住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
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なぜ葬儀は必要か-初護摩後の法話より

2020年01月21日 18時46分38秒 | 仏教に関する様々なお話
初護摩後の法話

背中にお日様のあたる良い天気の中こうして皆様からお申し込みのたくさんの添え護摩木を焚かせてもらって今年最初の初護摩、初大師を誠に有り難くお勤めさせていただきました。ありがとうございます。いい正月をお過ごしいただけましたでしょうか。

年初には、イランの民兵組織の最高司令官スレイマニ氏がアメリカのドローン攻撃によりイラクで殺害され、その五日後には、イランがアメリカのイラク駐屯地を爆撃するという報復によって、あわや第三次世界大戦勃発かとの憶測が流れ、どうなることかと思われましたが、何とか穏やかに終息は致しました。また、国内的には年末にカルロスゴーン被告が国外逃亡劇を演じたことがワイドショー的な注目を浴びたりと、賑やかな年初であったなという印象です。

本当に何が起こるかわからないという様な年の始まり方ではなかったかと思うのですが、昨年は國分寺の壇家さん方にはご不幸が重なり、あれよあれよという間にこの時期既に数件のお葬式をしていたかと思います。今年はお陰様で平穏でありがたいのですが、最近葬儀社の方とお会いしましたら、この神辺でも、数年前から葬儀もせず、会館で一晩寝かせて火葬するという家が出始め、昨年は特に多くなったと言われていました。

都会ではかなりそうした直葬が増えているとは聞いていましたが、割と古い家が多く近所との関係が濃い土地柄と思っていましたので、この神辺で直葬があるとは驚くばかりなのですが、知り合いのお寺さんでは、盆参りに行ったら、いつもすぐに出てくるお婆さんが居ないから尋ねると、実は亡くなったのですが、…とのことで、急遽仏間で簡略の葬儀をして戒名を付けてあげたということがあったと聞きました。

ではどうしてお葬式をしなくてはいけないのでしょうか。私が思うには、人はどのように一生を過ごしてきたのだろうかと考えなくてはいけないと思うのです。人は一人では生きられません。一人が生きるには、家族だけでも、親族だけでもなく、沢山の周りの人たち、衣食住に関わるすべての人たちのお蔭で長い人生を生きてきた訳です。それを死にましたらからと、もう居ませんから関わりが無くなりました。という訳にはいかないのが人間ではないでしょうか。長年皆様のおかげで生きてまいりました、故人に代わり御礼申し上げ、故人亡き後もご交誼を願うのが本来ではないかと思うのです。

今頃はペットとして可愛がられた動物でも葬儀をして火葬にし、さらには供養までする時代です。それを何十年も生きてきた人が亡くなって、何も周りにも言わずに、直葬で済ませましたというのは、余りにも故人に気の毒であり、近隣の人たちにとって礼を欠く行為ではないでしょうか。亡くなった方は何を頼りにみまかるのでしょうか。残された遺族や親しかった人は、どのように心の悲しみを癒やすのでしょうか。

そもそも私たち日本人は、後生がいい、悪いという言葉があるように、自分の死後のことを気にかけて生きてきました。ですが、現代人は今のこの刹那のことにばかりに気を取られ、まったく余裕もなくゆとりのない生き方をしているが故に、自分の後生はもとより、身近な人の死後のことも気にかけてあげられないというのが実際ではないでしょうか。

後生がいいか悪いか。死後の行き先がよいかわるいか、それは生前の行いにもよりましょうが、ともに生きてきた家族親族の方たちにとっては、その故人が死後もよりよくあって欲しい、よいところに逝って欲しいという思いを託す場として葬儀がありました。祈り手にその思いを託し、死後の安楽を願う場です。直葬で、という方にはそれなりの深刻な事情があることもありましょう。

ですが、何かできるはずです。今風に立派な会館でしなくても、小さな会場でも、家ででも、近い人たちだけの心のこもったお葬式はできるはずです。是非、身近な方で葬儀のことでいろいろと悩んでいる方があったら、こんな話をしてあげて欲しいと思います。私たちも、自分の後のことを考え、家族の後のことを思いやれる、ゆとりを持った生き方をしたいと思います。

来月もまた皆さん21日朝早くからで大変とは思いますが、お誘い合わせの上お参り下さいますように、この一年もどうぞ宜しくお願いいたします。

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