住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

オカゲサマデ

2015年01月08日 19時47分57秒 | 仏教に関する様々なお話
正月3日の朝日新聞一面に、ハワイの日系三世がハワイ知事になり、その就任式で、日本語で、オカゲサマデ、コドモタチノタメニ、という言葉を入れて話をしたとあった。オカゲサマデ、日本でも死語になりつつある言葉なのかもしれないが、それがハワイで語られ、それも日本語で発音されて語られた意味は深いものがある。オカゲサマデという言葉の背後には、みんなつながっている。みんな無関係ではない。みんなのお蔭で自分があるという感覚がある。

これはそもそも仏教で言うところの縁起という考えから発しているものだと私は思っていた。みんな縁りて起こる。他のものの影響、作用によって、変化し、成り立っているもの。袖触れ合えば他生の縁とも言う。わずかな関係でも、それが縁となり、その先様々な変化影響のもとに発展し、結果をもたらしていくということだ。

相互に関係し、相互に依存する関係性。そういう関連したものを肌で感覚としてとらえ、日本人は昔からお陰様で生きております。この通り何とか頑張っておりますという気持ちとして表現してきた。しかしそれも風前の灯火。今の学校の先生で他生の縁という言葉を正しく解釈できる人が少ないのだとも新聞にあった。既に死語になりつつあるのかもしれない。

そんなことを3日の記事を読みながら考えていたら、4日のやはり朝日新聞には、オピニョンという紙面に、人類学者の川田順造教授のインタビュー記事が掲載されていた。そこには、誠に意味深い考察の末に絞り出された叡智の言葉が綴られていた。

「悲しき熱帯」の著者レヴィ・ストロースを師と仰ぎ、アフリカの文字を持たない未開の地に入り研究された先生ならではの体験から、今私たちは自然や生き物、人々とのつながりを閉鎖する情報社会に埋もれて、心地よい閉鎖環境の中に孤立するが故に、少子化など様々な閉塞状態に迷い込んでいるのではないかと考察する。

本来、他と共に危険をおかし、食を獲得し、分け合い、生き延びてきたから今の人類の発展がある。人類は、過酷な自然環境の中で、他との共存、共同の中で他との折り合いをつけ、自己を抑制して精神的な成長を経て、他と助け合いしながら、今日の繁栄を見た。

豊かになると幼児化が進むとも言われる。各国の為政者たちを見ていると、また、何でも世の中の風潮だからと受け流してしまう今の日本人、子供たちの言うままに結婚しなくてもいい、子供を産まなくてもいいと言って、さもそれが物わかりの良い進歩した現代人とでも言うような物言い、まさに私たち人類はいま幼児化しているのかもしれないと思わせるものがある。人の役に立とうという意識、弱い者へのいたわりといった倫理が薄れてもいるとも指摘する。

今の時代への提言として、他の人々自然とつながろうとする感覚が大切、他の生き物の命で生かされているという感覚により自然とのつながりを取り戻すことが大切だとも、先生は言われる。私たちは、これまで死んでいった人たち、これから生まれようとする人たちを繋ぐ、つながりの一部に過ぎないとも言われる。命のバトンを繋ぐ一つの部品に過ぎないという謙虚さと、共にあるから生きているという感覚を大切にすべきなのであろう。

つながっているという感覚。それは仏教から日本人は学んだのであろうと思っていたが、それはもっと古い時代から人類が学び生き続けてきた証としての感覚であることを川田先生から学ぶことができた。オカゲサマデという感覚、そして誰もがそのような意識を持って生きてきた日本は美しい人々の喜びに溢れていたであろう。

今閉塞感の中で喘いでいる現代人も、少し前の時代の感覚を呼び覚ますことはそう難しいことではないだろう。仏壇の上に祀られた先祖の遺影を今一度眺め、先祖代々の生き様を想像することでそれは蘇るはずだ。お陰様で今こうして私は生きさせていただいていますという思いを新たにするだけで良いのだから。



(よろしければ、クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする