住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
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阿含経典を読む 2

2013年03月06日 16時53分19秒 | 仏教書探訪
ここで取り上げる「阿含経典・全六巻」(筑摩書房刊)は、都留文科大学学長だった増谷文雄先生によって、漢訳四阿含のうちの雑阿含、ないしパーリ五部の相応部経典が訳されたものである。雑とは短小なる経の収録を雑砕せるものとの意で、相応とは、同じ類の経を結合せるものとの意味であるという。つまり、同じ内容の種類をもって編集された経典の収録である。

「マハーナーマ」

第3巻預流相応に「マハーナーマ」と題する経典があります。お釈迦様が生まれ故郷の釈迦族の国を訪れて、カピラヴァッツにおられたときのお話です。そこへ釈迦族のマハーナーマという在家者が、多分この人はかなりの高官に違いないと思われるのですが、お釈迦様がおられるところへ来て礼拝し、かたわらに座り尋ねます。

「カピラヴァッツは、富み栄え、民多く、雑踏しています。私は世尊や比丘たちに奉仕し終わって、城に入ると、狂奔するゾウや馬、揺れ動く乗り物に遇い、すると世尊を念じ、教法を念じ、僧伽を念ずることを忘れます。もし、その時私が命終わりましたら、いずれの処に生を享けるでありましょうか」

するとお釈迦様は「恐れることはない、マハーナーマよ。そなたには、けっして善からぬ死、恥おおき命終はないであろう。もし、ながきにわたって、その心を信を持って充し、その心を戒をもって充し、その心を聞くことをもって充し、その心を施捨をもって充し、また、その心を智慧をもって充満したならば、たとい、この物質的肉体、すなわち四大の成すところの、父母によって生まれ、食べ物を食べて育ち、そして、移ろい変わり、砕け散って、ちりぢりばらばらになってしまうこの身は、あるいは鴉や鷲、鷹、狗、野干の食むところとなっても、ながきにわたって、信をもって充し、・・・また、智慧をもって充せる心は、かならず上昇し、かならず最高処にいたるであろう」と、彼の人となりをご覧になられ確信をもってそう言われたのでした。

世尊であるお釈迦様、その教え、そしてその教えを生きる人たちへの信、それは単に信じるということを越えて、常に心の中に厳然と沸々とあって、自らの行いや言動や思いに能動的にはたらいている、生きている。そこまでの信があって、さらに戒、在家者であれば五戒に対する厳然たる戒めをもって生き、それによって心静まり、禅定に入る用意としての規則正しい規律ある生活をしている。また、これまでに聞いた説法を心に大切に保ち、さらに、施捨という他に施し他が満たされてあることを心からよろこび、そうあらんことを願う。なれば、この身が例えその時に獣に食まれるような状態でこの世を去ることになったとしても、何の心配も要らないということなのであります。

そして、それはあたかも、前回でも出てきた、ふかい池に酥(バター・オイル)もしくは油の入った瓶を投げて割ったとして、破片は沈むけれども、その酥もしくは油は浮かんで水面にいたるのと同じことなのだと諭されます。だから恐れることはない、そなたはけっして善からぬ死、恥おおき命終はないであろうといわれ、この経典は終わっています。

ここでお釈迦様の言われる善からぬ死、恥おおき命終とは、決して身体のこと、物質としての存在を言うのではなくて、心の存在が次にどうなっていくのかということを言われているのです。それに対する心配は不要であると。身体はたとえ不慮の事故などによって獣に食われることがあってむごたらしい最期を遂げたとしても、何も心配することなく善き来世が得られるということなのです。大切なのはどのような次生、来世に迎えられるかということなのだと言えましょう。

震災があり、多くの人が津波で非業の死を遂げたり、原発の事故でそれこそ惨たらしい死を迎えた人もあったことでしょう。たとえそうであったとしても、それは関係ないのだと、それまでの生前の行いによって、ちゃんと迎えられるべき処へ迎えられ逝くべきところへいっているかが大事なことなのであって、それは命終時の様子には関係ないということなのでしょう。お釈迦様は生前の善業によって死後のことは恐れることはないとはっきり約束して下さっています。ですが、逆に言えば、最期を安楽に迎えられたからといって安心は出ないぞということでもあるのです。やはり、いかに生きているか、どう生きてきたか、それが大切なのだと、この経典は教えてくれています。

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コメント (6)
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