断捨離ということ
今台風10号が奄美地方に迫っている。これまでにないほどの大規模な暴風大雨による被害が予想されている。友人家族は大丈夫だろうか。何とか無事にやり過ごしてくれることを願うのみである。
ところで、この夏はまさに記録破りの猛暑。観測史上最高に暑い8月だったとか。お盆を過ぎても、つい先日まで最高気温が35度36度という日が連日続いた。その暑さに毎日何も出来ない無為な日が続いたある日、何年も片付けられずたまりに貯まった空き箱やら書類の入った段ボールの積み重なった事務所隣のタンス部屋の片付けを思い立った。空き箱を外に出し、捨てられるものは仕訳して袋に入れ、焼けるものは外で焼却し、他に移動できるものは運び出した。掃除機を掛け、畳を拭いて、丸一日かかって念願の大掃除が出来た。
その余勢を駆って、事務所の書類や本類、封筒の類いも雑然と入れてあったものを整理し不要なものを廃棄した。まだすべき所もあるが、身の回りのがきれいに整理整頓されているということはこれほどまでに清々しく軽快に感じるものかと思える。よく断捨離というが、まさにその恩恵にあずかったように思えた。
そこで断捨離という言葉について調べをしてみると、近年山下さんという主婦が提唱して話題になったものではあるけれども、この言葉自体は戦後ヨガの大家として名高い、沖正弘先生がヨガの行の一つとして教えられたものだという。断行、捨行、離行といい、断行とは入ってくるものを断つこと、捨行はすでにあるものを捨てること、離行とは執着から離れることだという。
入るものを断つとはどんなことだろう。例えば買ってきた物、そのすべてに包装なり、紙袋なり、レジ袋ももれなく付いてくる。宅配物には当然梱包材が含まれ、ついついそれらも使うこともあるかと捨てられずに貯まっていく。レジ袋が有料になり、みんなエコバッグなりマイバッグをもって買い物に出る習慣が出来たことは良いことだろう。
しかし入るものは物ばかりではなく、目や耳にするもの、それこそ何気なく付けているテレビやラジオから入る音による情報や目から入る情報もすべてみんな無遠慮に私たちの中に入りこむ。本来はそれらこそ不要なものは断ち切って頭の片隅にでも入らないようにすることが必要なのかも知れない。それらが特別役に立つ場合もあるかも知れないが、ほとんどが不必要に欲をかき立てたり、不安を助長することも多いのではないか。
たとえそれらを目や耳で感覚として受け取ったとしても、それらが、記憶にとどまり、欲や怒り、不安や恐怖に結びつかないように、心とらわれないように気をつける必要がある。今年になって蔓延しているとされる感染症に関する報道もそうだろう。毎日毎日感染者数が上積みされていく報道に恐れを抱き、外出も控え、どこに行くにもマスクが離せなくなってはいまいか。平常な日常を取り戻すためには、まずはやはり入るものを断つことが必要だろう。
では、すでにあるものを捨てるとはどんなことだろう。物を捨てることは見やすい。不要な物を廃棄して、必要な物、思い出のこる品は整理してこぎれいに配置したら良い。しかし頭の中にすでにあるものを捨てるのは容易なことではない。それこそなかったことにしたくてもなくなることはなく、忘れたいのに忘れるというのも、そう簡単なものではない。いつまでも思い出されて不安な気持ちになったり、怖れを抱いたり、なぜあのときそうなってしまったのかと後悔をしてみたり、怒りが湧いてきたりというようなことは誰にでもあるだろう。
そうした記憶とどうつきあえばよいのか。そのつど例えば慈悲の瞑想※によって心を入れ替えることも出来ようし、余りにも度々思い出されるようなことであれば再度心静かに当時を振り返り、それが決して怖れるようなことではなかった、後悔するようなことではなく、また怒りを伴うことではなかった、返ってそのことがあったから今がある、それでよかったのだと冷静にその因果関係を見つめ、受け入れる機会を持つことも必要かも知れない。新型感染症に関して言うならば、怖いという思いの根源を捨てるためには、その本当の真実の実態を知ることが必要なのではないか。
最後は、執着から離れるとはどんなことだろう。物に対する執着はその人の経済状況にもより変化するであろうし、姿形に対する執着は年齢の経過と共に変わらざるを得ない。しかし、変化したとしてもその執着の根はそう簡単には無くならない。また自分の考え、習慣、嗜好に対する執着もより一層強固なものだろう。
執着していた思い出の品を捨てるようなことはたやすいが、その思い出を捨てることはそう簡単なことではない。しかし物を捨てることによって、目にする機会が薄れたことで執着が止むこともある。物が整理され生活がシンプルなものになることで好みや生き方が変わることもある。執着していることをわずらわしく思ったり、厭う心が生じるならばことは簡単だろうが、まずは執着していることに気づき、そのことによる不利益やとらわれた心による不快感や煩悶する自分に気づくことが必要だろう。そして、感染症が怖い怖いと思う自分の生きることに対する執着そのものを知ることもその思いを開放するためには必要だろう。
いずれにせよ、自分を変えるために断捨離はとても効果がある教えではないか。まずはもてる物の整理から始めてみてはいかがであろうか。
※慈悲の瞑想とは、7月2日投稿「いまをいかに生きるか」参照。
「私は幸せでありますように 私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願い事がかなえられますように 私に悟りの光が現れますように」
上記の言葉を各々3度ほど静かに念じます。
そのあと、「私」のところに「身近な人々は」「生きとし生けるものは」、
と入れ換えて、やはり3度ほど念じ、やさしい慈悲の心を全ての生き物たちにひろげていく。
さらに、「自分を嫌いな人」も「自分が嫌いな人たち」も幸せでありますようにと念じていく。
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今台風10号が奄美地方に迫っている。これまでにないほどの大規模な暴風大雨による被害が予想されている。友人家族は大丈夫だろうか。何とか無事にやり過ごしてくれることを願うのみである。
ところで、この夏はまさに記録破りの猛暑。観測史上最高に暑い8月だったとか。お盆を過ぎても、つい先日まで最高気温が35度36度という日が連日続いた。その暑さに毎日何も出来ない無為な日が続いたある日、何年も片付けられずたまりに貯まった空き箱やら書類の入った段ボールの積み重なった事務所隣のタンス部屋の片付けを思い立った。空き箱を外に出し、捨てられるものは仕訳して袋に入れ、焼けるものは外で焼却し、他に移動できるものは運び出した。掃除機を掛け、畳を拭いて、丸一日かかって念願の大掃除が出来た。
その余勢を駆って、事務所の書類や本類、封筒の類いも雑然と入れてあったものを整理し不要なものを廃棄した。まだすべき所もあるが、身の回りのがきれいに整理整頓されているということはこれほどまでに清々しく軽快に感じるものかと思える。よく断捨離というが、まさにその恩恵にあずかったように思えた。
そこで断捨離という言葉について調べをしてみると、近年山下さんという主婦が提唱して話題になったものではあるけれども、この言葉自体は戦後ヨガの大家として名高い、沖正弘先生がヨガの行の一つとして教えられたものだという。断行、捨行、離行といい、断行とは入ってくるものを断つこと、捨行はすでにあるものを捨てること、離行とは執着から離れることだという。
入るものを断つとはどんなことだろう。例えば買ってきた物、そのすべてに包装なり、紙袋なり、レジ袋ももれなく付いてくる。宅配物には当然梱包材が含まれ、ついついそれらも使うこともあるかと捨てられずに貯まっていく。レジ袋が有料になり、みんなエコバッグなりマイバッグをもって買い物に出る習慣が出来たことは良いことだろう。
しかし入るものは物ばかりではなく、目や耳にするもの、それこそ何気なく付けているテレビやラジオから入る音による情報や目から入る情報もすべてみんな無遠慮に私たちの中に入りこむ。本来はそれらこそ不要なものは断ち切って頭の片隅にでも入らないようにすることが必要なのかも知れない。それらが特別役に立つ場合もあるかも知れないが、ほとんどが不必要に欲をかき立てたり、不安を助長することも多いのではないか。
たとえそれらを目や耳で感覚として受け取ったとしても、それらが、記憶にとどまり、欲や怒り、不安や恐怖に結びつかないように、心とらわれないように気をつける必要がある。今年になって蔓延しているとされる感染症に関する報道もそうだろう。毎日毎日感染者数が上積みされていく報道に恐れを抱き、外出も控え、どこに行くにもマスクが離せなくなってはいまいか。平常な日常を取り戻すためには、まずはやはり入るものを断つことが必要だろう。
では、すでにあるものを捨てるとはどんなことだろう。物を捨てることは見やすい。不要な物を廃棄して、必要な物、思い出のこる品は整理してこぎれいに配置したら良い。しかし頭の中にすでにあるものを捨てるのは容易なことではない。それこそなかったことにしたくてもなくなることはなく、忘れたいのに忘れるというのも、そう簡単なものではない。いつまでも思い出されて不安な気持ちになったり、怖れを抱いたり、なぜあのときそうなってしまったのかと後悔をしてみたり、怒りが湧いてきたりというようなことは誰にでもあるだろう。
そうした記憶とどうつきあえばよいのか。そのつど例えば慈悲の瞑想※によって心を入れ替えることも出来ようし、余りにも度々思い出されるようなことであれば再度心静かに当時を振り返り、それが決して怖れるようなことではなかった、後悔するようなことではなく、また怒りを伴うことではなかった、返ってそのことがあったから今がある、それでよかったのだと冷静にその因果関係を見つめ、受け入れる機会を持つことも必要かも知れない。新型感染症に関して言うならば、怖いという思いの根源を捨てるためには、その本当の真実の実態を知ることが必要なのではないか。
最後は、執着から離れるとはどんなことだろう。物に対する執着はその人の経済状況にもより変化するであろうし、姿形に対する執着は年齢の経過と共に変わらざるを得ない。しかし、変化したとしてもその執着の根はそう簡単には無くならない。また自分の考え、習慣、嗜好に対する執着もより一層強固なものだろう。
執着していた思い出の品を捨てるようなことはたやすいが、その思い出を捨てることはそう簡単なことではない。しかし物を捨てることによって、目にする機会が薄れたことで執着が止むこともある。物が整理され生活がシンプルなものになることで好みや生き方が変わることもある。執着していることをわずらわしく思ったり、厭う心が生じるならばことは簡単だろうが、まずは執着していることに気づき、そのことによる不利益やとらわれた心による不快感や煩悶する自分に気づくことが必要だろう。そして、感染症が怖い怖いと思う自分の生きることに対する執着そのものを知ることもその思いを開放するためには必要だろう。
いずれにせよ、自分を変えるために断捨離はとても効果がある教えではないか。まずはもてる物の整理から始めてみてはいかがであろうか。
※慈悲の瞑想とは、7月2日投稿「いまをいかに生きるか」参照。
「私は幸せでありますように 私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願い事がかなえられますように 私に悟りの光が現れますように」
上記の言葉を各々3度ほど静かに念じます。
そのあと、「私」のところに「身近な人々は」「生きとし生けるものは」、
と入れ換えて、やはり3度ほど念じ、やさしい慈悲の心を全ての生き物たちにひろげていく。
さらに、「自分を嫌いな人」も「自分が嫌いな人たち」も幸せでありますようにと念じていく。
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