住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

「千の風になって」の誤解

2007年05月16日 10時38分10秒 | 様々な出来事について
『千の風になって』
   
 私のお墓の前で 
 泣かないでください
 そこに私はいません 
 眠ってなんかいません

 千の風に
 千の風になって
 あの大きな空を
 吹き渡っています
 秋には光になって 
 畑にふりそそぐ
 冬にはダイヤのように 
 きらめく雪になる
 朝は鳥になって 
 あなたを目覚めさせる
 夜は星になって 
 あなたを見守る

 私のお墓の前で 
 泣かないで下さい
 そこに私はいません 
 死んでなんかいません

 千の風に
 千の風になって
 あの大きな空を
 吹き渡っています

 千の風に
 千の風になって
 あの大きな空を
 吹き渡っています

 あの大きな空を
 吹き渡っています

アメリカで話題となった『Do not stand at my grave and weep』に、小説家の新井満氏が訳詩を手がけ、自ら作曲して話題となった。原詩の作者は不明だそうで、アメリカ女性Mary Fryeが友人のMargaret Schwarzkopfのために書いた詩がもとになっているともいわれている。

また、この歌はナチスドイツから逃げてきた亡命者がナチスドイツに残してきた母の訃報を知り悲しむ親友のために慰める為に作ったという説もあるようだ。9.11同時多発テロの犠牲者追悼式でも唱えられ、またJR福知山線事故など様々な犠牲者の遺族を慰める曲として社会現象にもなった。

そして、今、この曲が一人歩きして宗教界、特に仏教界に一つの波紋を投げかけている。実は、私のところにも、年初からこの曲の歌詞には亡くなった人が「私はお墓にいません」とありますが、と問われる人があった。

中外日報5月8日付社説「千の風の曲が宗教界に響く時」には、「死者は墓にいないで風になっているというのだから、葬儀の脱宗教化と、どう結びつくであろうか」とある。

また、ある宗派の研究機関の問題提起として「仏教が弘まっているはずの日本で『千の風になって』が注目されているのは仏教の教えが理解されていない、支持されていないということでしょうか」とも記されている。

短いコメントなので、その真意が計りかねるのだが、日本仏教として、お墓と亡くなった人とがどうあると考えるのかがはっきり示されていないように感じる。もしくは、はっきりと言えないのだろうか、または理論と認識が相違しているのであろうかとも思える。

それぞれに宗派によっても考え方が違い、それぞれ僧侶も考え、思いが違うのではないか。そこには、宗派の教えばかりを重んじ、本来しっかり学ぶべき仏教教理の根本が理解されていない今の日本仏教の現状を露呈しているようにも感じる。

丁度、先週開かれた國分寺仏教懇話会でこの話題が話し合われた。石仏の取り扱いに触れたときに、この「『千の風になって』の歌詞にあるように、亡くなった人はお墓にはいないのですから」と言うと、一人の方から「お墓に亡くなった人は居ないんですか」と問われた。

これまでにも懇話会では、お墓の話をしてきているので、皆さん理解されているだろうと思っていたが、ことはそう簡単ではないとこの時了解した。小さいときから、亡くなった人に会いに行こうとか、お墓に参って静かにお眠り下さいと思ってきた思いはそう簡単には払拭されないということだろう。

また昨日、近くの知人が来てこんなことを言われた。「これまでお墓参りして馬鹿を見たわ、『千の風になって』で、お墓に私はいませんって歌っているのに」と。川柳でもこの手の笑い話があるそうだ。お墓に亡くなった人がいないのだから、墓参りをしないいい口実ができたというものらしい。

はたして、このような理解でよいのであろうか。千の風に歌われているから、お墓に亡くなった人がいないのだから、お墓にも参る必要もない。実に現代的な割り切り方とも言えようか。まず、歌にうたわれているから、何事も正しいと思ってしまうことは、余りにも短絡的過ぎよう。

また、お墓に亡くなった人がいないとして、だから墓参りは必要ないというのも、いかがなものか。それでは、ここで、はっきりと仏教的にどのように解釈すべきかを述べてみよう。まず、亡くなった人はお墓にいるとはどのようなことか。

お墓に亡くなった人の心がおられるということは、仏教では生きとし生けるものは死後六道に輪廻転生するとしているのに、転生できずにこの世に未練を残したままとどまっていることだと言えよう。亡くなった人は、49日後に来世に行かれているのだから、お墓にはいない。

私たちは、この身体が自分だと思いこんでいる。だから、亡くなった人もその遺骨がその人だと思ってしまう。私たちはこの身体をもらって、生きているだけで、身体は寿命を終えたら、脱ぎ捨てて、来世に行かねばならない。

どこへ行くかはその人の一生の行いによってもたらされる亡くなった瞬間の心に応じたところと言われている。だからこそ、私たちは仏教の教えを学び間違いのない生き方をしなくてはいけない。

では、お墓にいるからお参りが必要で、いないなら墓参りは必要ないのであろうか。お墓とは、亡くなった人に仏塔建立の功徳をささげ、その功徳を回向するために建立するのである。

だから、亡くなった人がいなくても、足繁く墓に参り灯明線香花を供えて荘厳し、その功徳を来世に赴いた故人に、前世の家族として回向してあげることは大事なことであろう。

また、亡くなった人が、風になったり、雪になったりする歌詞に反響があったことで、あたかもアミニズム(自然精霊崇拝)が支持されたごとくに解する人もあるようだ。

しかし、あくまでその部分は、突然家族を亡くし心傷ついた人が、亡くなった家族は身近にいてくれるのだと思うことで、心を癒すための設定程度に理解したらよろしいのではないか。

この曲に心癒され、身近な人の死から、人が生きるということ、死ぬということをしっかりと捉え、豊かに生きていくための一つのステップだととらえればよいのではないか。

歌詞の一つ一つにこだわり、そこから現代に生きる私たちの宗教観を問うこともなかろう。それよりも、この話題から、きちんと人の生き死にについて、それがどのようなことか、ではいかに生きるべきかと語ることが先決なのではないか。

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25 コメント

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お久しぶりです。 (さるなーと)
2007-05-17 14:51:07
昨年の今頃、三原より自転車で立ち寄りました者です。
その節は、お忙しいご様子で、話が出来ませんでした。
ブログもまた、仏縁かと感じ、コメントさせて頂いております。
ぶしつけですが、思いのままに、遍路紀行を、フィクションにしてみました。
ご意見など、いただければ有り難く存じます。
お体に気を付けて、日々、お勤めください。
返信する
理由をつけたがる、、、 (たかひろ)
2007-05-17 20:09:30
全雄 君へ

さて、「千の風になって」は自然と人の繋がりを
まろやかに心地よく、当たり障りなくぼんやりと
表現しているので、の多くの曖昧な人々の心を
掴んでいるのでしょう

癒される、心地良いと感じていると、人の脳は
あまり働いていないという学者もいますし、、、

リラックスと鈍感、緊張と覚醒は「紙一重」な状態
なので、もう少し心身に刺激を与えれば良くなる
と感じています、、、

昨日の件も、そういう事だったと感じています

では、また
返信する
癒しとは心を鈍感にすること (全雄)
2007-05-18 07:43:35
なるほと゜。そうかもしれません。

余りにも一つの心に突き刺さった悩み、傷ついた心にとらわれている状態を鈍感なものにすり替える切っ掛けが千の風になってなのかもしれませんね。

そう何か刺激がないと覚醒しない。みんな覚醒せずにどんより日を送っているということですか。

千の風になっては、それを聞いてそこに留まることなく、その後の心の歩みに移行していかねば何にもならない。その切っ掛けとしてあるのだと思います。
返信する
文学として。 (さんとう花)
2007-05-24 23:19:10
おじゃまします(^o^)
「千の風になって」は、私も友人からの紹介で拝聴しました。
和訳された、深くて静かな精神性の感じられる詩も素晴らしいものですが、英語の方は美しく韻を踏んでいて曲がなくても文学としても堪能できるとのこと。
この詩は聴いた人、読んだ人が各々の感想を持って故人を偲ぶきっかけとなれば良いのではと思いますが。
ただ、短絡的に亡くなった人がお墓にいないならお墓参りは不要と考えるのはあまりにも安易ですよね・・・(-_-;)
返信する
文学性 (全雄)
2007-05-25 13:12:38
お久しぶりです。お元気そうで何よりです。そうですね、文学として鑑賞するということになれば、それはそれで、きちんと良くまとまった内容で素晴らしいものだと思います。

だからこそここまでみんなの耳に届き、耳に馴染んで普及したのでしょうね。ただ、内容が良い、聞きやすいというだけでは駄目だということなのですね。

私の駄文は未だその程度ということなのかもしれません。
返信する
歌詞の原詩 (keis)
2007-12-18 20:58:56
この詩は、ネイティブインディアンが残した言葉です。
ディパックチョプラ氏の書籍で紹介されています。
インディアの哲学者は誰もが知っている歌です。
正しく伝えて欲しいものですね。
返信する
素直に受け取りたいもの (flog)
2007-12-28 18:14:31

亡くなった人から残された人へその想いを伝える詩として、素直に受け取ればよいのではないのでしょうか。
ところで、仏教ではお墓という物理的な存在、あるいは墓参りという行為が無いと、死者は救われないのですか?
返信する
お二人に (全雄)
2007-12-29 08:34:48
keisさん、そうですか。日本ではあまり知られていませんね。他の人の情報からこのように書いてしまいました。

flogさん、いろいろと仏教者がとかく言うものですから、私なりの意見を書いたまでです。

お墓はインドでは作りませんし、お墓参りもしません。ですが、亡くなった人の命日にはお坊さんを招待して食事を食べてもらい簡単なお経を唱えてもらって功徳を積み回向することはなされています。

ですから、お墓、お墓参りというのは私たち日本人の風俗習慣に基づき仏教的な意味づけによって、なされているものだと思います。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-10-03 19:58:31
6年もたってからごめんなさい
最近知人の葬式で流れてきたもので一言
それが本当に亡なられた方の想いだったならいいのですが
それを担ぎ出しているのは残された側の人です
残された側が勝手に自分たち残された人に「泣かないで」と言ってるのです
おかしいと思います
本当は悲しんでいないんじゃないかと思ってしまいます

故人が泣かないでと言った事に生きてる人がいやだいかないでと駄々をこねるならとても分かります

その逆で残った人が勝手にいってもいいと言ってるのが不快です
返信する
Unknownさんへ (全雄)
2013-10-04 15:38:50
コメント有り難う御座います。

今もお葬式でこの曲を流す人がいるのですね。

どのような思いでされるのかは皆それぞれでしょう。

おっしゃるとおり、残された者の勝手な思いなのかも知れませんが、それによって、少しでも心癒される人があるならそれはそれで良いのかもしれないと思います。

曲を流した人よりも深く傷つき悲しみに沈んでいる人の心を軽くしてあげたいという思いでなされたものかもしれません。

お墓の前で泣かないで、というのは泣くなと言うのではなくて、故人がお墓の中で暗くつらい思いでとどまっているわけではないということでしょう。

故人は、亡くなるときにはたとえ苦しみもだえて亡くなっていったとしても、いまは身体の束縛を離れ、自由になり、次の世のために心羽ばたいていますよという曲だと私は思っています。

残った人が勝手に言っているのではなく、そう思いたい、そう思えば少しでも気持ちが楽になれますということではないでしょうか。
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