(昨年九月二十八日投稿の「死ねば仏とは」を修正し書体を改めました)
いつの頃からか、日本では、人が死すと仏、仏様と呼ばれてきました。
私にはそれが不本意で、そんなことを言うから日本仏教は活力を失ったのだと思っていました。
つまり、死んだらみんな仏なら、教えも修行も不要ではないかと考えたからです。
そんなものなら、そもそもお釈迦様も、各宗の祖師方も死を覚悟して死に物狂いで修行する必要もなかったではないかと思えたのです。そんな簡単なものではないと。
しかし、数日前、朝の御勤めで、本尊お薬師様の供養法を修しておりましたら、お教えをいただきました。
人は死すと、煩悩に覆い隠された故人は死んで、仏だけが残ったのだと。
息を引き取りしばらくすると、故人の生前の人格の心は遺体から離れ、ご遺体だけが残されることになります。
お釈迦様が発見された無常の真理そのものとなります。
仏も人も森羅万象も、すべてのものが有する、ありのままのの摂理、真理の中にあるそのものに化すのだと。
そのとき、生前あった煩悩は、その身体にはありません。ですから、仏と言いうるのだと。
そういうことではないかと思います。
三毒と言われる煩悩にまとわれた心は身体から去り、残されたのは真理そのもののお姿のみとなります。
それを仏と言ったのではないかと。
誰もがその時、煩悩が抜けきり、安らかな顔になり、やさしい顔になられて、仏そのままの顔となります。
苦しそうにしていた人も、寂しそうな人も、苦々しい顔をされていた人も、みんなその時安らぎの中にあります。
どなたさまにもそう見えるはずです。
私たちの身体は、四大とか五大と言われます。
四大とは、
地大(堅さを性質としてものを保持する働き)
水大(湿り気を性質としてものを収めとる働き)
火大(暖かさを性質としてものを成熟させる働き)
風大(動きを性質としてものを成長させる働き)のことをいいます。
五大は、これら四大と空大(虚空でこの場合空間を意味する)を加えたもので、それぞれの要素を併せもつ身として私たちは生きています。
ですが、地・水・火・風・空と言えば、高野山の奥の院参道に見られるような五輪塔が思い出されるように、真言宗では大日如来そのものであると考えます。
それは宇宙の真理を表すものであり、仏様に外ならないのです。
ですが、私たちは煩悩にまとわれているが故に、その仏の自分に気づけず、凡夫と思って、凡夫そのものの一生を過ごしています。
身体と心が一つに生きている時に、心の煩悩をすべて吹き消してしまうことを覚りとか解脱といい、それを本来成仏と表現しました。
生きたいと思うような欲の心もないので、身体だけを残して来世に旅立つことなく、身体の束縛がなくなると心も消滅すると考えられています。
しかし、覚れなかった凡夫衆生は当然のことながら生への未練から、過去世での業に加え、現世において積みました業によって煩悩あるが故に来世に再生すると考えるのです。
真言宗でいう即身成仏とは、仏となんら変わらないわが身の本質に気づき、身と口と心のはたらきを仏のごとく調え、自身がこの身のままに仏を体感し、自覚し、信念として感じられるようになることでしょう。
そこでは、すでに真理の中に生き、真理に生かされていることを深く認識されていることは言うまでもありません。
故人を悼みなされる仏事全般は、仏たるご遺体ではなく、来世に赴きたる煩悩具足の心に向けてなされるわけですから、中有にあってはこの三次元の空間におられる故人の心に、満中陰後は来世に転生せる先に向けて功徳は廻向されると考えられます。
いずれにせよ、死ねば仏と言われるのは残されたそのご遺体に対してであり、生前のその人が死んだからその瞬間に成仏したという意味ではないとわきまえる必要があるのだと思います。
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いつの頃からか、日本では、人が死すと仏、仏様と呼ばれてきました。
私にはそれが不本意で、そんなことを言うから日本仏教は活力を失ったのだと思っていました。
つまり、死んだらみんな仏なら、教えも修行も不要ではないかと考えたからです。
そんなものなら、そもそもお釈迦様も、各宗の祖師方も死を覚悟して死に物狂いで修行する必要もなかったではないかと思えたのです。そんな簡単なものではないと。
しかし、数日前、朝の御勤めで、本尊お薬師様の供養法を修しておりましたら、お教えをいただきました。
人は死すと、煩悩に覆い隠された故人は死んで、仏だけが残ったのだと。
息を引き取りしばらくすると、故人の生前の人格の心は遺体から離れ、ご遺体だけが残されることになります。
お釈迦様が発見された無常の真理そのものとなります。
仏も人も森羅万象も、すべてのものが有する、ありのままのの摂理、真理の中にあるそのものに化すのだと。
そのとき、生前あった煩悩は、その身体にはありません。ですから、仏と言いうるのだと。
そういうことではないかと思います。
三毒と言われる煩悩にまとわれた心は身体から去り、残されたのは真理そのもののお姿のみとなります。
それを仏と言ったのではないかと。
誰もがその時、煩悩が抜けきり、安らかな顔になり、やさしい顔になられて、仏そのままの顔となります。
苦しそうにしていた人も、寂しそうな人も、苦々しい顔をされていた人も、みんなその時安らぎの中にあります。
どなたさまにもそう見えるはずです。
私たちの身体は、四大とか五大と言われます。
四大とは、
地大(堅さを性質としてものを保持する働き)
水大(湿り気を性質としてものを収めとる働き)
火大(暖かさを性質としてものを成熟させる働き)
風大(動きを性質としてものを成長させる働き)のことをいいます。
五大は、これら四大と空大(虚空でこの場合空間を意味する)を加えたもので、それぞれの要素を併せもつ身として私たちは生きています。
ですが、地・水・火・風・空と言えば、高野山の奥の院参道に見られるような五輪塔が思い出されるように、真言宗では大日如来そのものであると考えます。
それは宇宙の真理を表すものであり、仏様に外ならないのです。
ですが、私たちは煩悩にまとわれているが故に、その仏の自分に気づけず、凡夫と思って、凡夫そのものの一生を過ごしています。
身体と心が一つに生きている時に、心の煩悩をすべて吹き消してしまうことを覚りとか解脱といい、それを本来成仏と表現しました。
生きたいと思うような欲の心もないので、身体だけを残して来世に旅立つことなく、身体の束縛がなくなると心も消滅すると考えられています。
しかし、覚れなかった凡夫衆生は当然のことながら生への未練から、過去世での業に加え、現世において積みました業によって煩悩あるが故に来世に再生すると考えるのです。
真言宗でいう即身成仏とは、仏となんら変わらないわが身の本質に気づき、身と口と心のはたらきを仏のごとく調え、自身がこの身のままに仏を体感し、自覚し、信念として感じられるようになることでしょう。
そこでは、すでに真理の中に生き、真理に生かされていることを深く認識されていることは言うまでもありません。
故人を悼みなされる仏事全般は、仏たるご遺体ではなく、来世に赴きたる煩悩具足の心に向けてなされるわけですから、中有にあってはこの三次元の空間におられる故人の心に、満中陰後は来世に転生せる先に向けて功徳は廻向されると考えられます。
いずれにせよ、死ねば仏と言われるのは残されたそのご遺体に対してであり、生前のその人が死んだからその瞬間に成仏したという意味ではないとわきまえる必要があるのだと思います。
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