暑い暑いと言っているうちにもう9月もお彼岸となった。昼間はまだ夏の陽気だが、朝晩はかなり気温が下がってきた。いつまでも今年の夏のような気候が続くような気にもなっていたが、やはり季節の移り変わりは自然の摂理が働いているようだ。仏教の言葉で言えば無常ということであろうか。
無常とは、すべての物が移り変わりつつあるこの世の真理を表現したものではあるが、頭では分かっていても、お釈迦様の言われるこの無常の真理を本当に理解するというのは、実はとても難しいことなのではないか。それを心で認める、分かるというのはきちんと瞑想をしてその真理を体得しなくては叶わないことなのだともいわれる。
誰もが、身近な人が亡くなったときには悲嘆に暮れる。長く患いもう亡くなるのだと分かっていても、その時が来ればそれまでとは全然違うつらさが現れるものであろう。頭では分かっていても、やはりこの無常の真理を本当の意味で理解していない、分かっていないということなのである。
例えば、少し前の話にはなるが、日本の土地は値下がりしないと言われていた。不動産神話があり、絶対に安くなるはずがないと。しかしバブルがはじけてしまえば、あっけなく全国どこの土地であろうと値下がりした。元々ずっと値上がりしていくと思いこんでいたのがおかしかったということになる。しかしその神話を信じてしまったばかりに、全国にかなり多くの人たちがローンの返済や転売に困り、大損を重ねているのが現実なのである。
また、日本は世界一治安のいい国として誇らしく思っていたのはいつ頃までの話であろうか。もちろん諸外国の紛争地域や繁華街など危険な場所は日本の比ではないだろう。しかし、今の日本は以前言われていたような雰囲気ではなくなってしまった。家庭内暴力、無差別殺人。突然行方不明になって、そのまま行方知れずというケースも多い。これもずっとそのままの状態で推移すると思うことが誤りだったという例であろう。何事も無常だと。
また終身雇用も随分昔のことになってしまった。古きよき日本の会社制度は今思えばとても優れていた。それを競争、競争、年俸制だのと言って、外国仕様にしてしまったおかげで、今の会社の従業員には愛社心もない、忠誠心のかけらもないバラバラな、能力だけを切り売りするような風土となり、ストレスに晒され、心を病む人ばかりの会社社会となった。これも無常と言えばそれだけのことであるが、無常はこれからのことにも言える。このままずっと今のままということもない。おかしければ変えていく度量も当然必要だろう。
「近頃の若い者は・・・」とよくお年寄りが言う台詞は、実はいつの時代にも言われていたことらしい。みんな無常、移り変わっていくことが真理なのだとすれば、若い者が違うのは当たり前のことなのに、つい、こうした言葉が出てしまうというのは、この無常ということを認めていない、認めたくないという私たちの素顔を晒す言葉なのだとも言えよう。
では、なぜ私たちは無常を認めたくないのであろうか。結婚したり、子供が出来たりすれば、奥さんであり、お母さんであるのに、いつまでもまだ娘のような自分を追い求める。いつも若々しく、さらには健康であるように様々な健康グッズや薬を常用する。健康でいたいというのは当然のことではあるが、ちょっと度を超した健康至上主義が蔓延しているとは言えまいか。
つまり自分の歳や容姿が変化していくことに抗っているということだ。達観するという言葉があるけれども、いつまでも達観できないで、そのまま年を重ねて、気がついたときにはもう死が目の前に来ていることに狼狽えるということにならないようにしたいものである。
達観するなどということはそう簡単なことではないのだろうが、以前東京の深川の小さなお堂にいた頃。そのお堂の講の講元が、90過ぎの方ではあったが、ある会合で、こんな言葉をポロッとはいたのを憶えている。「近頃の連中は、いい歳して息子に身代を譲っても、まだ金、金、金だ。なんて世の中なんだろう。全く困ったもんだ」と。
この講には沢山の材木問屋の旦那衆が名前を連ねていた。そんな旦那衆を前にそう言いはなったのであった。人生、それなりに年取ったら、少しは考えを改めたらどうなんだい、というところを旦那衆に突きつけた言葉であった。
考えを改める、それなりの歳、みんなそれぞれの歳なりに思うところが変わってもいいはずなのに、立場が変わっても、なかなかいつまでも現役のまま心改まることを拒否しがちな時代と言えるのではないか。なぜなのだろうか。いつまでも、変わることを拒否する、あきらめる、観念することのない私たちの心。
そこにはいつまでも、そのままの欲、快楽、心地よさを追いかけていたいという思いが残っているからなのであろう。煩悩のままに、いつまでも楽しんでいたい。そんな心をいつまでも引きずっていられる今の世の中なのだと言えよう。言葉を換えたら、欲ボケ、平和ボケなのだと言えよう。
いつまでもこのまま平和な世の中が続く、というのも無常を知らない人の言うことなのかも知れない。大ヤケドをする前に世界はこの平和ボケの人々を、いつまでも大目に見てはくれないことに早く気づくべきなのではないか。誰もが、この欲を追いかけていたい、我が儘なままでいたい、そんな心のせいで、気がつけば、日本の国が国の体をなしていないなどということのないようにしたいものである。
私たち一人一人も、いつまでも、変わらない自分などという寝ぼけたことを言っていないで、変化しつつある自分をきちんと見つめつつ、無常を理解するように心がけるべきなのであろう。そうしてこそ死をも自然に受け入れられる、安らかな最期を迎えられることにもなるのだから。
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無常とは、すべての物が移り変わりつつあるこの世の真理を表現したものではあるが、頭では分かっていても、お釈迦様の言われるこの無常の真理を本当に理解するというのは、実はとても難しいことなのではないか。それを心で認める、分かるというのはきちんと瞑想をしてその真理を体得しなくては叶わないことなのだともいわれる。
誰もが、身近な人が亡くなったときには悲嘆に暮れる。長く患いもう亡くなるのだと分かっていても、その時が来ればそれまでとは全然違うつらさが現れるものであろう。頭では分かっていても、やはりこの無常の真理を本当の意味で理解していない、分かっていないということなのである。
例えば、少し前の話にはなるが、日本の土地は値下がりしないと言われていた。不動産神話があり、絶対に安くなるはずがないと。しかしバブルがはじけてしまえば、あっけなく全国どこの土地であろうと値下がりした。元々ずっと値上がりしていくと思いこんでいたのがおかしかったということになる。しかしその神話を信じてしまったばかりに、全国にかなり多くの人たちがローンの返済や転売に困り、大損を重ねているのが現実なのである。
また、日本は世界一治安のいい国として誇らしく思っていたのはいつ頃までの話であろうか。もちろん諸外国の紛争地域や繁華街など危険な場所は日本の比ではないだろう。しかし、今の日本は以前言われていたような雰囲気ではなくなってしまった。家庭内暴力、無差別殺人。突然行方不明になって、そのまま行方知れずというケースも多い。これもずっとそのままの状態で推移すると思うことが誤りだったという例であろう。何事も無常だと。
また終身雇用も随分昔のことになってしまった。古きよき日本の会社制度は今思えばとても優れていた。それを競争、競争、年俸制だのと言って、外国仕様にしてしまったおかげで、今の会社の従業員には愛社心もない、忠誠心のかけらもないバラバラな、能力だけを切り売りするような風土となり、ストレスに晒され、心を病む人ばかりの会社社会となった。これも無常と言えばそれだけのことであるが、無常はこれからのことにも言える。このままずっと今のままということもない。おかしければ変えていく度量も当然必要だろう。
「近頃の若い者は・・・」とよくお年寄りが言う台詞は、実はいつの時代にも言われていたことらしい。みんな無常、移り変わっていくことが真理なのだとすれば、若い者が違うのは当たり前のことなのに、つい、こうした言葉が出てしまうというのは、この無常ということを認めていない、認めたくないという私たちの素顔を晒す言葉なのだとも言えよう。
では、なぜ私たちは無常を認めたくないのであろうか。結婚したり、子供が出来たりすれば、奥さんであり、お母さんであるのに、いつまでもまだ娘のような自分を追い求める。いつも若々しく、さらには健康であるように様々な健康グッズや薬を常用する。健康でいたいというのは当然のことではあるが、ちょっと度を超した健康至上主義が蔓延しているとは言えまいか。
つまり自分の歳や容姿が変化していくことに抗っているということだ。達観するという言葉があるけれども、いつまでも達観できないで、そのまま年を重ねて、気がついたときにはもう死が目の前に来ていることに狼狽えるということにならないようにしたいものである。
達観するなどということはそう簡単なことではないのだろうが、以前東京の深川の小さなお堂にいた頃。そのお堂の講の講元が、90過ぎの方ではあったが、ある会合で、こんな言葉をポロッとはいたのを憶えている。「近頃の連中は、いい歳して息子に身代を譲っても、まだ金、金、金だ。なんて世の中なんだろう。全く困ったもんだ」と。
この講には沢山の材木問屋の旦那衆が名前を連ねていた。そんな旦那衆を前にそう言いはなったのであった。人生、それなりに年取ったら、少しは考えを改めたらどうなんだい、というところを旦那衆に突きつけた言葉であった。
考えを改める、それなりの歳、みんなそれぞれの歳なりに思うところが変わってもいいはずなのに、立場が変わっても、なかなかいつまでも現役のまま心改まることを拒否しがちな時代と言えるのではないか。なぜなのだろうか。いつまでも、変わることを拒否する、あきらめる、観念することのない私たちの心。
そこにはいつまでも、そのままの欲、快楽、心地よさを追いかけていたいという思いが残っているからなのであろう。煩悩のままに、いつまでも楽しんでいたい。そんな心をいつまでも引きずっていられる今の世の中なのだと言えよう。言葉を換えたら、欲ボケ、平和ボケなのだと言えよう。
いつまでもこのまま平和な世の中が続く、というのも無常を知らない人の言うことなのかも知れない。大ヤケドをする前に世界はこの平和ボケの人々を、いつまでも大目に見てはくれないことに早く気づくべきなのではないか。誰もが、この欲を追いかけていたい、我が儘なままでいたい、そんな心のせいで、気がつけば、日本の国が国の体をなしていないなどということのないようにしたいものである。
私たち一人一人も、いつまでも、変わらない自分などという寝ぼけたことを言っていないで、変化しつつある自分をきちんと見つめつつ、無常を理解するように心がけるべきなのであろう。そうしてこそ死をも自然に受け入れられる、安らかな最期を迎えられることにもなるのだから。
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