住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

ものわかりのいい人ではいけない

2012年02月05日 11時54分31秒 | 様々な出来事について
今、私たちのまわりには30才40才になっても結婚しない人、結婚しても子供を産まない人が結構いるだろう。そして親たちも、「困ったわ」と言いながら、本人の問題だからと余り口やかましくも言わないという親が多いのではないか。夫婦共に仕事をしていたら子供も作らない方が良いからと、また子供がいたら自分の時間もなくなると作らずにいるという夫婦も多い。

また、立派な息子娘がいるのに、老後は子供たちの世話にならない、迷惑を掛けたくないという人たちも多い。そういう世の中の風潮、 時代の流れなのだと言われるとそんなものかと済ましてしまいがちであろう。みんなそうよと言って済ましてしまう人も多い。世の中、誠にものわかりのいい人で溢れている。そんな風に思えるのだ。

果たして本当に結婚しない、子供を作らないということでいいのだろうか。と、本当は誰もが真剣に考えなくてはいけないのではないか。別に国の少子化対策に賛同して、ものを言っているわけではない。私たちは、人としてそれでいいのだろうか、と考えなくてはいけないと思うのである。

実は先日もある人と話をしていて、娘も息子もいるけれども二人とも結婚していないという。娘さんは「お母さん、私は自分のしたいことがあるのにどうして結婚したり、子供を産まなくてはいけないのかしら、そんなことしていたら自分の夢を実現できないじゃない」と言うので、それはあなたの人生だから好きにしなさいと言ったのだという。

また、息子は、「結婚なんて何でしなくてはいけないんだ、そんな面倒なことしないで自分一人自由気ままに生きていきたい」と言うのでそれもいいだろうと言ったとか。それでいて、ご自分のことは、「将来何があっても老後も娘息子の世話にはならないと決めている」という。それがあたかも立派な自立した人としてあたりまえだと言わんばかりの自信をもって言われているようにも感じた。

そこで私は、「本当にそれでいいと思っておられるのですか、みんな今しか見えてないんです、自分が歳を取ったとき、どんなことになるのか、まわりに今は友達が沢山いたとしても、みんながみんな結婚しない、子供がいないというわけではない、そんなとき自分だけ何もないと分かったとき、一人でいて歳を取ったときどれだけ寂しい思いがするのか想像できないだけではないですか。みんな結婚して大変な思いをして、子供産んで、何もかも自分のことを諦めて子供のために尽くす、そんなことを経てみんな大人になり、愛情というものが分かり、みんな生きていくっていうことが大変なことなんだと分かる。そうして人は成長していくものなんではないですか」思わず、こんなことを話していた。

どうして子供なんか産まなくてはいけないのかという娘や息子がいたら、なら、あなたを私は生まない方が良かったの、と聞くべきではないか。人は生まれてくるときから親にお世話をかけ、みんなまわりのお蔭で大きくなってきたはずなのに、自分が一人大きくなったように勘違いしている人が多すぎるのではないか。

自分がそうして大きくなるにはどれだけの人たちの手を煩わし、迷惑を掛け、いろいろ教えられ今があるということに気づかねばならない。生んだらそれっきりという他の動物と違う、人として大切に育てられ教育されて、今があるということを知るべきではないか。恵み、恩というものに気づかねばいけないのであろう。そして、そういうことにきちんと気づけて、はじめて人は人として心を成長させていけるものなのではないかと思うのである。

老後のお世話も、子供たちに大いに迷惑かけたらいいのではないか。そもそも、何で迷惑とかと言うのであろうか。余りよく機能していないのかもしれないが介護保険制度によるケアーもある、そうして出来る限り小さな時にお世話をしてくれた老親に恩返しをする絶好の機会として子供たちもなすべきであろうかと思う。みんな順繰りなのだから。みんな老人になるのだから、いずれ自分も世話を掛ける、だから自分の親の面倒を見るのは当然だと思うべきなのであろう。

ところで、今、私たちのまわりにはこうしたあたりまえのことを言う人が心細いほどいないと思うのである。みんなあたりさわりなく、事なかれ主義で、真綿に包んだようなことしか言わなくなったと感じる。なんでなのだろうか。世の中のこと、政治のこと、経済のこと、みんな新聞テレビを見て、それに流されてしまって、書いてあるとそのまま鵜呑みにしてしまう。時代はこうだとテレビで言うとそれが当然のことだと思ってしまう。新聞に書いてあるとみんなそんなものかと思ってしまう。はたしてそれでいいのだろうか。

おいおい、そんなことでいいのかという人が居ない。何を書いてるんだ、おかしなこと言っちゃいけないぜという思いをきちんと言うべきなのだ。私たちにとっての本当のこと、そんな事じゃダメだと言ってくれる大人がいなければいけない。苦口をたたく面倒なオヤジがいない世の中は平和でいいといって済ませられることではない。

そんな頑固で、きちんと世の中の風潮に対して一言言える人間が必要だと私は思う。みんな苦しんで大変な思いして、泣いて泣いて大きくなるんだ。我慢して我慢して耐えてやり遂げるから、やったー、よかったという感激があるんだと。苦しむから幸せが何かとわかる。大変な思いをするから人間が出来るんだと。こうしたあたりまえのことをきちんと言う国でありたいと思う。

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9 コメント

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奔流から抜け出して (のりこ)
2016-03-02 06:18:50
分娩台の上で、産湯を浴び産着を着せてもらった我が子を抱いて、ああこうして肉欲の果てに産まれたからには、この子はやがて必ず死ぬ運命なのだなあと思いました。ごめんなさい、ごめんなさい、と可愛い可愛い赤ん坊に謝りました。女が罪深いと言われるのは、こうして死を産むからでしょう。有精生殖である限り死は必然です。個々人の嘆きも喜びも、つかの間の夢と幻想として、大きな生命の奔流に巻き込まれ押し流しながされていきます。人、という種はそうして続いていきます。
その種の保存に貪欲な命の奔流から抜け出して、静かな存在になりたいと心から願うものです。
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コメントありがとうございます (てんこ様へ)
2012-04-20 15:32:27
何事とも自分の頭で考えるということがとても大切だと感じています。世間の常識とかしきたりとか慣習みたいなものからぬけだして、自分ですなおに発想し直すということが大切だと思っていろいろと書いております。

自分の我が儘というのがどんなことか分かりませんが、私は、自分が悪いなと思ったら、素直にすいせまんでした、自分のこんなところがおかしかったと話すようにしています。

相手の方がそれをどう受け取ろうが、自分にとってそれが一番気持ちのいい解決法だと思うからです。

許しを請うとかではなく、自分の気持ちを素直に話されたらよろしいのではないでしょうか。

自己満足とかではなく、みんな過ちを犯すから人間なんですから、自らの非を改めて、そのことから学んでいくという姿勢が大切ではないでしょうか。

誰しも問題を抱えて生きています。完璧な人はいません。そのお相手の方も問題だらけのはずです。完璧なら人として生まれてくることはないのですから、その方も自分も同じ人間なのだと思ってお互いに素直に話されることが大切なのだと思います。
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素晴らしいブログ (てんこ)
2012-04-18 13:32:11
何て素晴らしいブログを発見できたのかと喜んでいます。

色々な意見があるようですが、資本主義の世の中の理論に当て嵌めながら読むと、なかなか理解されないのかなと思いました。


ブッダの教えに沿い、シンプルな論理で考えると、人間は生まれて生きて、子孫を残して死ぬ。こういうことなのですよね。
これをお金や損得で考えるから、不自然な形になってくる。
いろいろな形はあるでしょうが、人間はそれ以下でも以上でもないのですから、それに沿っていけば良い気がします。

ひとつ教えをお願いします。自分の我が儘を恥じ、相手に許しを請うのは自分の自己満足でしょうか。良い形の許しの請い方があれば教えて頂きたいです。または、自己満足だとして黙っていた方が良いでしょうか。未熟者ですみません。
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度々す子様へ (全雄)
2012-03-27 16:48:17
はじめまして、ご覧下さり、コメントまで残して下さって恐縮です。

返信が大変遅くなり失礼しました。


これは、自分だけ良かれと思う心について少し書いただけなのですが。

さとってもいない坊さんが仏の心を装って、優しく皆さんのしたいように手助けすることが皆さんの望まれていることでしょうか。それが仏教でしょうか?

汚れとは何でしょう。何でも自分のしたいようにしたい、そんなことを望む心こそが汚れているのではないでしょうか。

この文章の意図をもう少し読み取っていただけるとありがたく思います。
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Unknown (度々す子)
2012-03-18 15:57:02
う~ん。
人をおもいやるうえでの言葉とは思いますが、仏の道にいるのなら、何故、こういうことを言うのかな?
いい子でないと愛さない親、の言葉みたい。
失敗したって成功したって、人はいつも、人ではないですか。
仏は成功した人、いい子でないと愛さないのですか?
それと同じように、結婚しようがすまいが、子を産もうが産まない(産めない人も、種のない人もいるのです)だろうが、人は人。
なんであろうと、どうであろうと、俗人以上に、人を批評評価、判断せず、慈しみ受け入れることが、坊主の勤めの一つではないですか?
坊主はただ悟り導き敬い慈しみ過去現在未来を仏の心で見守ることが、俗人からの願いだよ。
汚れを嫌い、清きことのみを助ける奴は、坊主、止めなはれ。
汚れこそ救い見守ることが、坊主ぢゃねえのか?
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同感です (全雄)
2012-02-08 17:18:32
タレントとしてそれを売りにしながら、結局はその少数派の人たちを変わった人たちというように貶めているようなテレビ番組のあり方は問題ですね。

普通にしているべきです。

言われるように、愛というのは性別を超越したものであるということを世間に知らしめるために、そのような人たちをこの世に送り出してくれているように思えました。
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致し方の無い事 (茉莉花)
2012-02-07 19:02:26
こんばんは。日本では性的少数派は受け容れられてはいるものの、未だに浸透していません。そういった人間の中には、世間の目を気にして、それを隠してカモフラージュの形で結婚する人も少なくないのです。しかし、私としては、それが本人にとって本当に幸せなのかというと、甚だ疑問です。
海外では、同性婚を法律で定めている国が増えているそうで、実際に同性で結婚したと言う人が居たりします。有名なアーティストで同性婚をしたという話題をチラホラと事があります。
同性であれ、異性であれ、愛する事に変わりはありません。結婚は、異性の為だけにある訳じゃない。共に添い遂げたいと思う者同志が永遠の愛を御約束する為の儀式です。日本はその辺りの意識がまだ遅れています。
今はテレビで、おネェタレントが目立っており、もてはやされていますが、返って性的少数派への差別を助長している気がしてなりません。何か笑いものにしている感じがします。男性同性愛者で見ると、実際には、ごく普通の男性です。おネェ言葉なんて喋りませんし、女装も趣味では無いのです。中にはそういう人もいますが。基本的には、一般の男性と何も変わらないのが現状です。違っているのは、同性が好きなだけ。女性も然り。
けれど、世間の風潮では、気持ち悪い、変態と罵られます。
人の愛は、異性だけのものでしょうか?
違う。自他の垣根を越えて魂が一つに成る事。それこそが愛ではないでしょうか。
人がどちらを愛そうと、それを壊す権利は誰にも無い。
人は愛というものについて、もう一度考え直す必要があるのではないでしょうか?
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いつもありがとうございます (全雄)
2012-02-06 14:20:47
いつもご覧くださり、コメントをいただきありがとうございます。

言われるとおりですね、経済的な理由で結婚も子供も諦めざるを得ない人たちも沢山いる時代ですね。ご指摘の通りです。ですが、ここで書きましたのは、勿論そのような人たちを非難するために書いたものではなく、自らの気ままな思いから結婚せず子供を産まずということを選択している人たちのことであります。

マッリカさんのお母さんの思い、またご姉弟の気持ちは尊重されて当然だと思います。

いろいろな事情を抱えている人たちのことを気遣うことなく、ひとまとめに書いたことで不愉快に思われましたならばお詫び申し上げます。
返信する
結婚と子供 (茉莉花)
2012-02-05 23:30:05
こんばんは。
今子供を設けられない理由に、経済的な面もある様に思います。結婚したは良い、けれども、子供を育てられるだけの余裕が無い。子供を産めば、当然莫大な費用が掛かってしまう訳で、余裕の無い人には荷が重過ぎます。但し、贅沢する金欲しさに子を産まないと言うのは論外ですが。
最近の親は、身体ばかり大きくて、中身が育って居ない人が多いと思います。母曰く、バブルの時代から、親の様子がおかしくなったと言うのを聞いた事があります。その頃は、生産性が第一で、精神的な教育がおざなりになっていた事に起因している様です。それが今の時代に結果として現れている様に思います。
あと、結婚に関しては、矢鱈と離婚する人が目立ちます。何の為に結婚して居るのか分からない。結婚というのを甘く見過ぎて居るのではないでしょうか。結婚したら、甘い生活が待っているなんて大間違い。本当は我慢の連続。今の大人には忍耐力と言うのが無いのか?と思ってしまいます。私の母を見ていると、結婚するというのはどう言う事か分かります。私の父は母はおろか、家族にすら目を向けない人。しかし、母は、私や姉に愚痴をこぼし乍らも、忍耐強く父を愛し続けています。もう結婚して約30年近く続いています。母は、二十歳に姉を産み、その翌年に私は産まれました。普通なら、まだ遊んで居る年頃ですが、既に子育てに奮闘していました。姉も幼いながらも、私のお世話を手伝っていました。
母曰く、姉は私のおしめを泣き乍ら替えていたそうです。
本当は、姉と私の前に2人の男子が生まれる予定だったのですが、父方の親にいびられた上、父までも一緒になっていびった為に、堕胎せざるを得ない状況となり、その二人は、今はお大師様のお膝元(高野山)にいます。私と姉が居るのは、母の苦難があったからこそ。
母の家族を想う心が強かったからこそ、今があります。
母は、私に結婚についてはああだこうだとは言いません。長く子供を観察していただけあり、私に異性への性的関心が無いのをよく知っています。姉に対しても、かなり男性嫌いであるのを理解してます。姉に対しても同様。
母としては、男であれ、女であれ、本当に一緒になれる相手が出来ればそれで良い。無理に結婚する必要は無い。無理して結婚して不幸になる位なら、しない方が良い。というのが母の考え方です。
本人がそれで幸せなら、母としてはそれが一番幸せだと言っていました。
私がこうして伸び伸びと生きられるのは、母のお陰です。
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