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(5/20追記あり) 花山信勝著『巣鴨の生と死-ある教誨師の記録』を読んで

2021年05月17日 13時33分15秒 | 仏教書探訪

花山信勝著『巣鴨の生と死-ある教誨師の記録』を読んで

1995年7月発行の中公文庫・花山信勝著『巣鴨の生と死-ある教誨師の記録』を再読した。阪神淡路大震災の年に発行されているので、おそらくボランティアで、何度も神戸と東京を往復し、その後インド・コルカタの僧院で雨安居を過ごしてから帰国した頃購入した本であったろうと思われる。どういう思いでそのころ読んだのかは思い出せないが、この度再読したのは、昨年夏頃から毎週楽しみに視聴しているYOUTUBEの音楽報道番組『HEAVENESE STYLEヘブニーズスタイル2021.2.21号』にて東條由布子さんを紹介されていたことにある。

その番組を拝聴しながら、先の戦争開戦時の東条英機総理が戦争犯罪人という汚名を一身に背負わされたのは、報道機関並びに日本人一人一人の責任転嫁に外ならないと思われた。翼賛体制に置かれたとはいえ報道機関も戦争に加担し国民を扇動した責任を、あたかもすべて一人の軍人総理の責任にしてしまいたかったのである。当然そこには当時の宗教者仏教者も含まれる。昨日まで軍国主義一色だった国民が手のひらを返したように一人の人に責任を押しつけて平和を叫び、おのれの不明を無きものにしたかった。

日本を勝ち目のない戦争に向かわせ、アジアの国々を侵略した極悪非道の張本人に戦後仕立て上げられ、その汚名に一切の弁解もすることなく、すべての思いを胸に秘め亡くなった祖父を思い、東條由布子さんは昭和から平成の時代になって、それまで閉ざしていた口を開き、勇気をもって祖父の実像と真実の歴史を語りだされたという。その後、文春文庫・東條由布子著『祖父東條英機「一切語るなかれ」』を拝読した。小さなころに触れた真面目で律儀で家族思いの祖父の面影、そして戦後東條の名を伏せて近隣に知られぬように何度も住まいを変えたこと、兄弟姉妹は小学校に編入しても「東條憎し」ですべての先生が担任を拒否して入るクラスがなかったという悲惨な体験話など、今ではあり得ないような非情な時代のことごとが綴られていた。

その本を読み終えようとしたころ、本棚のどこかにあった本書『巣鴨の生と死』のことを思い出した。探し当て、毎日少しずつ四百ページの本を二か月ほどを要して読んでみた。著者の花山信勝師は、浄土真宗の学僧で、昭和21年から34年まで東大教授、日本仏教史を専攻し聖徳太子の著作研究が専門である。

巣鴨拘置所での仕事

話は、昭和21年2月28日巣鴨拘置所で初めて法話した日の出来事から始まっている。二階のチャプレンスオフィス隣の広間に特設の仏壇を置き、六十名ほどの独房に収容された人たち、それから別に雑居坊に入っている人たちに向け、それぞれ一時間ほど読経と法話をされた。それから週に二日、四回の法話と週に四人から十数人の絞首刑者や精神異常者の個人面談をしたという。が、聞く方からすれば月一回の法話と面談は三、四か月に一回しか日が回ってこない勘定になる。そこで、その間は浄土真宗関係が多いが仏教書を差し入れて読んでもらっていたのだという。それらの書籍を列記すると、仏教要典、正信偈講讃、観音経講義、白道に生きて、仏教の精髄、歎異鈔講話、真実の救い、信仰について、生活基調の宗教、霊魂不滅論、他力真宗、苦悩を超えて、などなど。

そうして、A級戦犯の刑が確定し執行されるまでの3年間に亘り、師の教誡は続けられた。回数を重ねる毎にしだいに、緊張し真剣に法話を聞こうという気持ちに進む人が多く、ともに念仏を唱えたり、深々と頭を下げて合掌して退室する人が多数現れたという。師が見送った人たちは、戦争犯罪などの死刑囚としてランクされたBC級二六人が絞首刑、一人が銃殺刑。平和に対する罪としてのA級絞首刑が七名である。

BC級戦犯の絞首刑に当たっては、刑執行の前日には本人の独房に入り一時間程度の面談をし、家族への伝言や爪や髪、お守りなどを預かる。その後教誡事務所で過ごしたあと、執行時間前にもう一度独房に入り、紙と鉛筆をわたし書きたいことを書かせ、それから一階に下りて三四分歩いて刑場に入る。執行にあたり、刑場の仏間で線香ロウソクをつけ、父母そして自分の分として三本の線香を供えさせ、読経し、君が代などをともに歌い、仏前に供えたコップの水を飲ませ、アメリカ製のビスケットを食べさせる。

刑場に見送ると、しばらくしてガタンという音がして、それから半時間ほど後には、霊柩室に一尺五寸ほどの棺が運ばれてくる。蓋をとると、頭から足先まで丁寧に真っ白な木綿で包まれており、その前で師は阿弥陀経を読み葬式に換えることを常とされた。しかしその後遺骨がどのように処理されたのか、どこに埋葬したのかは米国軍規で知らされることはなかったという。師は各々の受刑者に「光寿無量院釈◯◯」という戒名を授け、遺族に送った。

信仰に目覚める戦犯たち

BC級被告の中には、『往生要集』の和訳を三回読みかえす信仰家もあった。この方は父親に向けた手紙の中に、「・・・この死刑ということが自分の人格をさらに一段と向上させてくれたと思っています。億劫にも得がたい如来の御縁をうけることができたのはまったくこの不運がきずなとなったわけです。人間は身は亡びても魂は残ります。如来のお力を恵まれて自分は一だんと、心が豊かに進歩させてもらい、とても喜んでおります。・・・人間は死を前にひかえるときに何の不平がありましょう。何の悲しんでおられましょうか。お蔭で生かされる喜びに御恩報謝の道を気強くほがらかにお念仏をとなえ立ち上がるべきであります。仏の本願はおのれの本願となって下されて御恩返しの道が践まれます。人を助けたい心も起こります。この道こそはわが家をさらに円満に栄さす道であります。不運を転じてわが家の仕合わせに向かう縁になったことを喜びこの力こそ恵まるるお慈悲の力です。(本書106~107頁)・・・」と書いて、自らの宗教的目覚めを説き、残していく遺族には悲しみを信仰にふり向けて生きよと励ました。

また別の人は日記の中に、「・・・もし今度の事件に遭遇しなければ、自己を知り、人間性に目覚めることは出きなかったと思う。人間としての理性と自覚に目覚めることの出来たことは生涯における一大収穫であったと思っている(同158頁)」と書いて、かえって死刑宣告により深刻なる人生に対する気づきを得られたという感謝の気持ちを綴った。銃殺刑を受けた元大佐は、刑が執行される射撃場に連行される車の中で高いびきを搔き、直立不動の姿で平然と銃弾を受けた。その剛毅な元大佐の死を多くの米軍将校もたたえたといわれる。

この元大佐の遺書は、この後A級被告各氏に師が読んで聞かせるほどの名文であった。「謹んで書す。昭和23年10月22日夜1時、余は銃殺刑という罪名の許にこの人生を終わるのである。余のためには誠に意義深き日である。思い返せば五十五年の人生、お世話ばかりになり通して、何の感謝の意を表することもできなかった。この度の弥陀の浄土への芽出度い往生、これまた仏恩に感謝せねばならない。仏恩に感謝これのみぞ、余の最後まで務めねばならないところである。父母妻子兄弟姉妹には、格別になげかれることと存ずる。然し決してかなしまないでもらいたい。余の今日あるは宿業の致すところである。人生の因縁事と思う。浄土に参りし後は、必ず還相の廻向により、再びこの世に出で来たり、衆生済度の大業にたずさわるであろう。(同173頁)・・・多くの部下は新しい日本建設の礎石として死んだのだ。余もその仲間入りをするのだ。(同178頁)・・・何事も忍べよ。仏さまはこの忍ぶということを経にもよく云ってある。忍ぶというのは徳の第一だといってある。人生は忍ぶということだとも云える。…上に立てば立つほど忍ばねばならない。(同180頁)」と書き、辞世の一節には、「心は常に天外に遊ぶ 無限の栄光眼前にそばたつ 一心正念して唯これのみを信ず 天上天下我を害するものなし 我は歌わん真理の曲我はすすまん真理の道(同183頁)」とあり、まこと気高き最期であったことをものがたっている。

A級戦犯にむけて

この銃殺刑が執行された日、花山師は戦争指導者A級25名の被告たちへ、これが最後と思い法話をなしている。要約すると、「人間必ず一度は死なねばならない。毎日刻々生死を繰り返している。これまでに絞首刑台に上った四十代、五十代の人たちはいずれも固い信仰によって死をおそれるよりもむしろこれをよろこび、立派な大往生であった。戦争により領土は半減百数十万の生命を失い全国の都市は爆撃を受け想像をこえる災禍をこうむったが、それによってえたものは、死刑囚たちが信仰を深め尊い遺書を残してくれたことこそ大きな収穫であった。明治以来八十年間の歴史の失敗は今日これらの人たちの精神力によって未来数千年への人類の希望への基盤をつくってくれた。そこに人間の限りある一生を容易にすてて永遠の人生に生きる道がある。(同212~214頁)」と説いたという。

そして、ついに11月4日から25名の戦争指導者に向けて判決の朗読が始まり、12日七名の絞首刑、その他終身刑懲役刑が確定した。その日から絞首刑となった七名と12月23日に執行されるまでのひと月余り師は各氏と面談を繰り返す。その面談記録は、七人それぞれの経歴を記し、その人物像にも触れながら、克明に何を語り合ったかを記している。若い頃から坐禅に勤しんできたが自分のようなものには念仏にしか救われる道がないと改心された人、家族がキリスト教の信仰があり拘置所にドイツ人の牧師を差し向けて洗礼をさせようとしたが断って仏教で最期を迎えた人、伊豆山に南京上海で亡くなった日中両国戦死者の遺骨を祀り観音像を建立し供養を続ける人、親鸞聖人が語られたとする歎異鈔の第九章を毎日味わい信仰を深められた人など、みなそれぞれに宗教心に目覚め安心(あんじん)を得られたことを記している。

東條英機元総理についてのみ本人の言葉として記されているものを抄録してみよう。「…第二次世界大戦が終わってわずか三年であるが、依然として全世界は波瀾に包まれておる。ことに極東の波瀾を思い、わが日本の将来について懸念なきを得ず。しかし三千年来培われた日本精神は一朝には失われないことを信ずる。窮極的には、日本国民の努力と国際的同情によって立派に立ち直って行くものと固く信じて逝きたい。(同304頁)・・・(自決後すぐに手当てされて生き長らえたことについて、それによって)一つには宗教に入り得たということ、二つには人生を深く味わったということ、三つには裁判においてある点を言いえたということは感謝しています。(同315頁)・・・(大無量寿経の)四十八願を読むと一々誠に有難い。今の政治家の如きはこれを読んで政治の更生を計らねばならぬ。人生の根本問題が説いてあるのですからね。国連とか、その他世界平和とかは人間の欲望をなくした時に初めて達成できることで、そこに社会の平和が成るのだ。(同322頁)…」などと話され、花山師との面談を何よりも楽しみとしていた様子が綴られている。

そしてこれはいささか今の時代となってはやや違和感すら覚えるが、多くの人たちにみな教養として身につけられた時代なのであろう、いずれの人も和歌を詠まれており、荒木元大将などはこの間に七百首も詠まれたといわれている。東條元総理は処刑前日にも花山師に「散る花も落つる木の実も心なきさそふはただに嵐のみかは 今ははや心にかかる雲もなし心豊かに西へぞと急ぐ 日も月も蛍の光さながらに行く手に弥陀の光かがやく」(同380頁)と三句の歌を残された。

かくして七名の絞首刑は、前日それぞれ二度の面談の後、12月23日午前零時前に、二組に分かれ、仏間でのお勤めの前に奉書に署名をし、コップ一杯のブドー酒を飲まれ、水を飲みかわした。それから三誓偈を読んでお勤めとし、万歳三唱を一同で唱え、刑場に向かわれた。七つの棺の前では、正信偈と念仏廻向を唱えたと記録している。

歴史を振り返って

こうして、花山師の導きもあって、当時軍国主義の悪のシンボルのように云われた極刑に処された人たち誰もが、悲しみも動揺もなく平常心のままに召されていった。懺悔するなどという心を遙かに超えて、巣鴨拘置所に収容されていたこの間に、深く人の世、人生の真実、いのちのありように立ち向かわれて、深く悟ることあり、そして人の世の穏やかなることを願い、信仰、宗教に生きることを人のあるべき姿と確信して、安らかに立派に死んで逝かれたことは誠に感銘深いことに思われる。戦犯と云われる方々がこうした最期を遂げたことを知る貴重な機会をもてたことは誠にありがたいことであり、今を生きる私たちにも当然生きる力となり、価値ある生き方を求められている思いがいたし、時を無駄にしないよう督励されているようにも思えた。

さらにこの後、私は講談社によって1983年に製作された実写版DVD『東京裁判』を手に入れて視聴した。当時の映像をもとに時代背景にも触れ理解しやすいように編集されており、裁判冒頭からこの軍事裁判自体が当時の国際法上罪を問えるものかとの指摘や残虐行為を犯罪とするなら米国による原爆投下についても同罪とすべきであると米国人弁護士が指摘していた事実を知りえたことなど誠に参考になった。また本書に登場する戦犯の方々の実際の姿も拝見し、その姿の美しさ、当時の日本軍人、文官の凛とした威厳にわが身を正される思いがした。自ら弁明する機会であった個人反証の答弁においても、東條被告は自存自衛の戦いであり植民地の解放と独立のためになされた戦争であったことを堂々と主張され、されど敗戦の責任は自分にあり責任を受け入れることを供述された。大東亜戦争という日本で使われていた名称が否定され、太平洋戦争といわされ、軍国主義国家日本による侵略戦争というレッテルを貼ることによって、戦争の実像が隠されてきたのではなかったか。一つのYOUTUBEの番組を拝聴し、尽きぬ好奇心から触手を伸ばすうちに様々なことを学ぶ機会を得た。当時を振り返り真実の歴史、戦犯として死刑となった人たちの生きざま、その心境を知ることは、それにより戦後の繁栄をえて今を生きる私たちにとって実に肝要、不可欠なことと思われる。

歴史の真相を知ることはそう簡単なことではない。歴史を作ろうとする人たちがいる。彼らがどのような世界を目指していたのか。大きくとらえれば、その後世界がどう変わり誰が経済的な利益を得たのか、世界の覇権構造がどう変化したのかを知ればおおよその姿は知ることができよう。誠に唐突だが、昨年四月当時の安倍総理がいみじくも、この感染拡大は第三次世界大戦と認識している、と述べた言葉は何を意味していたのであろうか。その後の一年、報道のありさまを見るにつけ、かつての統制された様相にとても良く似ていることに気づかされる。敗戦するのは誰か、その責任を押し付けられるのは誰になるのか、皆目見当もつかないが、人々が無知のままに扇動されることだけはあってはならない。異常な報道管制の中にあることを認識し、同じ轍を踏まぬよう、よほど気を付けて今の時代を注視して生きる必要があるだろう。おのれの不明を誰かの汚名にしないためにも。

追記 いま中公新書・小林弘忠著『巣鴨プリズン 教誨師花山信勝と死刑戦犯の記録』を読み進めている。花山師本人の筆記に比べ、かなり時代背景や心中深く想像しての論説に当時の教誨師の置かれた状況が厳しいものであったことがうかがい知れる。花山師の後二代目の教誨師になる田嶋隆純師との比較も収容者たちとの向き合い方の違いが際立ったものがあり、学者としてまた宗旨の教義への証明としても説き方や対応が違い、そのために冷ややかな見方をされていたことも知ることになった。しかし戦後間もなくの難しい時代にまた見習うべきものもない状態でおのれの信ずる教誨を一人続けられ、その間収容者家族が上京した際に自宅を宿泊所に使わせていたことや教誨をやめてからも講演して歩き巣鴨の実態を世間に知らせ、本書の印税を遺族に人知れず送金されたりと生涯にわたりかかわり続けられた事実に変わりはない。師本人が死の間際に、「巣鴨プリズンは、人の真の生き方を学ぶことができた。私の人生は幸せだった」と述懐されたのは、そうした世間の様々な見方や自らの孤独感さえ乗り越えたうえでの納得ではなかったか。本書の書評欄には今も心無い言舌が残るが、他の人と比較されるものではなく、花山師のその活動の記録はそのままに評価されるべきであり、受け入れたいと私は考えている。

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