偶然説が力説されたりもするが、それは善悪の行為と幸不幸は何の関係もない、すべては偶然のもたらした現象に過ぎないとする説である。また、それは神意によるとして、現在にあっては禍福善悪の一致が充たされないけれども死後において神がこれを裁いて善を賞し悪を罰してその妥当を計るとする神意説もある。ここにはインドにおける通俗説としての閻魔王による裁きなどもこれに属するし、またキリスト教に言われる末日審判の思想もこれであろう。
しかし、これらに対しては、まずもって、なぜ全知全能の神ならば未来にまでその裁きを待たねばならないのか。また、正義の人にして虐げられるのは神がこれを試みようとするのであって最後には真の裁きがあると言うが、不正を行い栄えるのも神の意向となり神意を測りかねるのであり、未来の審判の公平性も疑わしいこととなる。そこでキリスト教内部でも、最近(大正11年当時)末日審判説を排して心霊主義(Spiritualism)が盛んとなり、死後霊魂は前業に応じて直ちに相当の報土にいたり、下は地獄から上は神座にいたる種々の段階があり、六道または十界に似たものがあるのである。
このように見ていくと、やはり自己の業を自己が果たすという三世にわたる仏教の業説が最も妥当性のあることが分かり、また公平な見方であると考えられる。しかもそれは今生から出発するのではなく、永劫の過去から連続してきたものであって、今生で正義の人が不幸を受け、悪人が幸福を得たからといって、それは過去からの勘定の結果と見るならば少しも不公平なことはない。今生になした善行の結果が今生で得られなくても、悠久の輪廻の中でいつかは必ず間違いなく報われることになる。もしもこの確信さえ得られるなら、人はその報われない運命に案じながらも喜んで善と正義のため、他の人々のために尽くすことが出来よう。
また、現世に犯した罪がないのに不幸に遭うならば、前世に蒔いた種の熟したものと思い、それだけ自分に備わった責任が軽くなったと喜ぶことも出来るし、現世にあってさしたる功徳を積んでいないのに分不相応な幸運に遭うならば、これは前世の功徳の熟したものであって、それだけ福分が減少したと捉え、将来に備え善事に励む動機とすべきなのである。このように善悪の行為と禍福の関係を説明する上でこれほど妥当な、しかも社会全体に対して善い方向にあらしむる説明はないであろう。しかもこれは単なる理屈ではなく、世界の多くの仏教徒がこれに学び、安心立命を得て仏道に精進してきていることは歴然たる事実なのである。
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ここまで述べてきた業論からすると、無限の業の種類に応じて有情の種類もまた無限なのだと言い得る。有情とは生命ある者との意で、衆生とも訳されるけれども、後に感覚ある者として有情とされたのであって、その場合には人間と畜生を指している。ただここでは衆生として生死輪廻の世界に生息する者を指している。お釈迦様は、世に無限の衆生ありて、しかも一つとして同じならからざるは皆その業の異なるがためであるとお考えであった。しかし当時の習慣に従い、神話的なる存在も一種と見なされて、おおよそ衆生世界を大きく五種ないし六種に分けた。
いわゆる死後趣くところということで、五趣、六趣と言い、五趣とは地獄、畜生、餓鬼、人、天上であり、これに第四として阿修羅を加えたものを六趣と言う。中国や日本で六道輪廻というのはこの六趣説によったものである。これらについての詳細は、漢パ両伝に伝わる増一部や漢訳長阿含第四分(世記経)などにある。人間と畜生を除いて他は神話的な存在ではあるけれども、当時の一般的信仰からすればすべて生きた存在であったので、お釈迦様もこれを容認して輪廻界の一現象と見なされたものと考えられよう。
これら五道ないし六道の衆生をその生まれ方から分類するならば、四種となる。四生といい、いわゆる胎生、卵生、湿生、化生である。胎生というのは普通の人畜のように母体から生ずるを言い、卵生とは鳥のように卵から生ずるを言い、湿生とは蚊のように湿地より生ずるを言い、化生とは天界または地獄、餓鬼のごとくに他の三生以外に自然に化生するを言う。これはすでにウパニシャッドにおいて提出された胎生、卵生、湿生、種生のうち、種生については植物を輪廻界に入れないために外し、かわりに地獄等のために化生を入れたのである。
また、これら五道四生を界に配するならば、お釈迦様は欲界、色界、無色界の三界とされた。欲界とは欲の盛んなるところで、地獄から天の一部までを含み、四生の何れもこの中にある。色界と無色界は純然たる天部で、かつ、化生であり、両方ともに禅定力の勝れたところであるけれども、色界には未だに物質的活動があり無色界にはその活動のないところからそれぞれの名前がつけられている。
附論 業説の価値について
業説は生物学的な観点からは、生まれながらの気質や傾向を前代の経験に求めることなど、その前代を祖先に求めるか自己に求めるかの違いはあるけれども、遺伝説に近似したところがある。さらにはそれをより長い歴史的な時間で計るならば、業説の結果として無始からの輪廻を考えるのであるから、自ずから進化論に適うところもあるであろう。またこれを心理学的見地から紐解くならば、業をもって経験の集積としてなされる意志により無意識的な性格を形成することなど、今日の心理学でもまた認めるところである。
またこれを教育に応用するならば、教育のあらゆる目的は仏教で言う善業を積むところにあるとも言いうるのであって、それは、道徳的にも技術的にもよき訓練を無意識的性格になるまで養成するところにあるからである。内面的修養が教育にあってはとても大切な意味を持つということも、この業論の教育的効果でもあるのである。しかしこの業説の最も重い意義について述べるならばそれは倫理、善悪の行為が禍福を招くという理論の論理的妥当性についてであろう。
正義を行うところに幸福が、不正を行うところに禍が来たればよいのに往々にしてそうならず、正義は虐げられ不正が栄えるのが古往今来の絶えざることである。この問題に対する従来の説としては以下のようなものがあげられよう。つまり、一つには社会は本来その不調和を解決すべき機関ではあるけれども不完全なために、その要求を満たすことが出来ないとする説。二つには自己の良心に照らしてみれば、正義を行う者はたとえ不幸に沈んでいても心には満足を得ている、不正を行う者はたとえ外見的には成功しても良心の呵責があるのであり、良心においては善悪禍福は一致しているとする説。また三つには自己においてその要求が実現されなくても子孫において実現されるとする説。さらに四つには人の善悪業は、大小にかかわらず長く社会に残存してその果を実現するので、業力不滅を主張し、同時にその妥当性を社会に求める説など。
しかしこれらは、一理ありとしながらも、それらがいつ実現されるのか、誰にでも当てはまるものか、普遍的確実性があるのかという観点から言って妥当性に欠けるのではないか。そこで偶然説が力説されたりもするが、それは善悪の行為と幸不幸は何の関係もない、すべては偶然のもたらした現象に過ぎないとする説である。また、それは神意によるとして、現在にあっては禍福善悪の一致が充たされないけれども死後において神がこれを裁いて善を賞し悪を罰してその妥当を計るとする神意説もある。ここにはインドにおける通俗説としての閻魔王による裁きなどもこれに属するし、またキリスト教に言われる末日審判の思想もこれであろう。
しかし、これらに対しては、まずもって、なぜ全知全能の神ならば未来にまでその裁きを待たねばならないのか。また、正義の人にして虐げられるのは神がこれを試みようとするのであって最後には真の裁きがあると言うが、不正を行い栄えるのも神の意向となり神意を測りかねるのであり、未来の審判の公平性も疑わしいこととなる。そこでキリスト教内部でも、最近(大正11年当時)末日審判説を排して心霊主義(Spiritualism)が盛んとなり、死後霊魂は前業に応じて直ちに相当の報土にいたり、下は地獄から上は神座にいたる種々の段階があり、六道または十界に似たものがあるのである。
このように見ていくと、やはり自己の業を自己が果たすという三世にわたる仏教の業説が最も妥当性のあることが分かり、また公平な見方であると考えられる。しかもそれは今生から出発するのではなく、永劫の過去から連続してきたものであって、今生で正義の人が不幸を受け、悪人が幸福を得たからといって、それは過去からの勘定の結果と見るならば少しも不公平なことはない。今生になした善行の結果が今生で得られなくても、悠久の輪廻の中でいつかは必ず間違いなく報われることになる。もしもこの確信さえ得られるなら、人はその報われない運命に案じながらも喜んで善と正義のため、他の人々のために尽くすことが出来よう。
また、現世に犯した罪がないのに不幸に遭うならば、前世に蒔いた種の熟したものと思い、それだけ自分に備わった責任が軽くなったと喜ぶことも出来るし、現世にあってさしたる功徳を積んでいないのに分不相応な幸運に遭うならば、これは前世の功徳の熟したものであって、それだけ福分が減少したと捉え、将来に備え善事に励む動機とすべきなのである。このように善悪の行為と禍福の関係を説明する上でこれほど妥当な、しかも社会全体に対して善い方向にあらしむる説明はないであろう。しかもこれは単なる理屈ではなく、世界の多くの仏教徒がこれに学び、安心立命を得て仏道に精進してきていることは歴然たる事実なのである。
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