六十六番雲辺寺は徳島県にある。が、札所としては、ここからが涅槃の道場、讃岐の国に入る。
弘法大師が若き日にこの地にいたり、霊気にうたれて一宇建てたと伝承されるが、唐から帰朝後大同二年に巡錫の折に、秘密灌頂の儀式を行ったとも言われる。その後嵯峨天皇の勅により、千手観音を刻み本尊として安置した。
四国高野とも呼ばれて学侶が集い七堂伽藍が整って、末寺八か寺を擁する巨刹となるものの戦国時代には兵火にかかり、江戸時代蜂須賀家の庇護により再興されたと伝えられている。
丁度本堂建て替えの時期に当たり小さなプレハブの仮本堂の前で読経。大師堂は大きな宝形造りの庇の中で般若心経一巻。昨日の暑さが嘘のようにひんやりする中、椿堂で頂戴したお弁当をベンチに座って食べる。
それからロープウェイの乗り場付近にある展望塔を訪ねた。大きな毘沙門天が立つその展望塔には、昨年高知の護国寺の座禅会でお会いした禅僧が坊守をされていると聞いていた。小さな部屋で坐禅するように座られていたがにこやかに迎えてくれて、しばし歓談。五十を過ぎてこの道に入られたが、なかなか居場所に恵まれないというような話をされていたと記憶している。
山道を下る。下界は温かい。山道から車道に合流して、県道二四〇号線をひたすら歩く。岩鍋池に沿うように歩き、しばらく行くと田圃が広がるのどかな風景の先に大興寺があった。
到着して石段を上がろうとしたら、車で来ていたご婦人に話しかけられた。炊き込みご飯は要らないかと言う。いただけるものは何でも頂戴しますと答えたのだったか、とにかく、待っているからお参りしてこいと言う。石段を駆け上がり、本堂と大師堂で読経して、あんまり時間がかかったのでもう居ないだろうと思ったら待っておられた。次の札所まで車のお接待をして下さるというので、車に乗り込む。
因みに、六十七番大興寺は、天平年間に東大寺の末寺として建立されたとも、嵯峨天皇の勅願により弘仁十三年に弘法大師が開山したとも言われているが、中世には天台、真言両宗の修行道場として栄えたという。が、天正年間に長宗我部元親による兵火で焼失、その後再興されたのが現在の建物。現在でも境内に弘法大師を祀る大師堂と、中国の天台智(ちぎ)を祀る天台大師堂があって、今は真言宗に属しているが、宗派色を感じない不思議な雰囲気のあるお寺である。
Yさんは、業務用のようなライトバンに私を乗せて、次なる神恵院と観音寺に向かった。歩いたら二時間はかかる距離も車なら二十分ほどだったろうか。観音寺の駐車場は、大型バスでひしめいていた。ここは一か所に二つの札所のあるところとして有名である。
六十八番神恵院は、琴弾山(ことびきやま)の頂きに鎮座する琴弾八幡宮がもともとの六十八番札所であったという。神恵院は八幡宮の神事を司る別当寺で、もとは神宮寺宝光院という名称だった。明治の神仏分離令に当たり八幡宮と分離したため、麓にあった観音寺境内に神恵院を移したのだという。
そもそも琴弾八幡は、法相宗の日証上人がこの地に草庵を結んでいたとき、沖に舟に乗った琴を弾く翁を見たので、浜に下りると「我は宇佐八幡大明神である」と告げたという。そして、上人がその舟と琴を山頂に祀ったのが琴弾八幡宮の開基となっている。
神恵院の本尊様は八幡神の本地仏阿弥陀如来。弘法大師が大同二年に巡錫して、この寺の第七代住職となり、この時琴弾八幡の神船は神功皇后ゆかりのもので観音様の化身と感得されて聖観音像を刻して安置。さらに仏塔建立の折、瑠璃、珊瑚、瑪瑙などの七宝を埋めて地鎮祭を行ったことから七宝山観音寺と寺号を改め、別に霊場としたのだという。
どっしりした金剛力士像に睨まれ、仁王門をくぐり、石段を登るとひときわ彫刻の立派な鐘楼堂が眼に入る。境内中腹に神恵院の小ぶりの本堂があり、下に重要文化財の観音寺本堂を拝む。
この翌年遍路した際にはここで丁度夕刻になり通夜堂をお願いしたところ、御詠歌の練習のための古い建物に案内されて休ませていただいた。
この時はやはり既に夕刻になろうとしていたが、Yさんが境内の端で待っていて下さって、まだ接待するからと次なる本山寺までご一緒した。本山寺までは四・五キロ。十分ほどだったが既に暗くなりかけている。私は寝袋があるので本山寺の境内で瓦置き場に入り込み休むことにしたが、Yさんは近くの遍路宿へ泊まられた。Yさんからいただいた炊き込みご飯を食べてこの日は横になった。街中だったが静かな夜。思いもかけず同行Yさんの出現で歩を伸ばすことができた。これも、歩き遍路の妙と言えようか。
(よろしければ、クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)
にほんブログ村
弘法大師が若き日にこの地にいたり、霊気にうたれて一宇建てたと伝承されるが、唐から帰朝後大同二年に巡錫の折に、秘密灌頂の儀式を行ったとも言われる。その後嵯峨天皇の勅により、千手観音を刻み本尊として安置した。
四国高野とも呼ばれて学侶が集い七堂伽藍が整って、末寺八か寺を擁する巨刹となるものの戦国時代には兵火にかかり、江戸時代蜂須賀家の庇護により再興されたと伝えられている。
丁度本堂建て替えの時期に当たり小さなプレハブの仮本堂の前で読経。大師堂は大きな宝形造りの庇の中で般若心経一巻。昨日の暑さが嘘のようにひんやりする中、椿堂で頂戴したお弁当をベンチに座って食べる。
それからロープウェイの乗り場付近にある展望塔を訪ねた。大きな毘沙門天が立つその展望塔には、昨年高知の護国寺の座禅会でお会いした禅僧が坊守をされていると聞いていた。小さな部屋で坐禅するように座られていたがにこやかに迎えてくれて、しばし歓談。五十を過ぎてこの道に入られたが、なかなか居場所に恵まれないというような話をされていたと記憶している。
山道を下る。下界は温かい。山道から車道に合流して、県道二四〇号線をひたすら歩く。岩鍋池に沿うように歩き、しばらく行くと田圃が広がるのどかな風景の先に大興寺があった。
到着して石段を上がろうとしたら、車で来ていたご婦人に話しかけられた。炊き込みご飯は要らないかと言う。いただけるものは何でも頂戴しますと答えたのだったか、とにかく、待っているからお参りしてこいと言う。石段を駆け上がり、本堂と大師堂で読経して、あんまり時間がかかったのでもう居ないだろうと思ったら待っておられた。次の札所まで車のお接待をして下さるというので、車に乗り込む。
因みに、六十七番大興寺は、天平年間に東大寺の末寺として建立されたとも、嵯峨天皇の勅願により弘仁十三年に弘法大師が開山したとも言われているが、中世には天台、真言両宗の修行道場として栄えたという。が、天正年間に長宗我部元親による兵火で焼失、その後再興されたのが現在の建物。現在でも境内に弘法大師を祀る大師堂と、中国の天台智(ちぎ)を祀る天台大師堂があって、今は真言宗に属しているが、宗派色を感じない不思議な雰囲気のあるお寺である。
Yさんは、業務用のようなライトバンに私を乗せて、次なる神恵院と観音寺に向かった。歩いたら二時間はかかる距離も車なら二十分ほどだったろうか。観音寺の駐車場は、大型バスでひしめいていた。ここは一か所に二つの札所のあるところとして有名である。
六十八番神恵院は、琴弾山(ことびきやま)の頂きに鎮座する琴弾八幡宮がもともとの六十八番札所であったという。神恵院は八幡宮の神事を司る別当寺で、もとは神宮寺宝光院という名称だった。明治の神仏分離令に当たり八幡宮と分離したため、麓にあった観音寺境内に神恵院を移したのだという。
そもそも琴弾八幡は、法相宗の日証上人がこの地に草庵を結んでいたとき、沖に舟に乗った琴を弾く翁を見たので、浜に下りると「我は宇佐八幡大明神である」と告げたという。そして、上人がその舟と琴を山頂に祀ったのが琴弾八幡宮の開基となっている。
神恵院の本尊様は八幡神の本地仏阿弥陀如来。弘法大師が大同二年に巡錫して、この寺の第七代住職となり、この時琴弾八幡の神船は神功皇后ゆかりのもので観音様の化身と感得されて聖観音像を刻して安置。さらに仏塔建立の折、瑠璃、珊瑚、瑪瑙などの七宝を埋めて地鎮祭を行ったことから七宝山観音寺と寺号を改め、別に霊場としたのだという。
どっしりした金剛力士像に睨まれ、仁王門をくぐり、石段を登るとひときわ彫刻の立派な鐘楼堂が眼に入る。境内中腹に神恵院の小ぶりの本堂があり、下に重要文化財の観音寺本堂を拝む。
この翌年遍路した際にはここで丁度夕刻になり通夜堂をお願いしたところ、御詠歌の練習のための古い建物に案内されて休ませていただいた。
この時はやはり既に夕刻になろうとしていたが、Yさんが境内の端で待っていて下さって、まだ接待するからと次なる本山寺までご一緒した。本山寺までは四・五キロ。十分ほどだったが既に暗くなりかけている。私は寝袋があるので本山寺の境内で瓦置き場に入り込み休むことにしたが、Yさんは近くの遍路宿へ泊まられた。Yさんからいただいた炊き込みご飯を食べてこの日は横になった。街中だったが静かな夜。思いもかけず同行Yさんの出現で歩を伸ばすことができた。これも、歩き遍路の妙と言えようか。
(よろしければ、クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)
にほんブログ村