朝日新聞6月20日朝刊に、「千の風なぜヒット」と題する記事が掲載された。テノール歌手秋川雅史さんが歌うCD『千の風になって』が売れ続け100万枚に達する勢いだという。亡くなった人が残してきた遺族に向かって語りかける内容の歌詞が、身近な親族を亡くした人々を癒す曲として、また40から60代の人々にとっては身近なテーマが歌われた曲として関心が注がれている。
このブログでも既に触れた内容ではあるが、今一度、その後の展開について一言しておきたい。まず、亡くなった人が風になったり、光や雪、鳥や星に形をかえて遺族のそばにいると語る歌詞に万物に精霊が宿るというアニミズムを想起させ、あたかも、この曲を支持する人々がそうした宗教観を併せ持ち、または求めていると考える人もあるという。
しかし、この曲はそこまでの信仰を説くものであろうか。私は、そこまでの宗教観を要するものとしてではなく、急に死に至った故人を悼む遺族に、亡くなった人になり代わって、すぐそばにいると思って早く元気を取り戻して欲しい、自分がいなくなっても変わらずにいて欲しいという願いを素直に表現したものと受け取ったらいいのではないかと思う。だからこそお墓で泣かないで欲しい、泣いて欲しくないと告げる。
そして、死者がお墓にはいない、眠っていない、死んでいないとも歌詞にある。このあたりのことを朝日新聞でも取り上げ、「日本人が共有してきた仏教的な死生観とは異なると違和感を表明する仏教者もいる」と記す。はたして日本人が共有してきた仏教的死生観とはいかなるものなのだろうか。
日蓮宗現代宗教研究所主任伊藤立教師の言葉として「成仏や浄土があることで安心して臨終を迎えられ、残された人も葬儀や回向という儀礼を通じて死者と向き合えるのが仏教だ」としている。本当だろうか。成仏とは何か。浄土とは何か。と、突き詰めて考えるならば、それはそんなに簡単なことではないことが知られよう。
つまり、死んだら成仏できる。死んだら浄土に行けると簡単に安易に人の生死を語り済ませてきた日本仏教に対する信頼が今の現代人にはないということを、この曲に対する多くの人々の支持は意味しているのではないか。戒定慧の三学に基づく実践を僧侶もないがしろにしている日本仏教を信じていないということなのではないか。
そんなに簡単に成仏できるのなら、なぜお釈迦様ほどの機根のある方が6年間もの苦行を行わねばならなかったのか。死んで即身成仏できるなら、どうして弘法大師は何度も求聞持法をなされたのか。念仏したら死後浄土にいけるのであれば、なぜあれほどまでに浄土教のお祖師方は自己内省を繰り返したのであろうか。
成仏する、浄土に行くのはそんなに簡単なことではない。日本で死して「成仏しました」と言うのはただ「亡くなった」ということを意味するにすぎない。仏教の教えも学ぶことなく実践もせずに、「亡くなれば引導を渡します、そうすれば仏の世界に行けます」と言ってしまう、誠に安易な日本仏教の法の説き方を支持しないということではないか。
また、浄土教では浄土に往生したその後については触れることがない。たとえ仏国土に往生したとしても、それで終わりではないということをきちんと説くべきではないのか。元々の仏教という教えとの整合性を付ける意味でも日本仏教のあり方が問われねばならない。日本仏教だけ特別ではあり得ない。世界の仏教徒の常識を受け入れないあり方、そのものが問われているのではないか。
「亡くなっても生きていて欲しいという千の風に表れる気持ちは、未練がどこまでも残ってしまうように感じる」ともある。『千の風になって』が、あたかも死者にすがる気持ちをいつまでも起こさせるとの心配をされているようだ。しかし、この曲で癒される人々は、ある程度の期間を経て、今をしっかり生きようという心の転換を果たしていかれているようだ。何時までも死者に未練が残るのではない。
打ちひしがれ、精神的に大きな痛手を負った人たちを励まし、勇気づける元気づける曲としてこの『千の風になって』を受け取ったらいいのではないか。しかし、だからといって、その歌詞にある内容は、決して仏教的に不具合のあるものではない。
死者の心がお墓にないのは当然のことであって、死後寿命を終えた身体を脱ぎ捨て49日間は私たちと同じこの三次元の空間におられるのだから、風になったり、雪になったり、光になったと思って身近に死者の心を感じる期間を経て、輪廻転生して再生を果たせば、死んでなんかいませんという歌詞に繋がっていくのである。
だから私は、この『千の風になって』は、誠に良い内容の曲であり、寂しさを感じるものでもないし、現代の私たちに意味あるメッセージを伝える曲であると思っている。
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日記@BlogRanking
このブログでも既に触れた内容ではあるが、今一度、その後の展開について一言しておきたい。まず、亡くなった人が風になったり、光や雪、鳥や星に形をかえて遺族のそばにいると語る歌詞に万物に精霊が宿るというアニミズムを想起させ、あたかも、この曲を支持する人々がそうした宗教観を併せ持ち、または求めていると考える人もあるという。
しかし、この曲はそこまでの信仰を説くものであろうか。私は、そこまでの宗教観を要するものとしてではなく、急に死に至った故人を悼む遺族に、亡くなった人になり代わって、すぐそばにいると思って早く元気を取り戻して欲しい、自分がいなくなっても変わらずにいて欲しいという願いを素直に表現したものと受け取ったらいいのではないかと思う。だからこそお墓で泣かないで欲しい、泣いて欲しくないと告げる。
そして、死者がお墓にはいない、眠っていない、死んでいないとも歌詞にある。このあたりのことを朝日新聞でも取り上げ、「日本人が共有してきた仏教的な死生観とは異なると違和感を表明する仏教者もいる」と記す。はたして日本人が共有してきた仏教的死生観とはいかなるものなのだろうか。
日蓮宗現代宗教研究所主任伊藤立教師の言葉として「成仏や浄土があることで安心して臨終を迎えられ、残された人も葬儀や回向という儀礼を通じて死者と向き合えるのが仏教だ」としている。本当だろうか。成仏とは何か。浄土とは何か。と、突き詰めて考えるならば、それはそんなに簡単なことではないことが知られよう。
つまり、死んだら成仏できる。死んだら浄土に行けると簡単に安易に人の生死を語り済ませてきた日本仏教に対する信頼が今の現代人にはないということを、この曲に対する多くの人々の支持は意味しているのではないか。戒定慧の三学に基づく実践を僧侶もないがしろにしている日本仏教を信じていないということなのではないか。
そんなに簡単に成仏できるのなら、なぜお釈迦様ほどの機根のある方が6年間もの苦行を行わねばならなかったのか。死んで即身成仏できるなら、どうして弘法大師は何度も求聞持法をなされたのか。念仏したら死後浄土にいけるのであれば、なぜあれほどまでに浄土教のお祖師方は自己内省を繰り返したのであろうか。
成仏する、浄土に行くのはそんなに簡単なことではない。日本で死して「成仏しました」と言うのはただ「亡くなった」ということを意味するにすぎない。仏教の教えも学ぶことなく実践もせずに、「亡くなれば引導を渡します、そうすれば仏の世界に行けます」と言ってしまう、誠に安易な日本仏教の法の説き方を支持しないということではないか。
また、浄土教では浄土に往生したその後については触れることがない。たとえ仏国土に往生したとしても、それで終わりではないということをきちんと説くべきではないのか。元々の仏教という教えとの整合性を付ける意味でも日本仏教のあり方が問われねばならない。日本仏教だけ特別ではあり得ない。世界の仏教徒の常識を受け入れないあり方、そのものが問われているのではないか。
「亡くなっても生きていて欲しいという千の風に表れる気持ちは、未練がどこまでも残ってしまうように感じる」ともある。『千の風になって』が、あたかも死者にすがる気持ちをいつまでも起こさせるとの心配をされているようだ。しかし、この曲で癒される人々は、ある程度の期間を経て、今をしっかり生きようという心の転換を果たしていかれているようだ。何時までも死者に未練が残るのではない。
打ちひしがれ、精神的に大きな痛手を負った人たちを励まし、勇気づける元気づける曲としてこの『千の風になって』を受け取ったらいいのではないか。しかし、だからといって、その歌詞にある内容は、決して仏教的に不具合のあるものではない。
死者の心がお墓にないのは当然のことであって、死後寿命を終えた身体を脱ぎ捨て49日間は私たちと同じこの三次元の空間におられるのだから、風になったり、雪になったり、光になったと思って身近に死者の心を感じる期間を経て、輪廻転生して再生を果たせば、死んでなんかいませんという歌詞に繋がっていくのである。
だから私は、この『千の風になって』は、誠に良い内容の曲であり、寂しさを感じるものでもないし、現代の私たちに意味あるメッセージを伝える曲であると思っている。
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日記@BlogRanking
成仏については、本来、阿羅漢果を得ることを言うわけですから、個人の修道上の問題です。時代によって、困難な状況をもたらしていることを考えれば、阿羅漢かを得られる人がごくごく少数になっている現実は致し方ないことと思います。
輪廻転生は、インドの古来の考え方であるとされますが、その輪廻を思想として、仏教の生命観にまで構築されたのはお釈迦様だと言われています。日本以外のすべての仏教徒は輪廻思想の上に仏教があることを受け入れています。
日本人も江戸時代までは誰も輪廻思想に疑問を呈する者は無かったと思います。西洋かぶれした近代仏教学者たちによって、ねじ曲げられた輪廻否定論を支持する必要はありません。私は、輪廻について、ただ、お悟りになったお釈迦様の言われたことですから、ただ受け入れる姿勢でいるのです。
世界の仏教徒がみんな認めているものをなぜ日本人は認めたくないのか。そのことこそが不思議だと、なぜ思えないでしょうか。平安末期から浄土教がはやりましたが、極楽とは天界に輪廻することではないのですか。
極楽に行っても、輪廻は終わりません。そうした仏教徒の常識をまるで認めずに、浄土には往生するけど、輪廻などないという方がおかしな言い方なのです。
地獄極楽がある方が、世の中が平和になるはずです。業という考え方があってはじめてそのことは成立してくるわけですが、業によって、すべて私たちは、物の見方行いが規定されていることに気づけば、自ずと、それによって導かれる輪廻が別に不思議なものとは思わなくなるでしょう。私たちはただ業を生きるために一時的に体を借りているに過ぎないのですから。
その言葉をそのまま何とかお釈迦様のおっしゃりたいことを素直に理解し、思索し、実践を重ねていくのが仏教徒の生き方だと思います。
お釈迦様のおっしゃった言葉は、時代に関係なく、真理そのものですから、今の時代に当てはまらないものはありません。かえって、後にできた教えの方が時代遅れになっているということをご理解下さい。
仏教の仏教たる根本をおさえて物事をお考え下さることを念願します。
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米国のお葬式で読まれていたこの詩に感銘し、3年ほど前から自分が司会するお葬式でも朗読し始めた知人がいます。洋の東西を問わぬ、霊性・感性の美しさを感じます。しかし、紙面で意見を述べられているどの方々のご意見も、この感性と微妙に違うように思います。せっかく「死者が生者に語りかける感覚に驚いた」と気付きながら、これを草木や石にも霊が宿るアニミズムと結び付けているのは飛躍でしょう。この詩は「風・光・鳥・雪」だからこそ、「ふりそそぐイメージ」があるからこそ受け容れられます。また「浄土感・成仏感」を理解されていない詩とありますが、このふりそそぎ感を往相回向と一対にある還相回向と読めば、死を恐れず生きる勇気を与える仏教感にほかならないと思います。最後に「地域社会との離脱」や「家から個」へのトレンドと結びつけているのは、さらに飛躍を感じます。ふりそそぐ語りかけの主語は、「死者たち」という複数形ではないでしょうか。「ご縁のあった人々」「先祖たち」を「風」という言葉に象徴的に感じながら、仏壇やお墓に手を合わせる極めて自然な日常に戻ろうと、現代人にきっかけを与えてくれるあたたかい詩だと感じたいものです。