住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

年頭に思う

2011年01月05日 20時08分16秒 | 様々な出来事について
今年も元旦の護摩を焚き檀信徒の皆様と共に幕開けした。護摩を焚き終わった頃には近隣からお見えになった初詣の参詣者もまばらで、今年も例年行列をなして鰐口を叩くという老若男女の姿を見ることはなかった。毎年のことながら残念に思う。ところで、皆さんは初詣の賽銭にはいくらくらいを投じたであろうか。

かつて東京の深川にある冬木弁天堂にいたことがあるが、そこでは万札が賽銭に投じられることも稀ではなかった。深川七福神の一つということもあり、それこそ一晩中札所の朱印をもらうために色紙を持った参詣者で賑わったものだ。そして7日まで特設にお堂の中まで土足で上がってお参りできるように設え、七福神に今年一年の福を授けて貰う人、また弁天様ということで、特別に芸事や商売をされている人も多くお参りに来られていた。中には有名な俳優さんやテレビでお馴染みのソムリエなども来られ親しく語らいをしたことを思い出す。

ところで、そうした参詣の折、賽銭を投じて、それでこと足れり、後は神さま仏さまよろしゅうにと私たちは思いがちではないだろうか。しかし、それではやはり片手落ちであろう。たとえば、日頃余りお会いしない人などにものを頼むとき、私たちは菓子折の一つも持って丁重に挨拶し、事の事情を説明し、こちらも努力するので何とかお願いしたいと頭を下げるものではないだろうか。

だとするならば、神さま仏さまに投じる賽銭はどう考えても軽すぎる。菓子折ほどにもならないかもしれない。それでたいそうな願い事を聞き入れてくれると思うのはどう考えても早計であろう。もしそれが挨拶程度のものであるならば、「ならばそなたの行状をしかと見定めてしんぜよう」と神さま仏さまは思われるかもしれない。

そう考えてみると、私たちはあまりにも安易に神頼み仏頼みをしているとは言えまいか。いやいや賽銭も立派な布施、善行であると言う方もあるかもしれない。とするならば、その後の布施に続く仏行である戒と定が、やはり必要となる。それをしっかり行じて初めて慧という果が得られる。善因善果、何事も因果応報がこの世の掟ならば、なおさら私たちは安易な神頼みはあり得ないということをそもそも知るべきであろう。

そんなことは百も承知、それでも正月の一つの仕切り直し、ご挨拶として初詣に参るのであると言われるのであれば、なおさら日頃のお勤めの大切さが分かっておられるであろう。毎日勤めるからこその勤行。仏前に仏飯やお茶湯をお供えして勤行次第を毎朝お勤めなさっておられることであろう。そうしてお勤めをなさっておいでなら、それで終わりではなく、それは何のためなのか、それは自分の生きるということとどう関わりがあるのかをご存知であろう。

勿論経を唱えなくてはダメだというのではない。経を唱えずとも、日頃の行いに気をつけ、自らの心の有り様を観察されるなどすることはいくらでもある。他の人々や生き物と共に良くあるように、自分の物などと狭い考えにとらわれず他と分かち合い、快楽におぼれることなく。相手を思いやり優しく真実を語る。少欲知足を心がけ、誰にも慈しみの心で接して功徳を積み、この世の真実の姿を見据えていくなど。

しかし、勤行次第は読むだけでも一つの行となり、また、そうして仏前に疎かになりがちな仏道への精進を日々誓うものであろう。毎朝、頑張りますと宣言するものなのではないか。それは一生続く。だから仏教徒の人生は精進の一生。最終目標にはお釈迦様の悟りを置いて日々一歩一歩を歩む。勿論それは簡単なものではない。だからこそ歩む意味がある。簡単なものなら一生の、いや何生もの目標たり得ない。何回も何回も生まれ変わって私たちはその目標に向かって生きる。だからいつかその目標が達成される、つまりは悟りの可能性が誰にでもあるのだとも言える。

そして、だからこそ一家で一番尊いものとして仏壇を一番その家の上(かみ)に祀り、その最上部に仏さまを仰いでおられるのではないか。仏壇こそ私たちの生きるすべてを教えて下さっているとも言えよう。その形はこの世の生命のあり方を教え、仏像の澄みきった眼差し、落ち着いた姿勢、静寂、高貴な佇まいは、人としての最高の生き方を教え、たくさんの位牌は人とは死すべきものであるとも教えている。お供えした花もじき萎れ枯れていく。掃除をして綺麗だと思ってもすぐにホコリが目に付くようになる。何事も無常であることを明らかにそこに見せてくれる。時を無駄にせず、何が大切で、どう生きるべきか。そこから私たちは何を学び、日々生きる糧と出来るであろうか。

お天道さまが見てござる。昔の人はそう考えられた。すべてのことに原因がある。すべてのことはそれによって結果する。因果が巡り巡る。すべてのことはあるべくしてある。それはとても厳しい、おそろしい、怖いことでもある。だから、日々精進せよとお釈迦様は最後におっしゃられたのであるまいか。・・・・・。


(追記) 

お参りをして下さるのはありがたいことです。そこからどのように人々の信仰なり信心なりを発展させていけるか。それが大切なことだと思っております。ただ手を合わせ賽銭を投じるだけの行為から、少しいろいろなことに関心を持つ。お寺や神社があれば、何か素通りできない。どんなところかと関心を持つ。手を合わせる。何をしていても、目に見えない何事かの力を感じそれらにありがたく思う。そんなところからひとり一人の人たちが何か目覚めるものがあればいいと思っています。


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コメント (10)
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