住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

放下と福田について

2023年08月15日 17時25分47秒 | 仏教に関する様々なお話
放下(ほうげ)という生き方をして福田(ふくでん)であるお寺で功徳をもって帰るというお話





暑い夏になりました。またこのお盆の時期に台風が二つも来て、多くの地域で被災しているのにここ福山ではこうして万灯会ができ、お詣りしていただきまして誠に有り難いことと存じます。コロナもまだ日本でだけは終わっていないとか、ウクライナの戦地では未だに戦闘が繰り返され、そんなこともあってか物価が馬鹿高くなりガソリンはついに百八十円、オーストラリアなどはすでに二百円と聞いています。温暖化で年々暑くなりこの先どうなるのかとも心配になります。

不安なことばかりですが、いつの時代もどんな時代になりましても、本当は不安が尽きないのかもしれません。不安なこと心配事をみんな仏様にお預けする放下(ほうげ)という生き方が求められているのかもしれません。放下とは、手放すこと。お茶をなさる方はよく茶掛けにあるそうで御存じの方も多いかと思いますが、私たちの心には様々な思い計らい願いが常にあるわけですけれど、それらをすべて仏様にお預けして、おまかせして、放下して心の中はさっぱり静かに清らかにして生きることです。

これは、念仏をされる人がみんな阿弥陀さんにとよくそんなことをいうわけですが、私たちも「南無大師遍照金剛」と唱えて、いろいろ考えてしまうところをみんなお大師様にお預けして安心して生活したらよいのだと思います。そうして平穏にすこしでも心穏やかに過ごし、日々善行に励む。「何か事故に遭っても助かる人と助からない人がある、それはその人の持っている善業による」とお経にあります。業というのは悪業ばかりでなく善業があり、善いことをして善業功徳を積んでおくことが大切です。仏教は何事にも原因ありとする教えです。必ずその違いには原因があるはずだというわけです。生き物の命を小さな虫でも踏んだりせずによけて歩く人と、ミミズやアリなどを簡単に踏みつぶしてしまう人ではその違いがあるとする教えです。

ところで、先日夕方になって、ある檀家さんが訪ねてこられて、参道のわきの垣の枝が自分方の墓所にかかっていたので伐らせてもらいましたと言ってこられました。それでその枝葉をお寺の畑のところにほかしておいたので処分して下さいとのことでした。お寺の方で整備しなくてはいけないところを補って下さって、有難いことだなと思ったようなことですが。

お寺はそもそも福田とも申します。福田とはインドの言葉でプンニャケッタといいまして、プンニャが福をもたらす功徳、ケッタが田のことです。もとはサンガという僧侶の集まりのことをこの世で最上の福田であるというのですが、皆さんが集い、善行功徳を施して、耕して、善業を収穫していくところであるお寺も福田と言われるようになりました。誰かお寺にお越しになり、気づいた方が善をなして、みんながよくあるようにと功徳を施すところです。是非お寺に足繁くお詣りをしてほしいと思うわけですが、お越しになり線香ろうそくなどお供えをしたり、礼拝しお経を上げたり、写経をしたりということもすべて善行になります。

それでそうしたことをみんなしているからではなく、自分はどういう善行を積んできたか、そのことを意識して覚えておくことが大切です。以前にお釈迦様の時代の王様でコーサラ国のパセーナディ王の王妃マッリカーの話をしたことがあると思うのですが、若くして死ぬ寸前に、生涯に一度だけ嘘を言ってしまったことを思い出して暗い心になって餓鬼の世界に転生してしまうのです。ですが、すぐに自分は何度もお坊さんたちに食事の供養をして沢山法を聞いた善業を思い出すと、さっと兜率天に昇天したという話が残されています。

「善きことをなせる者は、この世にて喜び、来世にいって喜び、自分の行いの清らかなるを見て喜び楽しむ」と法句経にもあります。今日は皆さん夜とはいえ暑い中ご参詣いただき、年一度の貴重な施餓鬼供養をして善行を施してくださったわけです。その功徳としてありがたい善業を持って、心楽しく帰りいただきたいと思います。まことにご参詣ありがとうございました。


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コメント (2)
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