住職のひとりごと

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「アナガリカ・ダルマパーラ著シャキャムニ・ゴータマブッダの生涯」に学ぶ①

2016年10月16日 10時28分32秒 | 仏教書探訪
 この本はいつ手に入れたものなのか。よく憶えてはいないのですが、かれこれ二十年も前のことになろうかと思います。インド・ベナレスのガンジス河近くのバザールの一角、チョーク街にモティラル・バナラシダースという出版社があり、そこに出向き、仏教書などを物色した際に買い込んだ中の一冊だったのだと思います。

 著者であるダルマパーラ(一八六四―一九三三)という方は、明治から昭和の初年頃まで、在家者として熱心に仏教の復興のために生涯を捧げたスリランカ人の仏教啓蒙運動家です。当時スリランカはイギリスの植民地で、キリスト教に改宗しなくては出世もできない社会でしたが、ニューヨークに神智学協会を創立し初代会長となるH.S.オルコット大佐らの協力を得てスリランカの人々に仏教徒としての自覚を促しました。インドに渡っては、インドの荒れ果てた仏教聖地の復興に尽力され、また日本にも四度も来訪した親日家でもありました。さらには、西洋世界に向けて余り知られていなかった仏教についての様々な情報を発信し、支援者を募るということもなされた先駆者でした。今私たち日本人も含め世界中の仏教徒がインドに行き、仏教聖地を巡礼できるのもみんなこの方のお蔭なのです。

 前置きはこのくらいにして、この「シャキャムニ・ゴータマ・ブッダの聖なる教え(The Arya Dharma of Sakyamuni Gautama The Budhha)」と題する、ダルマパーラ師が一九一七年に出版された本の中に、わずか二十三頁ですが、表題のお釈迦様の生涯について書かれた章があります。

 読むと、日本語で書かれた仏伝にはない南方の仏教徒に伝承された独特な大変興味深い記述がたくさんあり、また改めて彼らの信仰の篤さを感じさせてくれます。少しずつ翻訳した内容を紹介し、わかりやすく解説して参りたいと思います。
 先ず、冒頭こんな書き出しから始まっています。

「四阿僧祇とも十万劫ともいわれる果てしない昔のことでございます。私たちの世に現れたお釈迦様のように、完全にお悟りになられ、まこと慈悲深き全知者であられたディーパンカラというブッダがおられた頃のことからお話しを始めなくてはなりません。」

 仏伝なれば、お釈迦様の誕生から、もしくはその当時の社会の様子から始まってもよさそうなところですが、こうして果てしもない四阿僧祇劫というような過去から書き始めています。
 これには私たち生命は何度も何度も生まれ変わりしてきている、それは無始といって、はじまりのない過去からずっと転生、再生を繰り返えしてきているという認識があります。その考えの基に、お釈迦様のようなお方はそれに相応しい過去の生まれ変わりをされてきているはずだと考え、そう信じられているのです。
 阿僧祇とは、数えることもできない無数という意味の言葉で、劫とは、一由旬(約十四.四㎞)四方の大きな石を百年に一度柔らかい布で払ってその石が無くなっても終わらないという永い時間のことです。その果てしない過去に、お釈迦様の前に七仏ないし二十五仏もの過去仏がおられたと考えられています。その二十五仏の最初の過去仏で、お釈迦様に仏になると授記をしたブッダとして知られるディーパンカラ・ブッダとの出会いから物語が始まります。

「その同じ時代に、まこと信心深きバラモンであるスメーダという修行者がおりました。彼は若くして先祖の莫大な財産を相続したのでしたが、その七代にも亘る先祖たちは世代ごとにふくらんでいく莫大な富を積み増していくことだけに精を出し、慈善のために使うことはありませんでした。そこで、スメーダは、世界中のよきことにそれらを使おうではないかと思いつきました。
 そこで、家人たちに、この家の蓄積された富は慈善のために用いるつもりだと宣言をし、たった七日の間にそれらの莫大な富を貧しいものたち、必要とする人たちのために与えていきました。そして、その七日目には、彼はこの世の楽しみをみな放棄して、聖なる修行者として、成し遂げるべき修行のためにヒマラヤ山に登っていきました。まもなく、彼は五神通と八成就を成し遂げ、神々のいる天界に空へ浮遊して登ることができるようになっていました。」

 この時代には、お釈迦様はスメーダという名の信心深い一人の行者であったということです。相続した財産を自分で使うことなく人々に施し、徳を積んですべての享楽を捨ててヒマラヤ山に籠もり修行なされたとあります。
 五神通とは、人の未来を予知する天眼通、通常聞こえない音を聞く天耳通、他者の心を見抜く他心通、自分ないし他者の過去を知る宿命通、空中を飛行したり水上を歩いたり、身を大小にしたり一身を多身にする神足通の五つの修行中に現れる超能力のことです。
 また、八成就とは、初禅、第二禅、第三禅、第四禅と禅定を深め、さらに空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処へと、これら八段階の禅定状態のことで、そうして悟りの前段階まで修行を極められたということです。

「ある日、ヒマラヤからアマラヴァティという街に降り立ったスメーダは、人々が通りや家を忙しそうに飾り立てているのを目にしました。彼は街の人たちに、誰のために街を綺麗にしているのか、と尋ねました。すると彼らは聖なるディーパンカラ(燃燈)・ブッダのためであり、彼の名にちなんで飾り立てているということでした。ブッダという言葉を耳にすると彼の心には喜びの灯がともり、歓喜で身体中に戦りつが走ったのでした。

 そして彼は自分もまた通りを一部分でも飾ることで自分のブッダに対する尊敬の気持ちを表そうと思いました。そして彼らに自分も一部分でもよいので飾らせてくれるようにと頼みました。聖なる修行をしてきたバラモンである彼にはそのスピリチュアルな超能力で簡単にやることもできましたが、彼は自分の手で道を飾り始めました。

 ですが、彼の仕事が済む前に、ブッダが、黄色い袈裟を纏ったお悟りになられた阿羅漢の一群とともにお越しになられるのが見えました。その時その敬けんなるバラモンはブッダに我が身を捧げることを決心し、顔を下にひれ伏し、身体の上をブッダに歩いてもらえるように身体を前に伸ばしました。ブッダはこの信心深い男の所にやってくると、彼を見て止まり、手招きしておっしゃいました。『信心深き男よ、そなたがもし望むなら、阿羅漢となりねはんを得るであろう、そして私のようにブッダとなるであろう。四阿僧祇ないし十万劫の後に、釈迦という種族に生まれ、父はスッドーダナ王、母はマーヤー王妃として、ゴータマの名の下に生まれ、ブッダとなり、何百万という数え切れないほどの人々を輪廻の悲しみから救うであろうと予言する』

 そう言われて、抱えきれないほど沢山の花束を未来のブッダに差し上げると、それを聞いていたすべての人々はスメーダがブッダとなり、彼によって救われることを喜んだのでした。」

 ブッダが修行者に対して将来必ず仏となることを予言し保証を与えることを授記というのですが、まさに、お釈迦様がディーパンカラ・ブッダから授記を受けるという場面です。

 かなり高度な修行をなしていたにもかかわらず、ブッダの存在に敬意を表し、さらにその身を挺して供養しようとする清らかな心にして初めて授記が適ったということだと思います。

 果てしない未来のことにはなるのですが、こうしてお釈迦様は、釈迦族に生まれブッダとなり多くの人々を救うのだと授記されたことによって、一つの確信を持って、ブッダになるに相応しい、さらなる徳を身につけていくということになるのです。

「そして、信心深きスメーダは、この時、布施、持戒、出離、智慧、精進、忍辱、真諦、決意、慈心、捨という、ブッダとなるために必要な『十の波羅蜜』を成し遂げることを決意しました。

一、布施波羅蜜とは、完全なる慈善であり、人生、財産、血、肉体、目、子供、妻をも施してしまうことです。
二、持戒波羅蜜とは、徳行の道から逸脱することのない完全なる道徳的行いをすることです。
三、出離波羅蜜とは、性的な歓びを放棄し、慈しみと聖なるものを求める聖者としての人生を熱望することです。
四、智慧波羅蜜とは、普通の人の理解を超えた自然界の法則すべてを把握する完全なる智慧であり、神々と人間の知識を超越した悟りの智慧を獲得することです。
五、精進波羅蜜とは、死ぬまで困難に屈せずに絶え間なく努力し、継続することです。
六、忍辱波羅蜜とは、どんなことにも我慢し許すことです。たとえ身体がバラバラに切り刻まれようと、怒りの言葉を吐くことなく、ただ愛の心が怒りを説き伏せねばなりません。
七、真諦波羅蜜とは、死の間際まで真実そのものであること。死の傷みにさえ嘘を吐くことなく、真実は虚偽を打ち負かす武器なのです。
八、決意波羅蜜とは、最高の善なる行いをなすための意志の力を養うことです。彼を絶望させるような障害なく、怖れない意志を持って完成に至るまで継続することです。
九、慈心波羅蜜とは、すべての生きとし生けるものに慈愛の心を広げることです。お腹にいるまだ見ぬ子供に対するお母さんの愛情です。
十、捨波羅蜜とは、完全なる平等なる心であり、友も敵もなくすべての者に分け隔てのない、同じ良い感情を持つことです。」

 波羅蜜とは、パーラミター、此岸に対する彼岸のことであって、そこに到達すべき状態ないし、そのために実践すべき徳目をいうのですが、大乗仏教なら六つの波羅蜜を説くのですが、南方仏教では十項目に分けて、ブッダという最高の目標を掲げ成就するために特別に修行すべきものとされています。

 三の出離波羅蜜は、一般には出家をして、心も身も欲を避けることをいうようです。七の真諦波羅蜜は、わかりにくいのですが、話すことも行いもまた心の中でも真実を貫き嘘偽りのまったくないことをいいます。また十の捨波羅蜜には、喜びや悲しみ不安、好き嫌いなどの感情にも揺らぐことなく平静な心を保つことも含まれています。

「ブッダが、スメーダは正等覚者となるであろうと予言した瞬間から、彼は次なるブッダであり、このゆえにこれから先には菩薩大士として知られることになります。彼は他のどの生き物よりも勝れており、彼の願いは実現されるのです。彼は動物、神、ブラフマー神として生まれ変わるかも知れませんが、金色の糸はそれらの生の後先に繋がり、途絶えることはありません。

 そして、四阿僧祇劫ないし十万劫もの間、完璧な歩みを重ねるに違いなく、いくつもの生を重ね、彼は波羅蜜を果たしていったのです。いくつかの人生で彼は、慈善の波羅蜜を実現し、その他の人生では他の波羅蜜を果たし、その道から逸脱することも悪を為すようなこともあり得ないことでした。」

 大乗仏教では仏となるために修行する者すべてを菩薩と言い習わしていることはよく知られていますから、私たちがここで「菩薩大士として知られる」と読んでもそれほどの感激を抱くこともないのですが、「彼は次なるブッダであるが故に菩薩として知られる」というところに着目すべだと思います。誰でもが菩薩と言われることはなかったということであり、次なるブッダとして授記されたが故に菩薩と呼ばれたということを私たちは憶えておかねばならないでしょう。ご自身を菩薩と思われる方は、特にそのことをわきまえて自覚すべきだということかと思います。

 そうして何度も生まれ変わりしながらこの敬けんなる修行者として菩薩はたくさんの波羅蜜を成し遂げつつ転生されたということです。

「ディーパンカラ・ブッダのもとで、ねはんに到達することも可能でしたが、自らブッダとなり世の中を救うために、その安直な方法を放棄しました。彼には罪とがなく、世界のため生きとし生けるものたちのために蓄積した功徳のみがあります。世界の幸福のために善きすべてのことをなし、彼の中にまったくエゴはありません。彼は自分が将来ブッダになることを知っていましたから、自分の為すべき事を為しつつ、我慢強く待ちました。菩薩としての直感的な知識を獲得し、容易に波羅蜜を満たしていきました。将来世界を救うという役割を担っていくという自覚から、よろこんで他の生き物に身を捨てて命を捧げるのでした。彼スメーダはあらゆる生きとし生けるものたちの中で最も優れた存在でありました。」

 ありとあらゆる善きことをなしつつ、徳を積み、その時を待たれていたということでしょう。


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コメント (2)
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