住職のひとりごと

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<救われるということ>2

2012年02月13日 09時27分59秒 | 仏教に関する様々なお話
1月29日に投稿した「救われるということ」を、先日、寺内行事・仏教懇話会にて、檀家さんたちと読んで少し解説をしました。解説しつつ皆さんの顔色を見ながら、様々なことに思い至ることになりました。それはどんなことかというと、私たち日本では人が亡くなることを仏になった、成仏されたと言ってしまうことによって、仏教の悟りということと死ということが混同されているようなのです。

人が亡くなると仏さんのところに行ったなどと表現をしてしまうこともあります。だから、その後皆さんで少し話し合ってもらったときも、普通に死ねたら救われたと思っていいのではないかというような話になってしまったのです。孤独死や不慮の事故というようなことではなく、普通に遺族に見守られ死ねることが救われるということだという解釈の仕方です。

何十年もこのような解釈、つまり、人の死はイコール仏になるという表現をされることに慣れてしまうと、そのこととお釈迦様の悟りということを別のものとして捉えられないということなのでしょう。これまで、何度も何度も悟りについて、またお釈迦様の教えについて語ってきたのですが、いざ自分の死について考えたり、身近な人の死ということになると、これまでの仏教の話とは整合せず、過去に人が亡くなった時に何気なく語った、死者を前に成仏されましたと言ってしまうことや、お墓に仏さんに会いに行こうというような表現によってもたらされた思いがどうしても先に立つということなのでしょう。

亡くなった人に仏さんと言うことは、日本人が様々な場面で忌み嫌う言葉を避けて真綿にくるんだようなものの言い方をすることの典型と言えるでしょう。このような表現の仕方が、特に死については全国民に同じような表現の仕方が浸透し、そのことによって、さらに仏教者も同様な表現をしてしまうことで、相乗的にさらに一般の人々には仏教というものが分からなくなっているのではないかと思えます。

またこのような受け取り方の根本には、人は亡くなるとみんな仏になるということを漠然と思うような風潮があります。みんな浄土に身罷る、曼荼羅の世界に行く、仏の世界に行くというような表現がなされ、お葬式や法事の場面でも何気なく仏教者自身もそのような安易な表現を使うことによって、漠然とそのように思っているということもあるようです。鎌倉時代の新仏教によって、みんな浄土に行けるのだという思いが、おそらく布教者の意図とは別に日本全国に染み渡り、それを旧仏教も批判できずに相乗りするかたちで安易に仏教者が浄土に誰でもが行けるとする教えにくみしてしまったことが大きな原因としても上げられるでしょう。

だからこそ、前回には、「仏の世界とは快適なのだろうか」という副題も掲げたわけではありますが、そのようなことと自分のこととが結びつかないという印象を持つに至りました。このことは一般的な問題として日本人に本来の仏教を説くことの難しさを思い知らされるのです。特に、何度も家族の死を看取ってきた人たちには難解のように思えます。

遠藤周作氏の「沈黙」という小説があります。江戸時代初期にキリスト教の宣教師が何人も日本に布教に来るわけですが、いずれも布教がなった、沢山の人々がキリシタンになったと思っても、日本人キリスト者の多くが自分たちの信仰による、つまり自分たち本意の解釈によるキリスト教になっていて、日本という土壌は自分たちの思いとは違う沼地のようなものだというのがこの小説の言わんとしたところなのです。

どんな苗を植えてもその沼地は根が腐り葉が黄ばんで枯れていくと。正に、仏教自体も日本人の日本人独特の解釈になる日本教に成りはててしまっているかの印象を再認識させられた思いがするのです。この問いかけは新潮文庫『日本仏教史・思想史としてのアプローチ』(362頁より366頁)で末木文美士先生が指摘されていて、それを読み「沈黙」も読む機会を与えられたのでしたが、正に先生の言われるとおりであると肯んぜざるを得ないのです。

日本仏教とは何なのか、何が仏教かという定義も難しいような現状ではありますが、ただこの死に関する問題について言えば、やはりはっきりと仏教者が、死ぬことと仏教で言う成仏とは違うのだと言うべきでしょう。みんな死後は輪廻するのだという世界の仏教徒の常識を語るべきなのです。世間的な言い方に惑わされ、安易に仏教者が、みんな仏の国に行く、浄土に行くとしか言えないというのが問題なのです。

あたかも輪廻とは非科学的なインドの伝承に過ぎないと捉え、お釈迦様は当時のインドの民間信仰を使って布教されただけである、無我を説くのだから輪廻などしないなどという解釈をあたかも現代の知識人として当然であるかの物言いはそろそろ止めた方がいいでしょう。前世の記憶がないから前世がないなどという仏教学者もいますが、お釈迦様の神通力でご覧になれたことを単なる凡夫が簡単に前世の記憶があるとかないとか言う方がおかしいのです。(宮本啓一『仏教かくはじまりき・パーリ仏典大品を読む』春秋社参照)

現在、世界の仏教徒と交流する各宗派にあって、国際化の時代のその交流に物足りなさを感じるのは私だけでしょうか。資金援助が国際交流などではありません。同じ仏教徒として思いをぶつけ、考え方をすりあわせて現代に向けて共に手を携えてはじめて国際化の意味もあるのではないでしょうか。そうしてこそ日本仏教の歪さ、不思議さが自ずから分かろうというものです。

そして、関連して死に方がよければ救われるという考え方について申し上げるならば、たとえば、震災で多くの非業の死を遂げた方たち、津波で瞬く間に死に追いやられた人たちはそれでは救われないのかということが問題になります。仏教ではすべてのことに原因があるとします。ですから、そのような不慮の事故に遭われた方々にはそれなりの原因があったことでしょう。

それは今世のというよりは前世のいやもっと過去の過去世からの因縁だったのかもしれません。それがこの度の不意に起こった災害によってそれが縁となり結果したと考えるのでしょう。ですが、亡くなられて身罷られたところ、来世では、その悪業が消えられてより善いところに行かれているものと考えられるのです。突然の事故、災害によって、今生での生を突然失われたショックはあることでしょう。

ですが、誰しもその危険性がある現代社会の中で私たちは生きています。小学生の通学の列にトレーラーが突っ込んで何人もの子供たちが亡くなる現実、小学校に精神錯乱者が刃物をもって侵入して殺害された子供たちもいました。それらも同様に考えなくてはいけないのでしょう。そのような社会を私たち一人ひとりが作っているのだということも考えなくてはいけないでしょう。

みんな一度きりの人生だとしたならば、そのような不慮の事故、災害で亡くなってしまった人たちをどのように考えるのでしょうか。残された遺族の救いはどこのあるのでしょうか。みんな来世があるのだ、突然亡くなったとしても、みんな、この世でしっかり生きていたら、決してそれが無駄になることなどない、善いことをしていたら、それらの善きことが来世で報われる、きっと今生で過ごした沢山の楽しい思い、家族と共に過ごした幸せな時間もそれが善き業となって、来世には善いところに生まれ変わり、新しい家族の中できっと幸せに過ごしてくれるはずだと、そして前世の家族である自分たちも亡くなった人と共にこの世でしっかり生きていこうという気持ちになれるならば、何もない、ただ無為に命を無くした、何のために短い人生があったのかなどと思うよりも、亡くなった人も遺族もきっと救われるのではないかと思うのです。

もちろんそう思えるようになるには時間は必要でしょう。ですが、そのように考えることによって私たちは納得し希望を持つことが出来ます。『久しく遠くにありし人、無事に帰来せば、親戚朋友、これを歓迎するがごとく、善業をなして現世より来世にいたる者は、その善業に迎えられる。親戚、その愛する者を迎うるがごとく』(法句経219・220)とお釈迦様が教えられています。輪廻するというのは、ですから、救われる思いを導くことの出来る教えなのであります。

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浄土思想の背景 (茉莉花)
2012-02-13 18:46:23
こんばんは。浄土思想の発端には不安定な情勢が背景にある様です。鎌倉新仏教以前の宗派は、貴族や僧侶だけにしか仏法を説いて居ませんでした。当時の庶民は文字も書けませんし、読む事すらもままなりませんでした。そこで、法然を筆頭に念仏やお題目を唱える事で成仏出来るという教えが広まり、瞬く間に信者が増えていきました。平安末期から、鎌倉時代にかけては、疫病や戦乱、海賊の襲来等と荒れて居た事もあって、人々は、不安に駆られたのでしょう。末法と終末がごたまぜになり、末法=終末論といった展開に発展。結果、他宗を廃し、法華経のみを崇めよと言ったり、念仏のみせよという様な、狂気じみた教義にエスカレートしていきました。そこ迄ひっ迫していたのでしょう。今でも法華宗の一部では、未だに鎌倉時代其の侭に、他宗を攻撃して居る所を見掛けます。他宗はおろか、他の宗教迄攻撃する始末です。彼等は今はどういう時代であるか知るべきです。
それはさておき、旧来の仏教も便乗して浄土思想を取り込んでいますね。其の侭だと、念仏宗や法華宗に信者が流れていってしまう為、敢えてそうしたのだと私は推察しています。真言宗で見ると、新義真言宗は浄土思想が入っています。在家勤行を見てみると、古義真言宗に比べ、真言を唱える箇所が光明真言と、三昧耶戒、発菩提心と少なくなっています。十三仏に至っては、『南無不動明王、南無釈迦牟尼如来…』といった感じです。かなり念仏に近い仕様になっています。
真言宗と言うより、『真言浄土教』と私は呼びたい。
私自身は、古義真言宗の内の高野山真言宗に信を置いています。古義真言宗は、お大師様から続くオリジナルの教えです。
私は、ただ題目を唱えれば、ただ念仏唱えればと言った教えがどうも好きになれない。努力を放棄している様な感じがして嫌なのです。自ら行動し、努力するからこそ、生きる意味がある。寧ろ、その方が仏教の教えに適うと思うのです。古義の教えに身を置いていると、そう思えるのです。あの世に浄土期待するのではなく、自分に与えられた役目をしっかりと全うする事。来世の心配をしている暇は無いのです。大事な事は、いざ死を前にした時、自分は沢山の後悔を残さなかったかどうかです。沢山の後悔を残せば、その後悔に苦しめられる事になる。それこそが地獄ではないでしょうか。逆に沢山残さなければ、それだけ安楽出来ます。それこそ極楽です。人生の結果は、死の間際に現れるか、死後に現れるか…それは人によりけりですが、今生きている間は、ひたむきに生きる事が大切かと思います。人々を笑顔にした分だけ、自分は安楽の境地に立つ事が出来る。この世に浄土を創ると言うのは、こういう事を言うのではないかと思います。この世に浄土を創る事、それは、思い遣りに溢れた人間社会を作る事に他ならないと私は思っています。
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Unknown (全雄)
2012-02-18 08:55:25
茉莉花さん、いつもコメントありがとうございます。

私は自分の書いたこの記事を何度も読み返しています。皆さんに誤解を与えるところがないか、何か不備はないかと思いながら。

きつく思える表現は訂正しましたが、他に不明な部分はないと思えました。輪廻という発想は今の日本人には余りなじみのないものかも知れません。しかし、私たちの祖先たちはみんなそういう思いの中で暮らしていました。

だからこそ極楽なのです。極楽を願える。何もない、無に帰すならこの世の苦しさは耐えることは出来なかったのでしょう。頑張っていたら報われるのだという思いを実現するためにも輪廻という教えは大切なものなのです。

死んだらみんな仏になるという発想は実は輪廻などないみんな死んだら無に帰すという発想と同じ事なのです。何をしていても一緒、どんな風に生きていてもいいのだということになります。

今のような現世だけしかないような生き方になります。これはとても危険な社会だといえましょう。
返信する
悟りの困難さ・・・ (マックス)
2012-03-31 14:32:44
 先達て、名古屋に行く機会があり、大須観音へ行って参りました。その札所の御詠歌が「もものかず 拝み巡りて 罪深き 我が身もやがて 仏なりけり」と書かれてありました。「もものかず」という意味が、「百の数」なのか?どう言う意味があるのか小生には分かりませんが、観音様を拝んでおればt罪が多くあっても死ねば、「仏になる」という意味なのか?と思いました。小乗仏教と大乗仏教とでは大きく信者の在り方と申しますか、生き方が違ってくるのでしょうが、ただ口先だけで「仏教徒です」と言っても今の多くの人たちは、「何宗ですか?教えは?」と問うてみても答えられない人がほとんどではないか?と思います。そこへ来て、「救いとは?」と問うても、宗旨の教えが信者(檀家)に浸透していなければ釈迦の教えも宗派の教えも分からなくて当然かと思います。

 そのために御寺さんでは、説法や法話(というのでしょか?)で、それを説かれる(解かれる)のでしょうが、そのような事を行うお寺もあれば、何もしないお寺もあるのでしょうね。

 キリスト教では毎週日曜日にカトリックであれ、プロテスタントであれ説教を聴きますが、「馬の耳に粘土」状態というのが実情だと思います。

 わたしは、仏教に関して疎いものですが、「輪廻天生」という思想は、元来釈迦の思想には無かったと聞いています。インド仏教がインドの中でヒンドゥー教を経由しているうちにそのような思想が入って来たと聞いた様な気がするのですが・・・。
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返信 (全雄)
2012-03-31 17:23:09
マックスさんへ、初めまして、ご覧下さり、ありがとうございます。

輪廻転生は、確かにお釈迦様の少し前の時代にインドで流行した教えではありますが、それをきちんと因果論として体系化し、生命観、倫理観としてまとめられたのはお釈迦様でした。

現代の仏教学者の中にはその人たちが大勢のようですが、輪廻をそのようにお釈迦様の真説ではないという人たちが居ます。明治時代に近代科学思想を学び輪廻などを単なる架空の話として説けなくなった人たちの系統に属す人たちです。

しかし、日本に仏教が伝来してより、ずっと日本人も他のアジアの仏教徒と同様に輪廻を信じて生きてきました。だから、後生が悪い、そんなことをしたら地獄に堕ちるとか、お祖父さんの生まれ変わりだというような言い方がされてきたのです。念仏も、来世で地獄ではなく極楽に逝きたいからなされるものです。

初期経典をお読みになれば、輪廻ということをお釈迦様が沢山の場面で語られていることを知ることができるでしょう。
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尊答謝し奉ります (マックス)
2012-04-03 10:47:31
 それぞれの「宗教」によって表面だったことは言われますが、なかなかその宗教やその教派で言われている事とは、大差があったりするのですねぇ。

 そなると どの宗教と出遭うか?で、他の宗教とは縁遠くなってしまいますねぇ(自分の宗教を学ばなければなりませんから)。

 御釈迦様は人間なのでしょうが、そこから「観音」や弥勒「菩薩」、阿弥陀「如来」などという専門家ではない私にすれば、「観念が生みだしたものではないのか?」と思ってしまう疑問点が出てきます。

 仏教を理解しようと思えば、それだけでも気が遠くなりますし、日本仏教は多宗派に分かれてしまっているので、余計に分かり憎いです。

いつの日か、豊後国分寺に全雄先生をお訊ねするのが夢です。
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マックス様 (全雄)
2012-04-06 08:26:38
お便りありがとうございます。

私は沢山ある仏菩薩はお釈迦様のおさとりからすべて始まったものと解釈しています。

お釈迦様の智慧をお分けしたものに過ぎないということです。

仏教を理解したかったら、純粋なお釈迦様の教えを学ぶことです。沢山の宗派を学ぶのはその後からすべきです。

お釈迦様の教えからすべてが始まりました。確かな先生の正真なる仏教を学ばれて下さい。

因みに私は、増谷文雄師の「仏教の思想・智慧と慈悲・ブッダ」(角川ソフィア文庫にあります)から学び始めました。


尚、こちらは、備後の國分寺です。広島県福山市にあります。お越しの際にはご一報下さい。
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