うれしい友からの電話
一昨日からひどい冷え込みで、本堂の花瓶や供えた閼伽水も凍り、日中にも溶けないほど温度が上がらない中、昨日の坐禅会には9人もの篤信の方々が集い、10分の歩行禅、30分の坐禅を2度坐られた。ストーブを2つ置いての坐禅ではあったが、寒いせいかお寺の周辺に人の気配もなく、静まり返った中でよい坐禅が正月からできたと思う。坐禅後の茶話会では皆さん現在の世の中の状況にやや沈鬱な雰囲気にはなったのだが、それでも私たちは生きていかなくてはならず、すべてのことの真実を見つめながら日々の営みに集中しましょうということで散会した。
そのあと、夕勤して寺務所に戻ると、遠路はるばる、ある高校の教頭先生をされている高校時代の友人から珍しく電話が入った。この人は私の人生の大事なところで精神的インパクトを与えてくれる貴重な存在で、昨日の会話もおそらく何事か意味のあるものとなってくるのではないかと思っている。坐禅会での話の延長から、挨拶の後すかさず、今の時代をどう思うかと尋ねた。
突然のことではあったが、彼なりの返答があり、私も思うところを述べたのではあったが、やや丁寧さに欠ける話だったのか、内容的にらしくないと思われたのか、世の中のお坊さんのようではないねという言葉をいただいたのではあったが、大事なことは私たちの仕事は常に周囲の人々に幸せと安心を与えるものでなくてはならないということを教えられたように思う。彼はキリスト教の牧師でもあるので、常に生徒も含めていろいろな人たちに教えを施す立場にもありそう感じられたのであろうかと思う。
その後いろいろとそれぞれの近況を話し、最後に彼からこれからの時代どういうことが大事と思うかと尋ねられたので、知識があるものが賢いとされるような世の中になりつつあるけれども、いくら人の知らないことを知っていたとしても、それが単なる記憶であっては何の意味もない、それらを用いて自ら考える、人の言うことを鵜呑みにすることなく、自分の頭で思考し今置かれた現状を正しく認識し、どうあるべきかと判断できることが大切なのではないかと話した。
すると、彼は、いま特にコロナコロナとストレス過多の世の中にあって、精神を病んだ状態になると何物にも感動したり美しいと思える感覚が失われていく、また何でもスマホやパソコンで事足れりとする時代となっているが、花であっても、自然であっても、音楽であっても、本物、実物と生で対面し、見たり聞いたりして、美しい、素晴らしいと感動できること、そうした感性を大切にすべきだと思うと話してくれた。ますます仮想空間の中で人と人が出会わずとも、また現地に行かなくてもバーチャルで事を済まそうとする世の中になっていくであろう。しかし、そんなことではなく、その人そのものと直に出会うことの大切さ、実物と対面した時の感動する感性そのものを失ってはいけないということであろう。
私も、彼の話に賛同し、まさに今私たちは生きることにもその美しさ周りを感動させられるような生き方、身の処し方、潔さが求められているのではないかと思うと話した。自らの地位や利得、上辺だけの称賛、そんなものだけを大事にするような世の中に成り果てている。私たち日本人にはもっと気高いものを大切にする心があったのに、いつの間にか失われ、寄らば大樹という処世感覚ばかりが跋扈して、言いたいことも言わない、見て見ぬふりをして済ませる、みんなしているから同じようにしてればいい、そんな世の中になってしまっているのではないか。たとえ鶏口となるとも牛後となるなかれ、という高貴な言葉もあるが、自分の生き方に自ら感動できるような生き方をしていきたいものである。そのためにはまずは実物の美しさに感動できる感性を失わない、精神の落ち着いた状態にあることが必要だということであろう。
久しぶりにうれしい友と話ができた感激をここにとどめておきます。彼から言われたことを心に大切にして日々を過ごそうと思う。ありがとう。
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一昨日からひどい冷え込みで、本堂の花瓶や供えた閼伽水も凍り、日中にも溶けないほど温度が上がらない中、昨日の坐禅会には9人もの篤信の方々が集い、10分の歩行禅、30分の坐禅を2度坐られた。ストーブを2つ置いての坐禅ではあったが、寒いせいかお寺の周辺に人の気配もなく、静まり返った中でよい坐禅が正月からできたと思う。坐禅後の茶話会では皆さん現在の世の中の状況にやや沈鬱な雰囲気にはなったのだが、それでも私たちは生きていかなくてはならず、すべてのことの真実を見つめながら日々の営みに集中しましょうということで散会した。
そのあと、夕勤して寺務所に戻ると、遠路はるばる、ある高校の教頭先生をされている高校時代の友人から珍しく電話が入った。この人は私の人生の大事なところで精神的インパクトを与えてくれる貴重な存在で、昨日の会話もおそらく何事か意味のあるものとなってくるのではないかと思っている。坐禅会での話の延長から、挨拶の後すかさず、今の時代をどう思うかと尋ねた。
突然のことではあったが、彼なりの返答があり、私も思うところを述べたのではあったが、やや丁寧さに欠ける話だったのか、内容的にらしくないと思われたのか、世の中のお坊さんのようではないねという言葉をいただいたのではあったが、大事なことは私たちの仕事は常に周囲の人々に幸せと安心を与えるものでなくてはならないということを教えられたように思う。彼はキリスト教の牧師でもあるので、常に生徒も含めていろいろな人たちに教えを施す立場にもありそう感じられたのであろうかと思う。
その後いろいろとそれぞれの近況を話し、最後に彼からこれからの時代どういうことが大事と思うかと尋ねられたので、知識があるものが賢いとされるような世の中になりつつあるけれども、いくら人の知らないことを知っていたとしても、それが単なる記憶であっては何の意味もない、それらを用いて自ら考える、人の言うことを鵜呑みにすることなく、自分の頭で思考し今置かれた現状を正しく認識し、どうあるべきかと判断できることが大切なのではないかと話した。
すると、彼は、いま特にコロナコロナとストレス過多の世の中にあって、精神を病んだ状態になると何物にも感動したり美しいと思える感覚が失われていく、また何でもスマホやパソコンで事足れりとする時代となっているが、花であっても、自然であっても、音楽であっても、本物、実物と生で対面し、見たり聞いたりして、美しい、素晴らしいと感動できること、そうした感性を大切にすべきだと思うと話してくれた。ますます仮想空間の中で人と人が出会わずとも、また現地に行かなくてもバーチャルで事を済まそうとする世の中になっていくであろう。しかし、そんなことではなく、その人そのものと直に出会うことの大切さ、実物と対面した時の感動する感性そのものを失ってはいけないということであろう。
私も、彼の話に賛同し、まさに今私たちは生きることにもその美しさ周りを感動させられるような生き方、身の処し方、潔さが求められているのではないかと思うと話した。自らの地位や利得、上辺だけの称賛、そんなものだけを大事にするような世の中に成り果てている。私たち日本人にはもっと気高いものを大切にする心があったのに、いつの間にか失われ、寄らば大樹という処世感覚ばかりが跋扈して、言いたいことも言わない、見て見ぬふりをして済ませる、みんなしているから同じようにしてればいい、そんな世の中になってしまっているのではないか。たとえ鶏口となるとも牛後となるなかれ、という高貴な言葉もあるが、自分の生き方に自ら感動できるような生き方をしていきたいものである。そのためにはまずは実物の美しさに感動できる感性を失わない、精神の落ち着いた状態にあることが必要だということであろう。
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