住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

功徳を積むにあき足ることなし

2019年06月03日 17時08分26秒 | 仏教に関する様々なお話
功徳を積むということをインドなどではよく口にします。「プンニャ・カルマ・イカッター・カルネー・ケリエ」(ヒンディー語で、功徳を積むために)などといって、インドのお寺で掃除をする仏教徒たちがよく口にしていましたが、彼らは些細なよい行いをして、できればたくさんの功徳を積んでおきたいと考えています。それは何かあったとき、その功徳のおかげで助けられたり、うまくいくことを知っているからです。

私たちがよくお唱えする廻向文の中にも、「この功徳を以て普く一切に及ぼし」とある様に、読経した功徳によってすべての者たちがよくありますようにと願います。ですから私たち誰もが功徳ということをよいものと分かっているのですが、だからといって、普段特別に功徳を積みましよう、功徳を積んで何か願いごとがかなうようにということもしませんし、こんな善いことを私はしたんですと、口にしたりもいたしません。

中国の唐中期の詩人に白楽天という方があります。この方は杭州蘇州などの地方官をされていますが、杭州に赴任したとき、この地に道林禅師という高名な僧が居られることを知り訪ねています。大木の上にのぼり何日も座禅をすることで有名な方であったそうですが、訪ねていった白楽天は、「長年修行をされているとのことだが、仏教を一言でいうとどういう教えであるか」と問うたそうです。これに対し道林禅師は、「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」( 悪いことをせず善いことをして自ら心を浄めること、これが諸仏の教えなり)と答えたといいます。

すると、白楽天は、「そんな三歳の子供でもわかるようなことではなく仏教の深遠なる教えを尋ねているのだ」と言ったそうです。道林禅師は、「三歳の童子これを知ると雖も白髪の老人行いがたし」と返答し、これに返す言葉もなく白楽天は帰っていったということです。道林禅師は、白楽天の高慢な態度をたしなめられたのかも知れませんが、インド人と違って普段功徳を積む、善いことに励むということが宗教観として根付いていないことからくる文化的違和感によるものといえるのかもしれません。

歳を重ねるに従い、何でも自分の思い通りになるが故にかえって、悪いことをせず、善いことに励む、そして謙虚に他を重んじるということは難しくなるものです。お釈迦様の時代にこんな話がありました。お釈迦様の弟子には王様からアウトカーストの人々まで様々な階層の人たちがありましたが、中でもお釈迦様と同じ釈迦族出身の弟子たちには多くの勝れた弟子がありました。成道後二十年ほどして出家したアーナンダはその後お釈迦様が亡くなるまで侍者を勤めるのですが、このアーナンダと一緒に出家した人の中にアヌルッダという高貴な裕福な家の子弟がありました。

アヌルッダは、あるときお釈迦様がシュラーパスティという大きな商業都市のスダッタ長者の寄進による祇園精舎で、たくさんの聴衆を前に法話をされているときに居眠りをしてしまいます。法話を終えたお釈迦様はアヌルッダを呼び、「そなたは良家に生まれ、されど道を求める心かたく出家をしたのに、衆人の中で座睡したのはいかがしたのであるか」と問われました。アヌルッダは威儀を正しひれ伏して「以後たといわが身がただれ手足が溶けようとも如来の前にあって座睡することはいたしません」と誓い、それより不臥不眠をもって自己の行とされたのでした。

横にならず眠らず、それにより、眼病を患い、お釈迦様も心配してジーヴァカというお釈迦様の侍医にも診療させたのでしたが、少しでも眠れば目も治るものをといったということです。そして、遂にアヌルッダは失明したのでありましたが。かわりに天眼を得て天眼第一と言われるようになりました。天眼とは、通常の人が見ることの出来ない、自他の過去世を見る能力のことです。

そして、それからどれだけの時が過ぎた頃のことか、アヌルッダが精舎にあって、袈裟のほころびを直そうとしたところ、針の穴に糸を通すことが出来ず、心の中で「世の諸々の聖者の中でわがためにこの針の穴に糸を通してくるものはないだろうか」と念じると、お釈迦様が彼の心中を察して、「アヌルッダよ、私が糸を通してあげよう」と声を掛けられました。アヌルッダは驚いて、「世尊よ、とんでもない、誰か福分を積み功徳をつもうとするものがあれば、私のために針に糸を通してくれないかということでした」と。

すると、お釈迦様は、「私に福分を積ましてくれてもよいではないか、功徳を求めることでは私に過ぐるものはないであろう」。この言葉にアヌルッダは驚き、「世尊は、無為にして、いまさら何の求むるところがありましょう、生死の海を渡り、一切の愛着を脱しておられるのに、何のために福徳を求められるのでしょうか」と問われました。お釈迦様は「如来は六法においてあき足ることなしという、すなわち①施②教誡③忍④説法⑤慈⑥求道である」と諭され、たとえ如来といえども、求むるところこれでよしということはないのだと教えられたのでした。

確かに、成道された後にお釈迦様は寸時を惜しんで、縁ある多くの衆生に教え諭され、四十五年ものあいだ常に伝道の日々を重ねられています。このアヌルッダの話を伝える経の最後に添えられた偈文に、「この世のあらゆる力のうち、福徳の力こそ最も勝る、人天の世界にこれに勝るものなし、仏道もまたその力により成る」とあります。

私たちも、もうこれでよしということはなく、日々精進あれということでしょう。何事も因果応報、善因楽果、悪因苦果。自らの行いはしてしまってそれで終わりということはないということでしょう。何よりも、今生においてよくあるために。また来世にいっても、ものをいうのはこの功徳しかないのですから。自分にも他者にもよくあることを積み重ねることに尽きるのです。この世のこの刹那のことにしか関心がなく、いまの感情に支配されて他を苦しめたりしていたら、功徳の積みようもなく、後々先にいって困るのは自分なのだということに、現代に生きる私たちも思い至らねばならないのではないでしょうか。

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