住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

なぜ秘仏なのか

2019年01月07日 20時13分31秒 | 仏教に関する様々なお話
お正月には、何組かのご家族が玄関から客殿に上がり、新年の挨拶をしてお茶を飲み歓談されます。そして、本堂にお詣りして御先祖のお位牌を御本尊前に出して心経をお唱えになります。そのあるご家族の方から、「御本尊様はこの次はいつ御開帳ですか」と問われました。國分寺の御本尊藥師如来は、等身大の御像ですが、普段厨子の中に安置されておりそのお姿を拝することは出来ないからです。

御本尊の厨子の前には三百年祭の時に撮した御本尊様の写真が掲示されているので、「この写真を撮った三百年祭で御開帳しましたから、この次は六百年祭でしょうか」と冗談交じりに申したのでしたが、そんな先にならないうちに一度御開帳の時期を考えねばならないかとは思っておるところであります。

さて、ではなぜ秘仏なのでしょうか。多くのお寺でわざわざ御本尊を厨子の中に安置して扉を閉めたままにしています。知り合いの東京のお寺では年二回御開帳の日を決めて、その日に盛大に法要を勤められている所もあります。国宝や重要文化財の指定を受けたが為に、定期的に御開帳をしなくてはならなくなったというお寺もあります。それがために、御開帳していないときには金箔などまばゆいばかりであったのに、毎年御開帳をしているお蔭で輝きが薄れてきたと心配されるケースもあるようです。また長野の善光寺の御本尊である三国伝来の善光寺如来のように絶対秘仏として御開帳すら認めない仏様もあります。

なぜ秘仏なのか。調べてみますといろいろな理由が考えられるようです。まさに保存や安全のためであるとか。その霊験、御利益のためであるとか。御開帳したときのありがたさのためであるとか様々です。ですが、私は、これはもともと仏様とは姿形ではないからであると考えています。姿形からその仏さまの教えなり、御利益やメッセージなどを受け取るという大事な意味もあることはありますが、やはり仏様とは、特に本尊様となるような仏には、姿や形ではそれを受け取って欲しくない、教え、真理、智慧というものを感じ取って欲しいということではないかと思います。

そもそも仏とは、教えを説く人のことです。お釈迦様は自ら「如来は法を説く者なり」と仰られているように、まさに法を説かれる存在こそが仏なのだといえます。だからこそありがたい教えが今日まで残り伝えられてきて、私たちはその教えにより、苦しみを除き心癒やすことができています。

あたりまえのことですが、賽銭を投げて手を合わせ御利益を戴くための存在が仏ではありません。貴重な金銭を投じて欲心を祓い、一時だけでも合掌して仏を拝し、心あらためた功徳により何事かが得られるかもしれないということに過ぎません。本来であれば、仏様の前でお経を唱えたり、念仏をしたり、真言を唱えて、心静かに念じて心浄める、そうしてこその功徳、それを御利益と言い換えているのすぎないでしょう。

ですから、仏とは、教えであり、真理であると考えるからこそ、たとえば、五輪塔、そこから派生して仏塔、仏塔の一つとしてお墓の石も拝む手を合わせる対象になるのです。五輪塔は、地水火風空の五大を表し、それがこの宇宙の成り立ちであり、そのものであるから、宇宙の真理そのものを体とする大日如来そのものであるということから五輪塔は仏そのものであると考えられるのです。そして、その五輪塔の一番下の方形だけを長くしたものとして縦長のお墓があり、仏塔として拝するということになります。

ですが、もちろん、美しい仏像を前にして、信心心を起こすということもありましょう。ですから、古の仏師が心を込めて彫刻した素晴らしい美しい仏像を意味の無いものだとか、本来のものではないなどといいたいわけではありません。思わず見とれてしまうような仏そのものを感じ取れる見事に制作された仏像が実際に存在することも確かなことでしょう。

それはそれとして、秘仏をどう考えるべきかということについて思考するならば、本尊を秘仏としているお寺の御本尊は、それを姿形として捉えずに、その教えを説き伝える存在としてあると考え、教えを弘め精進修行に努めるべしというメッセージを秘めた存在として受け取る必要があるのではないかと思えるのです。つまり、より積極的に仏教を、仏の教えを実践として受け取るべし、いかすべし、伝えるべし、との仏の意志を感じ取るために秘仏があるのではないかと思うのです。


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仏道の実践とは (禅看護師)
2019-01-10 22:51:20
いつもブログ拝見しています。
今日まで冬季休暇でしたので、北陸の観光と共に数寺をお参りして来ました。
永平寺と大乗寺では坐禅の体験もさせて頂きましたが、永平寺は沢山の観光客が訪れていましたが、他のお寺は殆ど人を見かけませんでした。
冬の寒い時期であるせいもあるかもしれませんが、それだけ仏教への関心が薄くなっているということではないでしょうか?
私自身も仏教に関心を持ち始めたのは最近の事で、それまでは殆ど興味がありませんでした。
もう10年以上前の話ですが、私の実家が檀家になっている寺院が相続争いで裁判沙汰になっていました。
今の僧侶はベンツを乗り回し、お寺は煌びやかな装飾が並び、妻帯もし、お酒を飲み歩いている方も多いと聞きます。
私はそういうことを見聞きするにつけ、僧侶に対して嫌悪感を抱いていました。
高いお金を取って葬式をするだけで、一般の人と何が違うのかと。
タイなどは今も仏教の信仰が厚いと聞きますが、僧侶は妻帯もせず、托鉢をし、瞑想の時間を多く設けていると聞きます。
今回永平寺で一泊の参禅研修に参加させて頂いて、若いお坊さんが非常に厳しい修行をされていて流石大本山と思いましたが、
数年の修行を終えればベンツを乗り回す生活をされるのかと思えば有り難みも薄れてしまいます。
単なる私の僻み根性ですが、僧侶の方の多くは檀家制度に甘えて何もしなくとも生活が成り立つので、修行や勉強をしなくなり、一体仏の教えを実践しているのかと疑問に感じてしまいます。
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禅看護師さまへ (全雄)
2019-01-11 17:15:12
何日間かの休暇をお取りになられ仕事から離れて生活ができて幸せですね。私は、と言いますか、ほとんどのお坊さんは休みなしでしょう。檀家制度に甘えて何をしなくても生活が成り立つなどという誤解は如何にしたら解消されるのでしょうか。

ベンツを乗り回す坊さんは全体の何パーセントでしょうか。ごく一握りの人をすべてみんなそうであるとお考えになるのはいかがなものでしょうか。お酒を飲み歩く坊さん、いないことはないとは思いますが、それもいかがでしょう、ごくわずかな人でしょう。

そんなに楽でもありませんし、無為に日を送っている人はありません。みんな夜でも電話が鳴ればだれか亡くなられたのだろうかとの心配がはしるものです。まったくの休みの日などありません。法事も行事も、事務仕事もなければ、境内の整備、掃除に明け暮れているのがお寺のほとんどの坊さんの姿でしょう。

どこかにゆっくり出かけようと思っていても、どなたかが亡くなったと電話があれば、すべてをキャンセルして、枕経に伺うのが僧侶です。ただ、勉強をしない、修行をしないというのは当たっているかもしれません。日夜修行、常に仏教書を紐解く、そんな生活が理想です。

様々な仕事の合間を見てそうありたいと常に考えております。あなたの思われるような坊さん像は、作られたものでしょうが、そう思われるような体たらくな現状なのが今の日本仏教だということでしょう。心してそうならないように努めたいと思います。新年早々に戒めのお言葉と受け止めたいと存じます。ありがとうございました。
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